12

 どうしてこんなに無防備なのか分からない。

 苦心して寝かせたベッドの上で、旭は深い眠りの中にいた。余程疲れていたのか。それとも…

 固く閉じた瞼、その寝顔に穂高は泣きたくなるような気持ちになった。

 こんなに、今でもどうしようもないほど好きだなんて。相手が旭でさえなければ、とっくの昔にこの気持ちを打ち明けていただろうに。



 深夜、すぐに相手が出たのは、掛かってくるのが分かっていたからかもしれなかった。

『なんか用?』

 名乗りもせずに、出るなり灰庭はそう言った。穂高もあえて言わない。お互いがいつもそうだ。

「あんた、あいつに酒飲ましたんですか」

『うわ、何それ。言いがかりかよ』

 灰庭の声の後ろに人の話し声が聞こえる。彼の妻だろう。時間的にそう──ちょうどいつもこれくらいに、彼女の店を閉めて後片付けをしているところだ。

『ビール一本飲ませただけじゃん。しかも俺と半分こだし。なに、いちいちおまえに許可取んないと駄目なわけ』

 深く穂高はため息をついた。やっぱり原因は酒か。

「…持って来るなって言ったでしょうが」

『あれ、そうだっけ?』

 くそ、と穂高は心の中で悪態をついた。こういった自分に都合の悪いとき、決まって灰庭は素知らぬ顔でにこにこと笑うのだ。きっと今も電話の向こうで笑っているはずだ。笑顔の大安売りでもあるまいに。

 みんなそれに騙される。

「……」

 穂高が黙り込むと、灰庭が潜めた笑いをこぼした。

『そんなに大事ならさ、閉じ込めとけば』

 何を言いだすのかと、穂高は呆れた。

 そんなこと出来るわけもないし、したくもない。

「…出来ませんよ」

『なんで?』

「なん、でって…」

 しないだろう普通?

 どんなに──

 どんなに彼が好きであっても。

 そんな当たり前のことをなぜ聞くのか。眉を顰めていると、灰庭がかすかに微笑んだような気配がした。

『ほんと、馬鹿だねえ、智明』

 

***

 

 ランドセルの背中。

 ちーちゃん待って、と追いかけているのは自分だろうか。

『旭がぐずだから遅れちゃうよ!』

 そんなこと言ったってもう仕方がない。

 千紘は走るのも早くて、歩くのも早くて、旭はいつも追いつけずに立ち止まった。どんどん見えなくなる背中。もういいか、ひとりで行こう。とぼとぼと歩き出したとき、向かっている道の先から誰かが駆けてきた。

『あーちゃん』

『あれ、アキ、なんで?』

 先に行ったはずなのに。

『だってあーちゃん来ないんだもん』

 一緒に行くって言ったのに。そう頬を膨らませるアキに、ごめんね、と旭は謝って、差し出された手を取った。

 アキの手はいつも日向のようにあたたかかった。



 あたたかなものにくるまれていた。

 背中がぽかぽかしている。

 あれ…

 俺、どうしたんだっけ?

 そうだシャワーの途中だった。

 少しだけと目を閉じて…、そう、ちょっとだけのつもりだったのに。もうこんなにあたたかい。指の先まで温もりがある。

 ああ、起きないと。目を開けないと。穂高が…

 アキが、待っているのに。

 浮上するように目が覚めた。


「──…」

 目を開けると、見知らぬ部屋の中だった。

 部屋の中は薄明るく、まだ夜が明けたばかりのような気配がした。

 見覚えのないカーテンの隙間から差し込んだ光がひと筋、旭の指先の上を交差するように落ちている。

 ここは──

 ベッドの上?

「──っ」

 まずい、と血の気が引いた。シャワーを浴びていたはずなのにどうしてベッドにいるのか──飛び起きようとして、柔らかなシーツに手を突いたとたん、旭は背中の重みに引っ張られた。

 がくん、と体が沈む。よく見れば、旭の腰には後ろから腕が巻きついていた。

 誰の腕か分かり切ったことだ。

 そっと振り返ると、穂高がいた。旭を包む布団ごと、背中から抱き込んで眠っている。

「……」

 背中があたたかいと思ったのは、布団越しに感じていた穂高の体温だったのか。旭はじっと穂高を見下ろした。よく眠っている。

 くしゃくしゃに乱れた髪、固く閉じた瞼、シャワーを使わなかったのか、穂高は仕事から帰ったままの恰好だった。白いシャツには皺が寄り、寝ている間に着乱れて裾が黒のスラックスから出てしまっていた。めくれ上がったシャツの隙間から腰が見えている。筋肉のついた肌に、旭はどきりとした。

 慌てて視線を外した。

 自分でもどうかと思うほどに鼓動が跳ねた。

 同じ男同士だ。なのにどうしてこんなに狼狽えているんだろう。

 変だ。

 もう起きようと、旭は布団から抜け出そうとした。だが穂高の腕が巻きついて出来ない。腕を外そうと大きな手に指先をかけて、ふと旭は自分の手が長すぎる袖に埋まっていることに気づいた。少し色褪せたスウェットの袖口。まるで着た覚えがない。

「…え?」

 しかも脚にそのまま感じるシーツの感触に布団を剥いでみれば、下半身は下着だけしかない。

 嘘だろ。

 全身が火を吹いたように熱くなる。

 まさか、これって、もしかして──

「起きた?」

 声に驚いて振り返ると、穂高がじっと額にかかる髪の間から旭を見上げていた。

「おき、…穂高、俺、あの」

 まだ眠そうな目を穂高が擦った。

「俺、もしかして…あの」

 ああ、と穂高が言った。

「風呂の中で眠りこけて大変だったな」

 うわ──やっぱり。

「ご、ごめんほんと全然覚えてない…」

「だろうな」

 ふあ、と欠伸をすると穂高はまだ巻きついていた腕で旭の腰を強く引いた。引きずられるようにして半身を起こしていた旭の体がベッドに沈む。

「わ、ちょっ、俺もう起きるから…!」

「俺はまだ眠い」

 引き寄せられ抱き込まれて、布団越しに穂高の声がくぐもって聞こえる。うなじに穂高の髪が触れて、ぞくっと旭の背筋が震えた。

 そして覚えのある熱が体の奥に溜まるのを感じた。

「……っ」

 なに、なんでこれ。

 穂高の腕は今度は胸のあたりで交差して、さっきよりもずっと体温が近くなる。

「アキ、も…俺はいいから…っ」

 帰りたい。

 この場から逃げ出したい。

 うるさい、と穂高が旭の背中に呟いた。その響きにさえぞくぞくと旭は小さく震えてしまう。

 なんでこんな。

 俺はどうかしてる。

 こんな──感じるなんて。

「もう少し寝かせろ」

 そう言って穂高がぎゅう、と旭を背中から抱きしめた。

「ん…っ」

 ぞくぞくが止まらない。

 まるで抱き枕だ。

 身動きが取れないほどの息苦しさに眩暈がした。心臓が飛び出しそうにどくどくと鳴る。どうしようどうしよう──ぐるぐると思考は回り、視線が忙しなく泳ぐ。堪らずに固く目を瞑り、旭は喘ぐように浅い呼吸を繰り返した。

 息が出来ない。

 火が灯るようだ。

 旭は耳を澄ました。

 背中から伝わってくる緩やかな穂高の心音が旭のそれに重なって、やがて同じリズムになっていく。

 あたたかい。

 冷たい朝の空気。薄く明るい部屋の中。

 窓の外を誰かが走り抜けていく。

 見知らぬ人の足音。

 シーツに落ちた光の線。

 鼓動はだんだんと、ゆっくり、落ち着いていった。

 背中に聞こえ出した穂高の深く安らかな呼吸に耳を傾ける。ひとつひとつ数を数えるように。いつしか旭もまたまどろんでいた。

 再びとろりとした眠りの中に落ちていった。

 

***

 

「おい、起きろ」

 その声に旭は目を開けた。

 呆れたような顔で穂高が旭を見下ろしていた。明るい日差しが眩しい。

「もう昼になるけど?」

「え──あっ」

 がばっと飛び起きてベッドから出ようとして、旭は自分が下は下着だけだったのを思い出した。

「待って、あの、俺の服は?」

 穂高は引き戸に手を掛けて振り返った。

「洗った」

「え、洗ったの⁉ な…」

 なんで。

 起きたら帰ろうと思っていたのに、これでは帰れないではないか。

 さあっと旭がベッドの上で青くなっていると、穂高はほんの少しだけ意地悪く笑った。

「出勤前に送っていってやる。それまでには乾くから、これでも着てろよ」

 そう言って足下に転がっていた対のスウェットのズボンを、旭に投げて寄越した。



 穂高の服はどうしたって旭には大きすぎて、スウェットのズボンの裾は3回くらい折り返してようやくなんとか見られるようになった。ウエストもぶかぶかで、紐で調節してみたが気を緩めるとすぐに落ちてくる。

「いただきます…」

 寝室にしていた部屋から出ると、キッチンと続きのリビングには既に食事が用意されていた。6畳ほどの部屋の真ん中に置かれた座卓の上で湯気を上げていたのは、立派な和食のごはんだった。

 白いご飯に味噌汁、朝昼兼用だからか、焼いた鮭とチーズオムレツに青菜と油揚げの煮物まである。

 急かされて向かい合って座った。箸をつけてさっさと食べ始める穂高を見て、旭も口をつける。

「美味しい…! 穂高ほんと上手なんだな」

 自炊歴の長い自分が作るものよりもはるかに美味しかった。青菜はくたくたにならずに少し歯ごたえがあって、本当に美味しい。噛み締めた味に、これは青梗菜ちんげんさいだと旭は思った。

「……」

 ふと、先日千紘と穂高の母から送られてきた野菜の中にも青梗菜があったのを思い出した。

「なに?」

 じっと皿の中の青梗菜を見つめる旭に穂高が眉を顰めた。

 慌てて旭は顔を上げ、なんでもない、と笑って誤魔化した。

 野菜なんてどれも同じ味だ。なのに同じもののように感じたのは、そうであって欲しいという願望からだろうか。家族とは疎遠のような穂高に、まだ繋がっていて欲しいと、そのかけらのようなものを無意識に探しているのか。

「冷めるから早く食えよ」

「うん、…そうだね」

 テレビのついていない部屋は静かだ。

 ふたりの食べる音だけが響き、時折窓の外から子供の笑うような声だけが聞こえていた。



 夕方、出勤する穂高と一緒に旭は穂高の家を出た。ひとりで帰ると言い張ったのにも関わらず、昨夜と同じように助手席に押し込まれた。

「何度も同じこと言わせんな」

「いや、だって」

昨夜ゆうべさんざん面倒かけといて言える口か」

「う──」

 それについては弁明のしようもない。たったビール半分飲んだだけで眠りこけて、何から何まで世話を焼かれた羞恥に旭が真っ赤になっていると、車は走り出していた。

 旭のマンションの近くまで来ると、それまで黙っていた穂高が言った。

「旭」

「え、なに?」

「あいつには気をつけろ」

「──」

 あいつ、が誰を指しているか旭は口にしなかった。

 鞄の中の携帯は昨夜から見ていない。確認するのが怖くて、コンコードにいたときからずっと、手に取っていなかった。

「大丈夫だよ。俺だって男だから」

 そのことはおくびにも出さずに旭は言った。赤信号で車が止まった。じっと、穂高が横目で旭を見つめている。

 青信号に変わり、穂高はすっと旭から視線を前に向けた。

「何かあったら必ず連絡してこい。俺の番号を携帯に入れて、いつでも掛けられるようにしておくんだ」

「大丈夫だよ、そんな──」

「旭」

 大袈裟だと苦笑する旭に、鋭く穂高が言った。

「いいから、頼むから、それだけはするんだ」

 流れる窓の外は夕闇の色をしていた。

 秋の日暮れは早い。

 穂高の険しい横顔に、気圧されるようにして旭は小さく頷いていた。



「じゃあまた」

 車を降りてそう言った旭に穂高は頷いてから、車を出した。マンションの前の道を進み、遠くなっていくテールランプを見えなくなるまで見送った。

 エレベーターで上がり、部屋の前で鞄から鍵を取り出す。差し込んで回し、扉を開けて中に入った。

 一晩いなかった家の中は翳った陽で暗く、冷たかった。

 鍵を掛けて上がり、リビングのカーテンを開けた。干しっぱなしだった洗濯物が風に揺れている。洗い直さないとな、と思いながらも、旭は窓を開ける気力もなく、ソファに腰を下ろした。

 ひとりきりの寂しさが込み上げてくる。何とも言えない切なさが湧いてきた。

 もう少し一緒にいたかったと、ふと思う。

 そうしてはじめて旭は、自分が思う以上に穂高が好きなのだと気づいた。

 ああ、そうだ。

 俺、穂高が、アキが好きなんだ。

 離れた途端に会いたいと思うほどに、彼のことが好きだ。

 好きだ。

 すとんと何かがはまるように、気持ちが落ち着いた。

「……」

 でも──アキは。

 足下に置いた鞄の中で携帯が震えていた。

 旭は今更ながらに気づいた気持ちに気を取られて、忘れていた。

「──はい」

 そう言ったとたん、電話の向こうの声が笑った。

『おかえり。幼馴染と会えて楽しかった?』

 吉沢だった。

 全身が粟立った。まずいと思ったときにはもう遅かった。

 きちんと確認するべきだったのに。

「あ…、うん、楽しかったよ」

 どうにか絞り出した声はからからの舌の上でもつれそうだ。

 へえ、と吉沢は笑った。

『じゃあ今度はオレと遊ぶ番だよな?』

 ひどく楽し気にそれだけ言って、電話は切れた。

 窓の外はもう暗いとばりが下りていた。

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