14
翌朝、出勤した直後に旭は同じ課の女性に呼び止められた。
「西森さん──あの」
「おはよう。…どうしたの?」
慌てた様子の彼女に旭は首を傾げた。派遣会社に所属している彼女は普段とても礼儀正しくて、朝の挨拶もせずに声を掛けてくること自体がありえないことだった。
「課長が呼んでます」
来たか、と旭は思った。
村上の耳に昨日のことが入ったのだろう。
企画課のほうから正式な苦情が上がったのかもしれない。案外早かったなと旭は思った。
「分かった。ありがとう」
「あの、ミーティングルームの2番で…」
旭は頷いて、席に荷物を置きコートを掛けた。
原口はまだ来ていなかった。
「…西森さん、大丈夫ですか?」
村上が旭を理不尽に詰ることは課の誰もが周知していた。心配そうに眉を下げる彼女に、旭は安心させるように笑った。
「大丈夫だよ」
またあとで、と言って課を出た。ミーティングルームは1階上にある。階段で上がり、半透明のドアをノックした。廊下に面するガラス窓にはブラインドが下りたままだ。
入れ、と声がした。
「失礼します」
6人ほどが入ればいっぱいになる正方形の部屋の中、中央のテーブルを挟んで村上は窓際に立ち、入って来る旭をじっと見ていた。
「おはようございます。あの、御用だとお聞きしましたが…」
ドアを閉めた途端、中央のテーブルの上に村上が書類を投げつけた。紙の束が解け、テーブルに散らばった。
低く唸るように村上が言った。
「おまえ、どういうつもりだ?」
「どういう──」
テーブルの書面にさっと視線を走らせる。視界の端に重要という印が見えた。赤い印──
「書面を出すのが至急とあったなら、それを言えばいいだけの話だろうが!」
ばん、と天板を叩きつける。村上の出した声の大きさに、一瞬部屋中が震えた気がした。
「…それは、お伝えしたと思いますが」
「俺は聞いてない、おまえが言い忘れたんだよ」
「……」
旭は村上には見えないようにして手を握りしめた。
ここで反論して、言った言わないと言い合ったところで水掛け論に過ぎない。それは分かっている。だが…
「課長、僕の伝え方が足りなかったのなら申し訳ありませんでした。でも…」
「でも?」
旭の言葉を受けて、村上の目が吊り上がる。ばん、とさっきよりも激しくテーブルが揺れた。足で蹴りつけたようだった。
「でもだと? おまえっ──」
ノックの音がその声にかかり、ドアが開いた。
「おはようございます、課長」
旭が振り返ると、ドアを開けたのは松井だった。
「…何だ松井、話し中だぞ」
村上はさっと取り繕うように顔を変えた。
それは旭以外の人間に見せる、普段の顔だ。だがそのことに松井は触れなかった。
「ああすみません。でも至急ですので。お話がお済みでしたらちょっとよろしいですか?」
村上が憮然とした様子で松井を睨むように見据えた。わずかに落ちた沈黙のあと、村上が旭をちらりと見てドアのほうに顎をしゃくった。
「もういい、行け」
「…はい」
旭は頭を下げ、ドアに向かった。すれ違いざまに松井に会釈をすると、彼が分からないほどごくわずかに頷いた。
それに気づいた瞬間にはもう松井は旭から視線を逸らし、村上に歩み寄っていた。
「これなんですが──」
手に持っていたものを差し出している。ふたりが話を始める前に旭はもう一度頭を下げ、ドアを閉めた。
松井に助けられたのだとため息が零れた。
課に戻ると、先程の彼女──小林が旭に駆け寄ってきた。
「西森さん、あの…」
何か言いたそうに口籠る。それを見て、小林が松井をあの場に寄越したのだと旭は分かった。
「松井さん呼んでくれたの?」
「すみません、わたし、勝手なことして」
いや、と旭は首を振った。
「ありがとう、助かったよ」
「そ──そうですか、…よかったあ」
ほっとしたように小林は肩の力を抜いて笑った。余計なことをしたのではないかと心配していたのだろうと、旭は安心させるようににこりと笑った。
そこに原口が騒々しく入って来る。
「おはよー、なあ今日めっちゃ寒くない?」
原口に挨拶を返すと、小林は旭に会釈をして自分の仕事に戻って行った。
え、と原口が呟く。
「なに、小林さん? どした?」
「いや、おはよう」
珍しい組み合わせに原口は首を傾げていたが、旭が何でもないと言うと、それ以上は問わなかった。
席に着くなり大きな欠伸をする原口に旭は苦笑する。
「寝不足か?」
「そー、昨夜さあ…」
涙目を向けて、原口は昨夜の吉沢との飲みの話をし始めた。面白おかしく話す原口に複雑な思いは隠して、旭は笑った。
やがて朝礼の時間になった。少し遅れて村上と松井が戻って来る。ふたりとも何事もなかったかのように振る舞っている。村上は旭に目もくれず、松井とは一瞬だけ目が合った。
その目はいつもと同じに穏やかだった。
いつものように始まる朝、でも、どこか違うように旭には感じられた。
***
昼過ぎに起きた穂高は、シャワーを浴びて手早く家の中を片付けた。ほとんど寝に帰るだけの部屋に余計なものなどなく、それもすぐに終わってしまう。適当に食事を作って食べようと冷蔵庫から食材を取り出した。あるもので作ること、料理を覚えたのは地元を飛び出して上京してから──灰庭と出会って、彼の妻に料理を一から仕込まれてからだった。
もう随分経った。
旭を追ってこの場所に着いて、会えないと分かっていたけれど、それでも同じ場所にいられればいいと、それだけの毎日だった。
コンロの上にケトルをかけ火をつけた。
足下に冷たい風が吹き付ける。換気のために窓を開けたままだと思い出した。古いこのアパートには換気システムなどない。空気を逃がしてやらないと湿気で酷いことになるのだ。
寝室に行き、穂高は窓を閉めた。
ほんの何日か前に旭はここで眠っていた。
その旭を抱えて、穂高も眠った。
夢のようだと思った。自分の腕の中に旭がいた。
出来ることならずっと抱いて眠りたい。ずっと、──
でも、きっとそれは叶わないことだ。
『…あ、アキ、アキい…っ』
たった一度だけ、穂高の前で泣いていた旭を思い出す。
『怖かった、こわかったよお、こわかったああああ…っ』
『あーちゃん、あーちゃん大丈夫だよ、大丈夫だよ』
夕暮れの中で、つきまとわれていた男から逃げてきた旭を穂高はぎゅっと抱き締めた。泣きじゃくる旭を必死になって受け止めた。
何度も何度も大丈夫だと繰り返して。
あれはまだ小学生の時、たまたま帰りが遅くなって、暗くなる家までの道を走っていた。家の手前まで来た時、暗がりの中に誰かが蹲っていると気づいた。旭だった。
『…あーちゃん?』
今日は先に帰ったはずだった。
穂高の顔を見た途端、大きな目から洪水のように涙が溢れ出してきた。
旭はずっと隠していた。
誰にも言わなかった。
誰も知らなかった。
半年以上、あの男につきまとわれていたことを。ずっと我慢して我慢して我慢して、そしてあの日、今まで見ているだけだった男が行動を起こした。ついに男に触れられた瞬間──ぷつんと我慢の限界が来たのだ。
それからは大変な日々になった。
男は捕まったが、実質的な被害がなかったためか結局はすぐに解放され、遠くに引っ越して行った。
日常は穏やかに戻っていた。
しばらくは平穏だった。でも旭は次第に好奇の目で見られるようになっていた。最初は同情的だった周りの人たちが、いつしか根も葉もない噂を立てはじめ、旭を追いこんでいった。
姉とふたりで旭を守ろうと約束した。
何も知らないくせに、何にも旭のことなんて知らないくせに。
学校でいじめられる旭を見て、悔しさに穂高が泣くと、旭は笑った。
『大丈夫だよ、こんなの平気だよ?』
いつだって旭はそうやって笑う。
旭はあれ以来穂高の前で泣かなかった。
誰の前でも泣かなかった。
大丈夫だと言う。
大丈夫、大丈夫。
でも穂高は気づいていた。
旭が男に触れられることに異常に警戒するようになっていたことに。あんなことがあったのだからそれは当然だ。でも旭は、触れられることを拒絶しない。
無意識なのだ。本人も気づいていない。心で警戒はしているのに触れられても我慢している。笑いながら、大丈夫だと言う。
そして血が滲むほど手を握りしめて平気な顔をするのだ。
穂高が旭への思いを自覚したのはまさにその頃だった。
誰にも知られてはいけないと分かっていた思いを、最初に見破ったのは姉の千紘だ。
学校から帰った玄関先で思い切り頬を張られた。
『信じられない! 旭をそんな目で見るなんて、あんたがそんな目で見るなんて! 私が絶対許さない! あんたがしてることはあの男と同じことよ! やめてよ、旭をこれ以上苦しめないでよ!』
『──』
ようやく噂も消えかけていたときだ。
穂高は姉に何も言い返せなかった。
そうだ。この思いは旭を苦しめるだけだ。
守りたい、大事にしたいといくら思っていても、旭には言えない。
穂高は思いに蓋をした。心の奥に穴を掘って閉じ込めた。次第に距離を置き、旭から離れていった。地元にいればどうしても顔を合わせてしまう。幸か不幸か家も近かった。だからせめて高校は遠くの学校を選んだ。
でも忘れられなくて時々様子を見に行った。──離れれば離れるほど好きだと言う思いは募り、捨てきれない思いを抱えたまま結局こんなところまで来て、再会した。
そして知った。
旭は同じ目に合っていると。同僚と言った吉沢、あれは紛れもなく捩じれた好意の果てのストーカーだ。同じだった。
あの男と同じだ。
もしもはじめに気づいていたなら覚えてないなどとは言わなかった。けれどもう今さら言っても遅いことだ。
あのときは守ることが出来なかった。
だから今度こそは──思いを告げられないのならせめて傍にいて、今度こそ旭を傷つけるものから守りたい。
『大丈夫だよ』
嘘だ。旭の大丈夫は大丈夫なんかじゃない。
そう言うときが一番助けを求めているときだ。
そんなふうに笑うな。
キッチンの方からカタカタとケトルの蓋が持ち上がる音がした。
「…──」
沈んでいた思いから立ち上がり、穂高は寝室を出た。
夜は旭と食事をする。夕方、社の近くまで迎えに行くつもりだった。
穂高はテーブルの上の携帯を取って、旭にメッセージを送った。
***
村上はまた昼前に外出すると言い置いて出て行ったきり、昼を過ぎても戻っては来なかった。時刻は15時になろうかとしている。
ディアウトの報告書の下書きを松井から受け取って、旭が清書していたとき携帯が震えた。社の中ではプライベートの携帯はマナーモードにしておくことになっていた。きりのいいところでキーボードを叩く手を止めて、旭は携帯を手に取った。
穂高からだ。
今日、旭の終業時間に合わせて社の近くで待っているとあった。
「え…」
まさか穂高がそんなことを言ってくるとは思わなかったので旭は少し驚いた。
「どした?」
隣で休憩していた原口が旭の手元を覗き込む。
「メール?」
「ああ、うん。今日人に会うことになってて」
「えっなに、彼女?」
「違うよ」
興味津々の原口に旭は苦笑する。
「前に言った幼馴染だよ」
「あー再会したっていう奴な。夕飯?」
「そう」
「いいねえ、今度俺にも紹介してよ」
「だから男だって」
旭は笑って作業を再開した。原口は席を立ち、課を出て行った。
昨夜、久しぶりにかかってきた祖父からの電話に、旭は寝付けなくなった。
祖父の前に穂高からも連絡が入っていたが、時間的にも仕事中だろうと折り返すことはしなかった。
真夜中、浅いまどろみの中で夢を見た。
あーちゃん、と呼んでくれた幼い穂高が出て来て、涙が溢れた。アキ、と自分も呼んだところで目が覚めた。
枕元に置いていた携帯を掴んで時間を確かめると午前4時前だった。
見計らったようにメッセージを送って、もう一度眠ろうと思っていたのに。
『──どうした?』
どうしてもっと早くに気がつかなかったのだろう。
穂高が好きなことに。
その声を聞くだけで何もかもが消え、満ち足りてしまうことに。
「ほら、ちょっと休憩しろよ」
穂高に了解と送ったところで原口が戻ってきた。手に持っていた紙コップのコーヒーを旭のデスクの端に置く。休憩スペースの自販機から買ってきてくれたようだった。
「ありがとう」
「課長戻って来ねえな」
村上のデスクに本人の姿はない。旭は頷いて、湯気の立つ紙コップに口をつける。ほのかに甘いコーヒーに、内心で息を吐いた。
「悪いな、帰り間際に頼んで」
「いえ大丈夫ですよ」
「予定とかないのか」
「大した予定でもないですし」
エレベーターを待ちながら、旭は松井に言った。松井が苦笑した。
「じゃあ早く済まそう。俺も早く帰りたいしな」
「はい」
やって来たエレベーターにふたりで乗り込んだ。ふたつ上の階を押して、誰もいないエレベーターの中で旭は言った。
「今朝はありがとうございました」
松井は抱えていた荷物ごと肩を竦めた。
「あんなのどうってことないよ」
エレベーターが着き、軽快な音がした。
「もう少しだからな西森」
「え?」
さっと扉が開いた。
「急げ」
松井は穏やかに笑ったまま、先に降りて歩いて行く。問いかけへの返答はない。旭は急いでそれを追いかけた。
終業時間まであと30分というところでミーティングが入った。開始は20分後だ。旭は今回参加しないが、あまりにも急だったため前準備に時間がなく、急遽松井が旭を借り出したのだった。プリントアウトした資料を松井と共に小会議室に運び込み、テーブルをセッティングする。本来なら課の1階上のミーティングルームで行うのだが、あいにくと塞がっていた。そこでいつも役員しか使用しない小会議室でということになった。
「あっ、西森、ファイルが足りない」
「分かりました。取ってきますね」
「多分俺のデスクの上だ。分からなかったら小林さんに聞いて」
「はい」
小林は松井のアシスタントをしている。今は課でミーティングに使う古い資料を捜してもらっていた。
小会議室を出て、エレベーターホールに向かおうとしたが、2階分なら階段で下りるほうが早そうだと、旭は手前の階段への扉を開いた。
そうだ、穂高に遅れるって連絡しとかないと──
「──忙しそうだな、西森」
階段を下りる足が止まった。
なぜ──こんなところに。
「…課長」
そこにいたのは村上だった。
階段の半ばから、胡乱な目で旭を見ていた。
旭との待ち合わせ時間にはまだ時間があったので、穂高は適当なショップに入ってまわり時間を潰した。自分のために何かを買ったことは随分と前だ。仕事場と家を行き来するのに服もそれほど必要なかった。いつも同じような格好をしてばかりの穂高に、灰庭は呆れていた。
「いらっしゃいませ」
にこやかな笑顔で店員に迎えられる。何気なく入った何軒目かのそこはメンズブランドのショップだった。
「何かお探しですか?」
接客に付いてくれるのを断って、ふらりと店内を歩き回った。冬物の柔らかそうな素材の服がゆったりと並べられている。柔らかで落ち着いた色ばかりだ。ガラスのショーケースには趣味のいい小物が美しく並べられていた。
ふと、その中のものに穂高は目を止めた。
革とニットの手袋。
旭に似合いそうだと思う自分に苦笑していた。
「おかえりなさい…戻られていたんですね」
旭の声に、村上は鼻を鳴らした。
一歩、階段を上がってくる。
「おまえがあんな小細工をするとは思わなかったよ」
「…え?」
苦々し気に村上は口元を歪めた。
小細工?
首を傾げる旭に村上はゆっくりと階段を上がってくる。
「なんなんだおまえは。邪魔しやがって──おまえは、俺の言うことを黙って聞いてりゃよかったんだよ!」
「…っ!」
一段下にいる村上から胸倉を掴まれて引きずられた。とっさのことに避けられず、旭の体はぐらりと村上に傾いだ。手すりを掴んだ手が今にも滑りそうだ。
「な…、なんのことですか…!」
階段の段差のせいで、背の高い村上と目の高さが同じだ。襟首を掴まれ顔を寄せられて、逃げる術がない。憎しみに満ちた村上の目が旭を捉えていた。
「とぼけるなよ西森…、おまえ、分かってたんだろ?」
何のことか分からない。
一体何のことだ。
旭は首を振った。
「おまえみたいな無能が俺を嵌めようなんて、冗談じゃねえんだよ!」
がん、と首元を締めあげられたまま壁に押し付けられる。体格は村上のほうが圧倒的に大きかった。旭はもがいたが、腕は外れない。村上は箍が外れたように何度も何度も旭を揺さぶり壁に打ち付けた。がんがんと耳鳴りがする。
「この無能が、無能が! 見てくれだけで何にも出来ねえボンクラのくせに!」
旭の手から携帯が落ちた。かん、とリノリウムの床に落ちて嫌な音を立てる。
「ア…ッ、ぐ、う」
穂高が──
──アキが。
霞んだ視界の端に、落ちた携帯が見えた。
駄目だ。あれを、取らないと。
旭は手を伸ばした。ぐらぐらと視界が揺れる。
村上は叫んでいた。でも遠のいていく。
何もかもが遠のいていく。
「何してるんですか!」
誰かが叫んだ。
ふっと村上の手が離れる。傾いだ体は宙に投げ出されていた。
西森、と松井の声がした。原口だったかもしれない。
自分が階段を落ちていくのが分かった。
激しい痛みが全身を襲う。
アキが、待っているのに。
そう思った瞬間、旭は意識を失っていた。
***
階段の上まで響いてきた誰かの叫びに、手すりに寄りかかって見下ろしていた吉沢は口の端を持ち上げて笑った。
階段の下にはぐったりと旭が倒れていた。
「かわいそう…旭」
でもオレがいるから大丈夫。
これでもう何にも心配ない。
騒がしくなっていく階下をひとしきり眺めてから、吉沢はゆっくりとその場を後にした。
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