11
扉が開いた音に顔を向けた穂高は、入って来た相手を見て笑顔を引っ込めた。
「うわ、なんだその態度」
どうも、と頭を下げこそしたが、舌打ちしたい気持ちに変わりはない。だが入って来た人物は気にも止めずに、カウンターの奥に客がいるのを目に留めて、口元をにやつかせた。
「客がいる時に悪態つかないのは成長したな」
「どうも」
穂高は客が振り向かない程度に声を落として呟いた。
それを見てさもおかしそうに笑うのが気に食わないが、世話になっている以上逆らうことは出来ない。
にやにやと笑いながらカウンターの撥ね扉を開け、彼は中に入ってくると穂高の後ろを通った。
「奥にいるんだろ?」
がさがさとその手に持っているビニール袋が音を立てる。
「いますよ」
通り過ぎざまに、彼はくすっとわざと穂高に聞こえるように笑った。それが見え見えなのも癇に障る。
「何ですか」
反応しまいとしたが、じっと見つめられては居心地が悪い。素っ気なく言うと、いいや、と返される。
「胡散臭せえ顔しちゃって。ほんっとおまえって面倒くさい性格だよな」
「…余計なこと言わないでくださいよ」
「はいはい」
軽い口調で彼は言った。
いらっしゃいませ、と奥に陣取る常連客に声を掛け、控室に続く扉を開ける彼の後ろ姿に、穂高は深々と長いため息をついた。
あんなことを言うつもりはなかったのに、そう思っても、一度口から出た言葉は元には戻らない。
扉が開いて客がやって来た。穂高はため息を押し殺して、客にとりあえずの笑顔を向けた。
***
どうしてこんなことになったんだか。
ソファに沈みこんだまま、旭はぼんやりと控え室──と、穂高が言っていた──の暗い壁を見つめる。古いカレンダーが掛けられたまま、外されることもなく放置されていた。雑多なものが詰め込まれた棚、小さな机、ハンガーラックには穂高と旭のコートが掛けられ、その下に穂高の荷物が放置されている。肩掛けのシンプルなバッグだ。使い込まれて随分と古いそれを、旭はソファから立ち上がって拾い上げた。
バッグはほとんど何も入っていないほどに軽かった。そっと机の上に置く。机の上には伝票が散乱していて、つい癖のように旭はそれを日付け順にまとめて、転がっていたクリップで留めておいた。なにやってるんだか、とため息をついた。
することももはやなく、またソファに座る。
帰りたくとも帰れない。そういえば干しっぱなしの洗濯物はどうしよう。
出られないよなあ、と部屋を見回す。
穂高は店に続く扉の向こうにいるし、裏口はわざわざ内側から鍵を掛けていく念の入れようだ。しかも鍵はちゃんと鍵穴に鍵を差し込んで掛けるタイプのもので──どのような意図でそれがつけられているかは不明だが──どうしたって旭には手の出せないものだった。
『いいからそこでじっとしてろよ、メシは後で持って来てやるから』
そういえばお腹が空いた気がする。いろいろあって忘れていた空腹感が、落ち着いたころを見計らったように、じわっと首をもたげてきた。
穂高はどうするのだろう。
何か食べただろうか。
仕事前に旭の前で食べている様子はなかったが、店のほうで開店準備をしながら食べたのだろうか。あんな大きな身体で、まさかこんな時間まで、食べてないわけはないよな?
開店準備もギリギリだったはずだ。
言い合っている場合ではなかったのに、自分のせいで穂高の仕事に支障をきたせたかもしれない。申し訳なかったな、と旭は思った。自分のことはきっと自分で解決できる。今までもそれでどうにかやってきたのだ。
吉沢のこともなんとかなるはずだ。
あんなふうに穂高が心配することなんて何もない。ただちょっと吃驚したのかもしれないし、男が男につきまとわれてるなんて。あまり、聞かないことだったんだろう。
『もっとちゃんと見ろよ! 周りがどんなふうにおまえを見てるか──』
旭は両手に顔を埋めて手で擦った。蘇ってきた言葉に手が止まった。
…どんなふうに?
ふと、穂高にはどんなふうに見えているのだろうと思う。
再会してからまだ…会うのは4回ほどだ。旭にとっては長い空白があったにしろ昔からの続きで穂高を見ている。でも穂高は?
昔を覚えていない穂高に、今の旭はどう見えているのだろう?
たった4度、話もそれほどしたわけじゃない。
「……」
それに、どうしていつも──
奇妙な違和感に首を捻ったとき、店側の扉が唐突にノックされた。
「あ、こんばんはー」
人懐っこい笑みを浮かべた男が立っていた。快活にそう言うと、開いた扉の隙間から部屋に入って来た。
「どうも、オーナーの
オーナーと言う言葉に、旭は慌てて立ち上がった。
「あ、こ、こんばんは! すみません、お邪魔してまして…っ」
穂高の雇い主だと思い頭を下げると、あはは、と灰庭は明るい声で笑った。
「そんな吃驚しなくてもいいよ、旭さんだよね、西森さんて呼んだ方がいい? 旭さんでいい?」
「え? あの、なんでも…大丈夫です」
自分と同い年の穂高を使っているくらいだ、年上なのだろうと旭は思った。実際灰庭は若く見えた。30を少し過ぎたくらいだろうか。客商売特有の物腰の柔らかさか、彼本来の性格なのか、経営者にしては鷹揚で、雰囲気はとても柔らかかった。
「旭さんお腹空いたでしょう? ご飯持って来たよ」
「え」
「ちょうど俺も今からだから、一緒に食べませんか」
手にしていたビニール袋から、がさがさと取り出したのは、使い捨てなどではないプラスチック製の大きめの容器だった。机のそばにあった折り畳みのテーブルを広げると、灰庭はそれをソファの前に持って来た。その上に容器を置いて、紙皿と割り箸、ペットボトルのお茶も袋の中から出して並べていく。
「さあ食べよう、座って座って」
自分は机の椅子を引っ張って来てテーブルをはさんだ旭の向かいに座った。旭もソファに腰を下ろす。
「俺の嫁さんがね、ここから少し離れたところで小料理屋やってんだけど、そこのだよ。好きなの取って、遠慮はいらないからさ」
蓋を開けたプラスチック容器にはおかずと小振りなおにぎりが綺麗に詰められていた。仕出し弁当のようで、目移りしそうだ。量もちょうどいいほどに入っていた。
「あの、これ、穂高のなんじゃ…」
大人の男ふたり分でちょうど良さそうなそれに、旭は手をつけずに灰庭に聞いた。
いつもこんなふうに灰庭が食事を持って来てふたりで食べているなら自分はイレギュラーだ。食べてしまったら穂高の分がないのではなかろうか。
「え? あ、違う違う。いつもこんなことしてないから。あいつに頼まれて持って来たんだよ。これは旭さんの夕飯なの」
え、と旭は目を瞠った。
「穂高が、頼んだんですか?」
「そうだよ。ちょうど俺も休憩入るところだったから、俺のと合わせてもらっただけ。だから食べてくれないと──ほら、魚好きだよね、これ美味しいよ」
旭の皿に灰庭が取り分けてくれたのは白身魚の味噌焼きだった。表面に塗られた味噌に綺麗な焦げ目がついている。思いがけない好物に、すごく美味しそうだと思ったとたんに、ぐう、と旭の腹が鳴った。
「…あ」
くすっと灰庭が笑った。
「こんなところに閉じ込められちゃってさあ、もう22時回んのにそりゃ腹も空くって。ほら食べて食べて、このおにぎりはね、生姜が入ってるのよ、旭さん好きでしょ」
「…いただきます」
「はい」
灰庭が勧めてくれたそれを皿に取った。ひと口食べると、甘酢に生姜の味がして、本当に美味しかった。白身の魚もふっくらしていてまだ温かく、何も食べていない体に染みるようだ。
「うわ、美味しい」
「でしょう。うちの奥さん料理上手でさ、もうやっと旭さんに食べてもらえるって張り切っちゃって。だから──」
「…え?」
「ん?」
さっきから灰庭の言葉の端々に、前から自分を知っているかのような感じがして、旭は手を止めた。見つめた先にはたくさんの料理が詰められた容器があって、そのどれもが旭の好物ばかりだ。
魚が好きなことをどうして知ってたんだろう?
視線を灰庭に移した。
灰庭もそれに気づいて食べるのをやめた。顔を上げ、旭をじっと見つめる。
旭もそれを見返して言った。
「どうして、俺が食べると奥さんが張り切るんですか?」
「あれ、俺そんなこと言った?」
「……」
一瞬灰庭が狼狽えたように見えたのは気のせいだろうか。
にこっと灰庭は旭に笑いかけた。
「智明が連れてきた人だから、嬉しいってことだけど」
チアキ、と言う呼び方に心臓がぎゅっと萎んだ。
「そう、なんですか…?」
「うん。あいつ友達いねえし、自分から進んで人と関わったりしないやつだからさ、それ知ってるうちの奥さんはついに智明にも友達出来たんだーっつって、大喜びでさ、これ作ってたよ」
友達。
友達か。
「それは…、どうでしょうね。別に穂高が連れて来たくてというわけでも、ないので」
皿の中のものを口に入れながら、旭は視線を泳がせるように灰庭から顔を逸らせた。
厄介ごとに目を瞑れず、仕方なく穂高は旭を連れて来ただけだ。
「それはないと思うけどさあ。…あのさ、旭さんて智明のこと苗字で呼んでんの?」
「そうですけど…」
「なんで?」
「なんでって…穂高にそう言われたので」
名前で呼ぶなと言い渡されていた。
アキと呼んだら、ますますあの不機嫌そうな顔を顰められてしまう。怒ったような顔にも随分慣れたとはいえ、これ以上嫌がることをして本気で嫌われるのは避けたかった。
「阿保かあいつは…」
ぼそりと灰庭が箸を咥えたまま呟いた。
「え?」
「あーいいや、何でもない何でもない」
よく聞こえなくて聞き返すと、灰庭がにこにこと笑ってそう言った。
それからしばらくふたりで食事をし、とりとめのない話をした。
「じゃあ旭さん、またね。それちゃんと持っといてね」
そう言って灰庭が食べ終わった容器を抱えて帰って行ったのは、0時近くだった。それからすぐに、入れ替わるようにして穂高が控え室に入って来た。
車の中に押し込まれ、穂高の家に向かった。
時刻はまだ1時半を過ぎたばかりだ。
コンコードの閉店時間は4時だ。店は早じまいをさせてしまったようだった。
車中ではふたりともほとんど喋らないままでいた。
「ここの3階」
アパートには駐車スペースがないからと、近くのコインパーキングに車を停めて5分程歩いて着いたのは、古い5階建てのアパートだった。単身者向けのようで、見上げたベランダ側にある隣室との仕切りは、物干し竿を広げた分の幅しかない。
小さなエレベーターで3階まで上がる。
エレベーターを出て左に折れた。一番端まで行って、そこが穂高の部屋だと知った。306。
鍵を開けると、穂高は旭を先に入れた。鍵の閉まる音に旭は振り向いた。
「あの、穂高、──」
「先に風呂使え」
明かりのついた廊下を、先に入った旭を追い越しながら穂高は言った。
「風呂はそこのドア、タオルは棚にあるのを好きにしていいから」
「穂高、ごめん」
背を向けて奥に行こうとする穂高に旭は言った。穂高が立ち止まり振り返った。リビングの明かりが灯る。柔らかな光が壁に反射する間接照明だった。
「…何が?」
「店、早く閉めただろ? だから…」
「オーナーがそうしろって言ったんだよ」
「そうなんだ…?」
灰庭さんが、と目を丸くすると、穂高がすっと目を眇めた。
「いいから早くしろって」
それだけ言うと旭に背を向けて、穂高はリビングに行ってしまった。キッチンに何かを置く音がする。旭は仕方なく玄関横に荷物を置き、言われたように浴室に向かった。
こんな時間にシャワーを使って大丈夫なんだろうか。
歓迎されているとも思えずにシャワーのハンドルを回した。ぬるかった湯が熱く感じるまで出してその下に体を入れた。全身を覆うあたたかな湯に、一気に体の力が抜けていく。
穂高と一晩一緒に過ごすことに、どこか安堵している自分がいる。
吉沢の顔が浮かんで、溶けて流れていく。
思うよりもずっと、疲れていたのかもしれない。
シャワーに打たれながら浴室の床に蹲ると、旭はひどく眠たくなった。
ちょっとだけ、と思いながら目を閉じて、浴槽に寄りかかる。
あたたかな雨のような水音が心地いい。
深く息を吐いた。
誰かが呼んでいる声が、遠く霞んでいった。
***
ああくそ、と穂高は叫び出したいのを我慢した。
「この馬鹿…っ、なにやってんだよ…!」
あまりにも遅いので浴室の様子を窺いに行った。何度声を掛けても返事がないので、思い余ってドアを開けてみたら、この様だ。
「これでどこが自覚してるってんだよ、旭…!」
浴槽にもたれかかったまま旭は全裸で寝入っていた。
全身の血が沸騰しそうだ。ばりばりと頭を掻きむしって、穂高はバスタオルを数枚掴むと、シャワーを止めて旭を抱き上げた。
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