15

 消毒薬の匂いが部屋中に満ちていた。

 薄く開いた目を瞬く。

 突き刺すような白い光に目を眇めると、傍らに覗き込む顔があった。

「起きた?」

 眩しいほどの蛍光灯の光を背に、原口が心配の滲む声で言った。

 白いカーテンが天井から引かれている。

 さわさわと、人の行き来のする気配が絶え間なくしていた。

 扉は薄く開いたままだ。

「…あ、れ?」

 ここは…

 自分はどうしたのだろうと一瞬思い出せなかった。起き上がろうとして、旭は全身の鈍い痛みに顔を顰めた。

「あーほら、そんな急に起きんなって」

 原口に処置用のベッドに押し戻される。そこでようやく旭は何があったかを思い出した。

 村上と階段で鉢合わせをして──揉みあっているうちに階段を落ちたのだ。

 旭はゆっくりと息を吐いた。覚えてるか、と聞かれて頷いた。

「ごめん、原口」

「なんでおまえが謝んだよ。いいからまだ寝てろ。今、脳震盪の結果待ちなんだよ、もう処置は終わったから」

「…うん」

「左足の捻挫と、右腕はひびが入ってるって」

「そっか…」

 段々と思い出してくる。

 落ちたときの記憶がぼんやりと浮かんだ。揉みくちゃにされたようで、揺れていた視界。どうやら体を捩ったまま1階分の階段を転がり落ちたようだ。踊り場の壁に頭を強く打ち付けたところで気を失った。

 途中何度かうっすらと意識を取り戻した気がする。救急車を呼ぶより早いと、会社の近くの病院まで社用車で運ばれたのを、意識の外側に感じていた。ぼんやりとすべてが靄がかかったように曖昧だった。

 誰かが叫んでいた。

 あの場に最初に来たのは松井だっただろうか。

「原口…」

「ん?」

 ぽつりと旭は言った。

「…あの人、どうなったんだ?」

 村上はどうしただろう。

 こんなことになって。

 はあ? と吐き捨てるように原口は言った。

「知らねえよ、あんなヤツどうなったっていいだろ」

 首をそっと横に向けると、丸椅子に座った原口が心配と怒りの入り混じった顔で、ベッドに横たわる旭を見下ろしていた。



「じゃあ西森さん、もう帰られて大丈夫ですよ」

 30分程してから様子を見に来た医師と看護師が、にこりと会釈をして仕切りのカーテンを開けて部屋を出て行った。脳震盪の検査結果は、一時的に気を失いはしたものの程度は軽く、何の異常も見られなかった。このまま安静にしていれば大丈夫との事だった。

「よし、行くか」

 夜間受付で会計を先に済ませて来てくれた原口が処置室に戻ってきた。ビジネス街にある病院とあってか、ここは診療時間が普通の病院よりも長めに取られていた。終業時間は深夜だ。

 借りてきた松葉杖を旭に渡し、原口は会社から持って来たふたり分の荷物を手に取った。コートを旭の肩に掛け、袖を通すのを手伝った。

 ああそうだ、と思い出したように原口は呟いた。

「携帯、画面はひでえけど、壊れてなくてよかったな」

 そう言って、サイドテーブルに置かれていた旭の携帯を差し出した。ベッドに腰かけたまま、旭はそれを受け取る。原口が言ったように画面には蜘蛛の巣のように亀裂が入っている。ホームボタンを押すと画面が明るくなった。ちゃんと動いていることにほっとする。時刻表示は21時過ぎを映していた。3時間も経っている。

 穂高はどうしただろうか。

 今日は穂高と会うことになっていた。

 連絡もせずにすっぽかした旭を、彼はどう思っただろう。

 待ち受けに穂高からの着信の通知はなかった。

 怒ってるよな…

 今さら慌てたところでどうしようもない。

 家に戻ったら連絡を入れようと、旭はコートのポケットにそれを仕舞った。

「大丈夫か? 歩ける?」

「うん、大丈夫」

「ゆっくりな」

 捻挫している足首はがっちりと固定されていて、思ったよりも楽に歩けた。

 処置室から出て、少し先に行く原口の背を追う。

 あ、と原口が声を上げた。

 つられるように旭も顔を上げて、立ち止まった。

「ちょっとここにいろよ」

 原口が走り出し、病院の正面玄関の自動ドアをくぐった。

 ガラス扉から漏れる病院内の明かりが玄関周りを照らしている。光の届かない向こうの暗がりから、誰かが走って来るのが見えた。原口が迎え、二言三言話し、原口は戻って来た。

「西森、ほら、おまえの──」

 背の高い影がその後ろにあった。

 幼馴染、と原口が得意げに笑って、穂高を振り返った。


***


 帰り着いたのは自宅ではなく、穂高のアパートだった。

 病院に担ぎ込まれた後から鳴り続けた旭の携帯に、原口が今日幼馴染と会うと言っていた旭の言葉を思い出したのは、旭が目を覚ます少し前だった。

 掛けてきているのはその幼馴染だろうと原口は思った。

『ごめんっ! 悪いと思ったんだけどさ、おまえの指で指紋認証ロック解除して俺が電話に出たんだよ』

 ごめんな、と穂高の車に乗り込む旭を手伝いながら、原口は言った。

『会うって言ってたし、事情を話したらさ、車ですぐ迎えに行くって言うから、俺が頼んだんだ。その体じゃひとりでいるよりいいだろ?』

 そう言われてしまえば、旭は何も言い返せなかった。

 ありがとう、と旭が言うと、原口はゆっくり休め、と言って手を振ってくれた。

『何かあったら連絡するからさ』

『うん』

 検査結果待ちの間に松井から連絡があり、旭はとりあえず1週間の自宅療養ということになっていた。

「ちょ、…大丈夫、だから」

 歩けると言ったのにもかかわらず、穂高は旭を抱えるようにして車から降ろし、エレベーターまで運んだ。エレベーターが穂高の部屋の階に着くとまた抱えられ、まともに歩かせてはもらえなかった。

 こんなところを誰かに見られたらと思うと気が気でなく──ここは穂高が生活しているところだし──旭は抵抗したが、怪我をしている身では強くも出来ず、近すぎる距離に息が止まりそうになる。

 どうしてこんなことになったんだ。

 壊れ物のように玄関に入れられ、穂高が鍵を掛けている間に、旭は逃げるように壁を伝って自力で奥に進もうとした。

「うわっ──」

「おい!」

 よろめいた腰を掬い上げられる。振り返れば、明かりもまだ点けていない薄闇の中に、恐ろしく顔を歪めた穂高の顔がすぐそこにあった。

「何やってんだ!」

 その表情の鋭さに、ぎくっ、と旭の体が強張る。怒っている顔に心が刺されたように痛む。待たせたあげくに迷惑をかけて、こんな顔させて、どうしようもなく苦しくなった。

 やっぱり家に帰ると言えばよかった。

 穂高と1週間も一緒にいられない。

 気持ちを隠しきれるとは思えない。

 明日、どうにかして家に…

「ごめ…」

 言いかけた言葉が半端で止まった。

 床に膝をついた旭の背を覆うように、穂高が強く旭を抱き締めてきた。

 振り向いた体勢の、半分捩れた旭の体を穂高の腕が掻き抱く。

「旭…っ」

 縋りつくように大きな手が旭のワイシャツの胸元を掴んでいた。握りしめる指先が、肌に食い込む。

 呼吸が、出来ない。

 どうして、なんで。

 なんで──

 見開いた目を瞬かせて、旭は浅く息をした。

 穂高の髪の匂いが鼓動を跳ね上げる。

「だ、だいじょうぶ、だか、ら」

 何でもないと無理やりにでも笑おうとした。

 ゆっくりと、穂高が顔を上げる。

「──」

 穂高の目は涙に濡れていた。

 赤く充血した目。

 泣いている。

 息を呑む旭に、穂高の顔が近づいて来た。何も考える暇もなく穂高の唇が頬を掠めて、軋むほどに強く抱き締められた。

 


 時間になっても姿を現さない旭に、仕事が遅くなっているのだろうと穂高は思っていた。

 待ち合わせたのは旭の会社の近くのカフェだった。

 だがそれが1時間になり、何の連絡もないことに段々と嫌な予感ばかりがしてきた。

 旭が何も言わずに約束を反故にするとは考えにくい。

 何か──あったのではないか。

 もしかして、あの男が?

 携帯を掴んで連絡を入れようとして、穂高はそこで迷った。

 旭はもう子供ではない。

 あのときとは違う。

 自分と同じ歳の大人だ。

 社会に出て働いている大人なのだ。

 本当にただの仕事中かも知れないではないか。

 何度も躊躇って、結局不安のほうが勝り連絡を入れた。

 旭は出なかった。

 メッセージも既読にならない。

 穂高は店を出た。

 時間を置いてまた同じことを繰り返した。

 何度も何度も鳴らした。

 こんなに遅くなるものか。

 旭の会社まで行ったが、すでに施錠されていて、明かりも落ちていた。

 何があったんだ。

 得体の知れない焦燥がせり上がってきて、叫び出したくなったとき、前触れもなく通話が繋がった。

 旭、と言おうとするよりも電話の向こうの声のほうが早かった。

『もしもし! 西森旭の携帯ですが』

『──』

 混乱した頭に、その男は言った。

『もしかして西森の幼馴染の人?』

 男は、自分は同僚の原口だと名乗って、手早く穂高に事情を教えてくれた。

「旭…っ」

 あのときの気持ちをどう表わしたらいいだろう。どうやって旭に知られずに済むだろう。

 言葉にならない。

 もう限界だと穂高は思った。

 失うくらいなら、もうこれ以上気持ちを隠しておくことなんて出来ない。



「穂高…?」

 抱きすくめてくる腕が、背骨を折りそうなほどに力を込めている。隙間もなく合わさった胸の奥で、心臓がどくどくと脈打って、旭は燃えるように体が熱くなるのが分かった。

 離れないと。

 離れないと気づかれてしまう。

 穂高が好きなことに。

「俺、だいじょうぶだよ…?」

 そんなに痛くもないから、とそっと体を捩ったが、逆に引き寄せられた。

 旭の肩に埋めた穂高の額が、ゆるくかぶりを振った。

「嫌だ」

 肩から浮いたコートが、ゆっくりと滑り落ちていった。ひやりとした空気にさらされた首筋に、穂高の熱い息がかかる。

 旭の背筋が震えた。

「穂高、も、いいから…っ」

 離れたい。少しでもいいから。

「嫌だ」

「離し、…っ、俺は、大丈夫だから」

「そんなわけねえだろ!」

 耳元で声を上げられて、旭の体が強張った。その強張りを宥めるように穂高の大きな手が旭の背を撫でていく。

「いつも、いつもそうやって、大丈夫大丈夫って…! 何が大丈夫なんだよ、全然違うだろうが⁉」

「──…っ」

「旭が大丈夫って言うときは全然大丈夫なんかじゃねえ、そんなの分かってるんだよ!」

 旭の心臓が飛び出しそうなほどに跳ねている。

「ずっと、分かってるんだ…!」

 言葉の激しさとは裏腹に、背を撫でる穂高の手は優しかった。

 混乱した頭の中で、ひとつのことが浮かび上がり、消えていく。

 そしてまたひとつ。

 浮かんでは消えるそれを必死で旭は掴もうとした。

「いつもそうだ、いつも旭は平気だって笑ってばっかりじゃねえか…! 俺が、俺が──」

 守りたかったのに、と呟く声。

 肩が濡れていた。

 撫でていた穂高の手が、いつしかまたしがみつくように旭の背をきつく掴んで抱き締めてくる。

 その苦しいほどの強さに旭は泣きたくなった。

 ああ、そうだ。

 ああやっぱり──

 …よかった。

「畜生…!」

 旭は無事だった左手を穂高の大きな背に回した。

 ぴく、と震えた肩に手を滑らせて、穂高の髪に触れた。

 ずっと昔に一度だけ、こうして抱き合った記憶。

 同じ髪の感触。

 アキ、と旭は穂高を呼んだ。

「俺のこと…、本当は覚えててくれたの?」

 掴んだ手の中の光は頼りない。そうだといいと思いながら旭は返事を待った。

 やがて穂高が顔を上げ、頷いた。

「ずっと覚えてた」

 自分の髪を撫でる旭の手を取り、穂高はその手のひらを自分の頬に押し付けた。

「ずっと、俺は──旭だけが、…旭だけなんだ」

 手のひらに唇を押し当てられる。

「好きだ、ずっと…ずっと──好きなんだ」

 その熱さに旭の目からぽろりと涙が落ちた。

 そうか。

 穂高も、そうなのか。

 零れた涙を穂高の指がすくう。

「俺が怖い?」

 そんなわけない。

「旭が嫌なら、触ったりしない。何もしないから…治るまででいいから、ここにいてくれよ」

 返事をしなければと思うのに言葉は上手く出てこなかった。

「駄目か? 嫌?」

「違…っ」

 旭は首を振った。

 違う。怖いわけない。

 右手をどうにか持ち上げて穂高の唇を指先で辿る。

 自分もそうだ。

 ずっと、自分でも気がつかないところで穂高が好きだった。

 好きだ。

 こんなに──こんなにも。

 長く不在だった心の中でその存在が膨れ上がって…

 視界が滲んだ。

「旭が泣くの見たの、二度目だな」

 困ったように穂高がかすかに笑った。

 涙を追って拭う指先に唇を当てた。堪らない。

「アキ…、ちあ、智明」

 もう溢れ出してくる。

「俺も──」

 好きだと言った。

 すぐに噛みつくように唇を塞がれた。


***

 

 誰もいないのは見てすぐに分かった。

 旭の部屋には明かりが灯っていない。

 病院はもう出たはずだ。

 あいつのところに行ったのか。

 あの男のところに──

 暗がりの中に身を潜めていた吉沢はゆっくりと外灯の下に身を晒した。旭の住むマンションをじっと見上げ、噛み締めた奥歯がぎりっと音を立てるのにも構わなかった。

 オレのものなのに。

 胸の奥がぎりぎりと軋んで、許せないと思った。

 オレのものなのに──

 オレがアイツを蹴落としてやった。

 だからもう旭はオレのものなのに。


***


 まるで大事なもののように扱われる。

 明かりのない部屋で、運ばれたベッドの上で、ワイシャツを脱がされスラックスと下着を下ろされた。

 湯で温められたタオルが体を拭っていく。風呂に入れない旭のために穂高が何もかもをやると言って聞かなかった。

 恥ずかしさに俯いた顔を上げられ、首筋をゆっくりと柔らかなタオルで撫でられる。その丁寧さにぞくりと背筋から快感が這い上がってきて、旭は固く目を閉じてそれをやり過ごした。

「…気持ちいいか?」

 頷くと、手が離れていった。

 何もかもを晒しているのに、気がつかないわけがない。

 意地が悪いと旭は唇を噛んだ。

 穂高の大きなスウェットを着させられる。下着は、旭を迎えに来るときに車を店に取りに行った穂高が途中で色々と買い込んできたものの中にあった。

 そっと足を抱えられ、跪いた穂高に片足ずつ穿かせられた。ゆっくりと、ひどくゆっくりと引き上げられ──思わず旭は下着を持つ穂高の手を掴んだ。

「も、あと、自分でやる…!」

 くすっと穂高は笑って、掴んできた旭の手を逆に捉え、ころんと旭を押し倒した。

「あっ、やっ…、やだっ」

「今日は、これで我慢するから」

 穂高の胸に抱き込まれて布団を被せられる。暖かい。穂高がかすかに笑う気配がした。

 とろとろと意識が溶けていく。

 旭の髪を撫で、もう眠ろう、と言う穂高の声が遠くに聞こえた。

 

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