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 回されてきた書類には、業務内容の確認と新規事業に対する改善点がいくつか記載されていた。旭は細かな内容を目で追って確認し、修正箇所を提案する文書を作成する。先日立ち上げたディアウトというブランドは30代から中高年層に向けた男性をメインとする事業展開を計画していたが、今月頭のウェブサイト先行での販売では、なぜか購買者の多くが女性であるとのデータが早期まとめで添付されていた。購買者に購買後のアンケートをメールで求めたところ、ビジネスとプライベートの境界を曖昧にした革のバッグや小物、男性向けではあるがジェンダーレスを意識したシンプルな服の作りと多様なサイズ展開がどうやら人気となっているようで、女性中心にSNS経由でとても着やすいと、口コミで評判が広まっているらしかった。価格設定は既存のファストファッションよりも高めだが、売り上げも新規参入としてはまずまずで、年末に向けてのイベント商戦について、変更点を含めた方針を早目に打ち出しておかねばならなかった。

「原口、これ見直してもらってもいいかな」

 文書を作成し、手の空いていた原口に声を掛けると二つ返事で引き受けてくれた。席を変わり、内容を確認してもらう。今日中にまとめて承認をもらい、他の部署に回さねばならない。週が明けてから、旭は仕事に追われていた。

「んん、いいんじゃねえの? 午前これで終わり?」

「いや、あとデータ打ち出して、企画課に色見本届けないと」

「えーそれ、資料課にやってもらえば」

「あそこ今人数足りてないから悪いよ。直接行って、そのまま届ける」

「じゃあそれやってから飯行こうぜ。俺ももうちょっとかかるし」

 原口は取引先からの連絡を待っているらしかった。

「うん、分かった」

 戻った席で文書の仕上げに取り掛かる。何かを忘れるようにじっとモニターを見つめ、忙しなく手を動かし続ける旭の横顔を、原口は黙って見つめた。



 企画課に色見本を届けに行き、課に戻ろうとしたところで旭は呼び止められた。

「ああ、待って、西森君」

「あ──はい」

 慌てて振り返る。

 旭を呼んだのは、企画課の課長補佐であるたいらだった。40を過ぎた、旭よりも少し背が低く体格のいい、温和な人だ。

「悪いね呼び止めて。あのさ、西森君、あれまだなんだけどどうなってるの?」

「え、あれって…」

 思い当たるのは、先週末企画課から来た別の事案の報告書に対する回答だった。いつもなら松井に確認してもらうだけでよかったのだが、あの日はあいにく松井が不在だった。至急とメモ書きが添えられていたので週明けを待たず、上司である村上に提出していたのだが──

「新規で忙しくしてるのもあるから、言い出しにくかったんだけど、いい加減遅いって言われてね」

 村上だ。旭が出したものはことごとく最後に回されている。懸念していたことが目の前に突きだされ、血の気が引いた。

 勢いよく旭は頭を下げた。

「す、すみません! すぐに確認してお渡しします…!」

 んー、と平は思案するような声で言った。

「…君のとこ村上さんだっけ、あんまり良い噂聞かないけど、…西森君大丈夫なの?」

「え…」

 ちょっと、と潜めた声で平は言い、旭を客用スペースの衝立の向こうに連れて行った。

 周りの音が小さくなる。

「あのね、あの人、前のとこでも同じようなことやったんだよ」

「同じことって…?」

「いびり。パワハラだよ、ひとりに目をつけて追い込んでいくの」

「…そ」

 そうなんですか、と言った旭の声は思うよりも掠れていた。

 平がそれをどう受け取ったのか、眉をきつく顰める。

「やり方が汚いし、それで辞めた人が何人もいるんだよ。それ以外にも問題はあるんだけど…証人もいるのに上層部に気に入られてるからか、彼自身にダメージがなくてね。人事も手を出せなくて。前に君の上司だった落合さん、こないだ会ったんだけど心配してたから」

「落合さん…そうですか、お元気でしたか?」

 この春に村上が異動で課に来るまで、旭たちの上司だった人だ。急な移動を言い渡され、合わない部署に行くよりは気楽でいいと、さっさと早期退職をしてしまった。今は郊外に移り住み、ネット中心の事業を展開しようと奔走していると聞いた。

「うん、元気だった。なんかあんまり生き生きしてるから羨ましくなっちゃったよ」

 はは、と平は笑った。

 快活で明るく行動的な落合らしいと、旭も知らず笑みがこぼれる。入社してずっと、旭を含む新入社員を一から指導してくれていたのは落合だった。懐かしい。

「君たちが、特に西森君が振り回されてるんじゃないかって心配してたよ」

 笑いの余韻を残したまま平が心配げに旭を見る。落合について仕事をしていた時分に親しくなった平は、落合が社を去った後も何かと旭や原口に声を掛けてくれていた。

「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」

「…それ本当?」

 疑わし気に言われて旭は出来るだけ心配をかけまいと、微笑んだ。

「ちょっと大変な面もありますけど、なんてことないです。回答、すぐにお持ちしますね」

 頭を下げて企画課を後にした。廊下を走っていく旭を平が何か考え込むような顔で見送っていた。



「なんかあった?」

「──え?」

 うどんを口に運ぼうとしていた旭の手が止まった。目を上げると、向かい合って座る原口がじっと上目にこちらを見つめている。

「何かって?」

「なんか変だから」

「へん?」

「変、なんかずっと」

「そんなことは──」

 お待ちどうさま、と原口の注文していたカツ丼がテーブルに届いた。会社から少し歩いたところにあるうどん屋だった。旭が戻ってくるのを待っていた原口に連れられて、少し遅めの昼食を取っている。店内は昼のピークを過ぎたためか、まばらにしか人はいない。

「そんなことは?」

 店員が去るのを見計らって、箸を割りながら原口が言った。

「…そんなことはないよ」

「そうかあ?」

「そうだよ」

 首を捻る原口に、旭は素知らぬ顔をして言った。

 あれから2日が過ぎたが、吉沢はまだ姿を見せていない。

 考えると気が重かった。原口に何かあったら言えと言われていたが、まだ何があったと言うわけでもない。元々吉沢と親しい彼に、言っていいものか躊躇われた。

 偶然だと言われてしまえばそれだけだ。

 誰にも言えそうにない。

 穂高にはもちろん、あの電話のことは連絡していなかった。

 だが今はそれ以上に村上のことで頭が痛かった。

 平のところから戻ったあと村上を捜したが、社内にはいないと分かった。明日になるのは避けたい。遅くとも午後いちばんが妥当だ。昼に出る前だった松井を捕まえて相談すると、松井は村上のデスクのトレイの中を探り、一番下に押し込まれていた回答書を見つけ出した。見てもいないのは一目瞭然だった。

 そして何も言わず松井は承認の枠に自分の印を押し、旭と一緒に企画室まで足を運んでくれた。

『西森、先に昼取って来い。俺は少し平さんと用があるから』

『…はい』

 手間を取らせて、松井にも申し訳なかった。

「…もう食わねえの?」

 気がつけば手が止まっていた。

「あ──いや、食べるよ」

 石を飲んだように胃がつかえていた。目の前のどんぶりを早々に押しやりたかったが、これ以上心配をかけたくなくて、旭はどうにか箸を動かした。


***


 結局村上は午後になっても社に戻って来なかった。業務ボードにある彼のスケジュールを確認したが、午前中に外出とあるだけだ。そのまま直帰したのではないかと、呆れたように松井がこぼしていた。午後の会議にも顔を出さなかったらしい。

「……寒い」

 他部署との打ち合わせが長引き、定時より少し遅くなってから旭は他の同僚と会社を出た。

 夜は気温が一気に下がるようになり、冬用のコートを着ていても、暖かなオフィスの空気に慣れた体には堪える。

 コートの前を掻き合わせた。

「じゃあ西森、またな」

「うん、お疲れ」

「お疲れさん」

 路線の違う同僚と駅の近くで別れた。交差点の青信号が点滅を始める。急ぐこともないと旭はゆっくりと歩いた。帰宅を急ぐ人が旭を追い越し走っていく。赤信号になった。立ち止まると次の信号が変わるのを待つ人たちが旭の周りを埋め始める。何時だろうかと何気なく腕時計に目をやった。

「お疲れ」

 耳元で声がした。


***


 週の始めはそう客は多くはない。

 開店から1時間が過ぎ、まだ誰もいない店の中で、穂高はグラスを磨きながらカウンターの内側の作業台に目を落としていた。

 自分の携帯が置いてあった。

 仕事はもう終わっているころだろう。

 旭にこちらから掛けるべきか。

 連絡がないのはいいことだと聞くが、不安ばかりが募るのは彼に限ってはそうではないと思うからだ。

 旭は人に、本当の意味で頼らない。

 何かあっても連絡はきっと来ない。

 もっと踏み込んで毎日連絡を寄越せと、強く言うべきだった。

 


「あ──」

 振り返ったそこにいたのは、原口だった。

「えっ、ごめん、そんな吃驚びっくりした?」

 目を見開いて顔をこわばらせた旭を見て、原口は慌てて言った。悪い、ごめん、と困った顔をして謝る原口に、旭の体から力が抜けていく。

 なんだ、よかった。

「ああ…いや、ごめん。こっちこそちょっと吃驚しすぎて。悪い」

 自分で思うよりもずっと、無意識に警戒していたようだ。

 一瞬止まった心臓が動き出し、どくどくと胸の奥で激しく跳ねている。

「おい、大丈夫か? え、マジでごめんな」

「もういいって。原口も遅かったな、対応大変だったろ」

 原口は午後、今日中に取引先に届くはずの原材料が交通事情で遅延になるというのが分かり、その対応に追われることになった。チームによるプロジェクトの一環だったのでひとりきりで対応するものではなかったが、材料の確保が出来なければ相手の会社にもダメージが大きく、在庫を保有している近隣の支社に問い合わせをして資材確保に奔走していた。

「ああ、まあな。でもちょうど関越道使わないルートで確保出来てラッキーだったよ。じゃなきゃ今頃まだ課でわーわーやってるとこだからさ」

 どうにか目途がついたと、原口は人好きのする笑いを浮かべた。

「そっか、よかったな」

「そう。だけどさあ、会社出た途端こいつに掴まっちゃってさあ──」

 そう言いながら原口が体をずらして自分の後ろを振り返ったとき、今度こそ旭は息が止まりそうになった。

「とっとと帰ろって思ってたのに、飲みに行こうってうるせえんだよ、もう最悪」

 原口の背に隠れていた吉沢がにこりと笑った。

「お疲れ、

「──」

 一斉に周りの人たちが同じ方向に動き出した。

 信号が変わったのだ。

 3人を避けるように人々が通り過ぎていく。

「何おまえ西森を名前で呼んでんの?」

 そうだよ、と吉沢が言った。

「だってオレ達仲良いから」

 な、と吉沢は貼り付けたような笑顔で旭に同意を求めた。

「また遊びに行くんだよ、

 吉沢の目がすっと細くなった。

 携帯が鳴りだした。旭のポケットの中だった。

 その音が合図になったかのように、原口が吉沢の肩を叩いた。

「ほら、飲み行くんならもう行くぞ!」

 吉沢がああ、と原口を向く。

 ゆっくりと視線を旭に戻して、にっこりと屈託なく笑った。

「…旭も行く?」

 目の奥が暗く見えるのは気のせいなのか。

「いや、俺は──」

 はあ? と原口が呆れた声を出した。

「おまえなあ、西森は今日マジで大変だったから行かねえっつったろ。しつけーな、おら、行くぞ」

 旭が答えるよりも早く原口が吉沢を押しやった。悪いな、と原口が旭に苦笑して言ったその後ろで、くすっと、かすかに吉沢が笑うのが見えた。

「分かったよ、じゃあまた、旭」

 背筋を冷たい手で撫でられた気がした。

「また明日な西森、お疲れ!」

「あ、ああ」

 吉沢の背を押しながら原口が手を振ったので旭も慌てて手を上げた。

「お疲れ、──」

 吉沢が旭を見ていた。

 原口には見えない角度、その口元は、ひどく可笑しそうに吊り上がっていた。

 からかわれたのだと、唐突に分かった。

 あれは遊びだ。

 原口がああ言うと吉沢は分かっていたはずだ。

 猫が小さな虫をいたぶるように、吉沢は旭の反応を楽しんでいた。

 いつの間にか携帯は鳴り止んでいた。ポケットから携帯を取り出す。その拍子に爪先に引っ掛かったキーホルダーが地面に落ちた。

 指先が細かく震えていた。

 落としたキーホルダーを拾い上げる。

「──」

 古びたそれを握りしめ、ぎゅっと手に力を入れた。

 顔を上げろ。

 ふたりはもう人混みに紛れて見えない。背を向けて旭も歩き出した。信号を渡り終えたところでまた携帯が鳴った。

 今度はすぐに出る。

 聞こえてきた声に泣きたくなった。

「…どうしたの?」

 気づかれないように、深く、深く、息を吐いた。

 

***

 

 午前4時になった。店の表にcloseの看板を下げて鍵を掛け、穂高は片付けをはじめる。ざっと洗ったグラス類を伏せ、床を掃き、テーブルを拭いた。開店前にもう一度同じことをするので、終業後は目に付くところだけをやっておけば、それで終わりだ。

 補充するものを書き出したメモを持って明かりを落とした。

 メールで灰庭に連絡を入れ、明後日の発注を終える。店で出すものは灰庭が開店前に仕入れて寄越してくれるのが、穂高がここで働くようになったときからの決まり事だった。彼の妻の店の仕入れも灰庭が行うので、手間は同じなのだそうだ。

 着信に携帯が震え、了解の二文字が画面に映し出される。

 穂高は黒服の上に上着を羽織り、そのまま裏口から店を出た。

 歩きながらぐしゃぐしゃと髪を乱す。撫でつけるのは好きではなかった。整えた髪をこうしてようやく、その日一日が終わる気がする。明日は定休日なので、尚更それが強い気がした。

 駅のほうへと向かい、始発を待つためにいつも寄る終夜営業のコーヒーチェーン店に入った。繁華街に近いこの店は、こんな時間にも拘らず、いつ来ても店内は半分以上が埋まっている。

 注文したコーヒーを手に窓際の席に座り、癖になっているように携帯を小さなテーブルの上に置いた。こんな時間に何があるわけでもない。

 あのあと思い余って掛けた電話に旭は出なかった。

 長く鳴らしてみたが、移動中だったのかもしれなかった。

 それから何もない。

 電話に出なかった旭が、こんな時間に折り返し掛けてくることを期待している自分に苛立って、穂高は携帯を伏せた。

 誰もが眠っている時間だ。

 外はまだ夜明けの気配もないのに。

 熱いコーヒーを啜ったとき、ぶるっと携帯が震えた。

 灰庭からだろうか。

 表に返すとメッセージの着信だった。穂高はすぐに通話を押した。

「──どうした?」

 ややあって、あれ、と旭が言った。

『ごめん、…今メッセージ送ったつもりだったんだけど』

「ああ、見たけど」

『そうなんだ?』

 夜だからか、旭の声はどこか潜めたような響きがあって、穂高はコーヒーを手に立ち上がると、そのまま店を出た。

『もう仕事終わったのか?』

「ああ」

『そう、お疲れさま』

 拭きつける冷たい風が穂高の熱を冷ますのにちょうどよかった。

 眠りから覚めたばかりのようなつたない話し方に、背筋が震える。実際、旭は今まで眠っていたのだろう。穂高の上がる時間を旭は知っていた。

「…ああ」

 すぐ横に旭が眠っている気がする。

 布団の中にいるのか、かすかに布の擦れる音がした。

『声、聞きたかったけど、もう遅いからと思ってた』

「…何かあったのか?」

『ないよ、大丈夫』

 何もないのにそんなことを言うはずがない。

 声が聞きたいだなんて──

 旭が?

『じゃあ気をつけて、…おやすみ、穂高』

 旭、と咄嗟に穂高は呼び止めていた。

「…明日──休みなんだ。メシ、一緒に食わないか?」

『……』

「旭?」

 少し間があった。

 やがて、いいよ、と旭が小さく答えた。

 おやすみと言って通話を切った。そのあとも、しばらく穂高の耳の奥はじんと痺れ、熱がとどまっていた。

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