10
小学生のころ、旭は近所に住む大学生くらいの男につきまとわれたことがあった。
柔らかな見た目に反して芯の通った性格の旭は、辛かったはずなのに、それでもぎりぎりまで誰にも頼ろうとはしなかった。
穂高は旭が身を固くしたのが分かり、目の前の近づいてくる男を見つめた。
旭が会社の同期だと言っていた男だ。店にも最近よく顔を出してくる。名前は、確か──
「こんばんは、吉沢さん」
笑顔を浮かべて穂高は言った。
仕事用の顔ならいくらでも出来る。自分にとってどうでもいい相手には尚更そうだっだ。
吉沢はそつのない笑みを返して近づいてきた。
やっぱりか、と穂高は思った。
旭を送って行ったあの夜、この男を見た気がした。
***
鮮やかな笑みを浮かべながら、吉沢が近づいてくる。
「偶然だなあ、オレも買い物してたんだよ」
冷たい汗が背中を伝い落ちて行った。
「先約って彼のことだったんだ」
「うん、まあ…」
旭は曖昧に返した。すぐそばに立つ穂高を見ることが出来ない。
嘘などつかなければよかった。先約などと言われ、穂高が呆れているかもしれないと思うと、胃が絞られるように痛んだ。
吉沢は旭の前まで来て、にこりとその笑顔を穂高に向けた。
「どうも、穂高くんだっけー? オレの名前覚えてくれたんだ」
ええ、と穂高が言った。
「客商売なので。顔と名前を覚えるのは癖なんですよ」
「ああ、なるほどね。オレも営業だし、そんな感じ」
ちらりと横にいる穂高を見上げた。穏やかに笑って話をする様子に、変わったところはない。旭のついた嘘を何も言わずに受け流してくれたようだった。
ほっと息を吐いたが、同時に胸の内に寂しさも覚えた。
本当に穂高は俺以外になら普通に笑えるのだと、改めて思い知らされた気がした。だが今は考える時ではないと、頭の隅に押しやった。
「今日は今から仕事?」
「ええ」
「客商売だもんな、世間の休日は関係ねえか」
「そうですね。会社員のようには」
「だよなあ」
笑顔で話をしながら時折旭に向けてくる吉沢の視線には、隠しきれない執着が滲み出ていた。
それは粘度の高い、まとわりつくような独占欲だ。
「……」
まただ、と旭は思った。
嫌な記憶が過る。
もうあんなことは嫌だと、自分なりに出来るだけ目立たないようにしてきたつもりだ。
でもまさか、吉沢がそうだとは──原口と親しい友人だからと、見抜けなかった。
気が緩んでいた。あと少しで27歳になる。いい加減大丈夫だと高を括っていた。
馬鹿だ。
旭はため息を押し殺した。とにかくやり過ごそう。
穂高に嫌な思いはさせたくない。
煩わせたくない。
吉沢が旭を向いた。
「で、西森は? もう帰るの?」
出来たらそうしたいが、それは無理だろう。
吉沢は待っているのだ。このあとどこかに行こうと、旭から誘われるのを。それは彼の中ではすでに決まっている出来事だ。
言われる前に自分から誘わなければ彼の欲は満たされない。
期待のこもった視線に旭は覚悟を決めた。
「じゃあ、お…」
「おっと、マズいな」
俺と食事でもどう?
そう言おうとした旭を穂高が遮った。
「旭、そろそろ行こうか。時間だ」
「…は?」
手首を掴まれる。
ぎゅうっと、指先が食い込むほどに強く穂高に握りしめられた。目を瞠る旭を穂高はじっと見下ろしていた。
「…時間ってなに」
吉沢がぼそりと言った。
ああ、と穂高はなんでもないふうに笑った。
「今日は姉が来てるんですよ。それで久しぶりだから、旭は今からうちに来るんです」
「は? うち? おまえの家ってこと?」
「ええ」
「…ふうーん、そう」
すうっと吉沢の声が変わった。
「そりゃ楽しそうだな西森」
向けられた目の奥にはどろりとしたものが溶けだしていた。
旭の手足の先から血の気が引いていく。
これは、駄目だ。
穂高は吉沢ににっこりと微笑んだ。
「じゃあ吉沢さん、それじゃ。ああ、またお店にもいらしてください。お待ちしてます──旭」
行こう、と腕を引かれて吉沢の横をすり抜ける。ひたりと注がれた視線がうなじを舐めるようで鳥肌が立った。
「吉沢、また…っ」
どうにか絞り出した言葉に、吉沢がゆっくりと振り返って笑うのが行き交う人の中に見えた。
「ああ…またな」
吉沢が低く呟き、その顔から表情が消えた。穂高に引きずられ、背を向けた旭は、その変わりように気づくことが出来なかった。
***
腕を掴まれたまま離されず、無言のまま地下鉄に乗り、連れて行かれたのはコンコードだった。
「ちょっ…!」
どん、と背中を押されて店の奥の部屋に入れられる。明かりが瞬いて点いたとたん、転びそうになっていた旭は両肩を掴まれ、引き上げるようにして壁に押し付けられた。
「あんた一体どういうつもりだ!」
落ちてきた激しい怒鳴り声に、旭の体はびくっと震えた。
見上げた穂高の顔は怒りに歪んでいる。
「どういうって…、なにが」
「あいつと一緒に行こうとしただろ、何考えてんだおまえは!」
「だ、だって、あの場合はああ言わなきゃ…!」
収まらないから、という声が舌の上でもつれた。穂高の目元が引き攣って、口元が皮肉っぽく片方だけ上がる。
「ああ言わなきゃ? へえ、それで? メシ食って無事に家に帰れるとでも? それ本気で思ってんのか、馬鹿か!」
「なに、なに言って、アキ、…痛いっ」
「あいつはなあ、どう見たっておまえをどうにかしてやろうってのが見え見えだったんだぞ、それを分かってんのか! 少しは自覚しろよ!」
自覚。
その言葉に、すうっと心臓を鋭い刃で切りつけられた気がした。
「自分のこともっとよく見ろよ、周りがどんなふうにおまえを見てるか──」
パン、と穂高の手が叩き落とされた。弾いた旭の手は宙に浮き、ぶるぶると震えている。
「旭」
沸騰するような怒りのままに、旭は穂高を睨みつけた。
「…俺だってちゃんと分かってる、分かってるけど、でもっ、どうにもならないんだよ! 好きでやってるわけじゃない!」
穂高の胸を突き飛ばした。よろめいた穂高が驚いたように目を見開いて旭を見つめている。
「何にも知らないで、勝手なこと言うな…!」
小学生のとき、近所に住んでいた大学生の男につきまとわれた。結果として何事もなかったが、精神的に辛く苦しかった。その騒ぎのあと、旭は周りからの理不尽さにさらされた。自分のことを忘れている穂高が当時のことを覚えているはずもないけれど、旭だって何もしなかったわけじゃない。
何も思わなかったなんて、自覚がないだなんて、自分ではどうすることも出来ないものを本人が悪いと転嫁されるのは、まるでおまえが悪いと言われているのと同じだ。当時も似たことを言われた。
そう、──あんたが勘違いされることをしたんじゃないの、と。
何が原因だったのか、今でも分からない。自分の容姿か? ならばずっと目立たないようにと、暮らしてきた。今でもそうだ。でも、それでも、時々言われる。
『西森さんって自覚ないんだ?』
自覚?
言われるたびに思う。
じゃあ教えて欲しい。
どうしたらいいか。
どんなに人と距離を置いて当たり障りなく交わらないようにと気をつけていても、ふとした拍子に親しくなった人を見かけで判断するのは困難だ。話をしたその瞬間にそうだと分かるのなら離れていける。でも知り合ってしばらく経ってから気づくことが大半だ。違和感は日常の中に紛れている。あの大学生がそうだったから。
そしてそのあとも、旭は何度か同じような目に遭ってきた。
そのことを誰にも言ったことはない。唯一の家族である祖父はもちろん、千紘にさえ言わなかった。ましてや長く疎遠だった穂高が知るわけもない。
目が合っただけで見分けられたらどんなに楽だったかと、願わなかったことはない。
何がいけなかったのか。
これは八つ当たりだ。
でも、旭が何も考えていないと思われているのなら、こんなに悲しいことはなかった。
悔しさが込み上げてくる。
「なんでそんな…っ、知らないじゃないか、穂高は何も知らないだろ」
滲んできた涙が情けなくて旭は唇を噛み締めて俯いた。泣くなんてみっともない。いい歳をして。
「…旭」
「俺のこと覚えてないくせに、そんなこと、言われたくない」
穂高が一歩近づいてくる。苛々として、旭はその体を押しのけた。
「帰る」
「旭っ」
腕を掴まれて引き戻された。抱え込むようにしてくる穂高の胸を旭は掴まれていないほうの腕を振り上げて思い切り殴りつけた。
「っ」
「帰るって!」
殴った腕を逆に捉えられ、旭はめちゃくちゃにもがいたが、体格で勝る穂高の力は強く、押さえつけられるように両肩を掴まれ、向き合わされた。
「ふざけんなよ…っ! 帰れるわけねえだろうが!」
「な──」
なんで、と言いかけて旭は声を失くした。見上げた穂高の顔は怒りよりもどこか焦っているように見えた。
「あいつがあんたの家を知ってたらどうするんだ」
鼻先に顔がある。近すぎる距離に旭は顔を逸らせた。
「どうって、…知るわけないよ」
「本当に? なんでそう言い切れるんだよ」
「……」
記憶をたどる。
いや、教えた覚えはない。
でもどうだろう?
原口は旭の家に来たことがある。
最初に吉沢と待ち合わせたのは互いの家の中間地点だった。ほぼ正確に…
『あそこならどっちの家からも近いし、いいだろ?』
「──」
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
そうだ、原口に、聞いたのかもしれない…?
「…大丈夫か?」
暗い光の中でも旭の顔色が変わったのが分かったのか、穂高が声を落とした。
「旭、今日は家に帰るな」
「帰るなって…、なに言ってるんだ」
月曜になれば、また顔を合わせる。
家に帰り吉沢がいたとしても、早々に向き合わなければならないことに変わりはない。
「いいから、もう──」
「旭!」
身を捩って逃れようとすると、穂高に両腕を掴まれ、また引き戻されて向き合わされた。
「駄目だっつってんだろ!」
じっともの言いたげな目で穂高は旭を見下ろして言った。
「今夜は俺の家に来るんだ」
「は? え、待ってよ…」
旭、と強い声で遮られた。
「どうせあいつにもそう言ったんだ。いいから俺の仕事が終わるまでここにいろ。一歩も出るな、いいな」
わかったか、と念を押す深く低く押し殺した声に、旭は口を噤んだ。
「返事は?」
「……」
なぜこうなるのか。
穂高の考えていることがまるで分からない。
仕方なく旭は頷いた。
久しぶりに声を上げ、興奮した疲れが押し寄せてくる。
ため息が漏れた。
覚えていないはずの穂高がなぜそこまで心配するのだろう。そのことに旭が気づいたのは、開店の準備のために穂高が店のほうに行ってしまった、そのあとだった。
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