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スクリーンに映し出された場面がゆっくりと変わっていく。視点が反転し、長く引き伸ばされていく情景。
いつも見ている古いビテオテープでは画質が悪すぎて記憶の中で補填していたその美しさが、鮮やかに目の前に広がっていく。目の奥がじんと痺れて心地いい。長くこの感覚に飢えていた気がする。最終日に来ることが出来てよかったと、硬めの背もたれに背を預けて旭は思った。
膝の上に畳んで置かれたコートのポケットの中の携帯は、電源を落としている。それは映画を観る上でのマナー以上に旭の気持ちを解放させていた。
もしかしたら今日は吉沢といたかもしれない。その誘いを断って、旭はひとりでここに来ていた。
昨日の昼休み前に、吉沢は課の入口に姿を現した。
『おう、おまえ何?』
先に気がついたのは原口で、開け放したままのドアから顔を覗かせている吉沢に手を上げていた。旭もパソコンから目を離して顔を上げる。前に置かれた低いキャビネットの向こうに吉沢が見えた。目が合った吉沢が笑い、こちらに来ようとしたところに近くにいた女性社員から声を掛けられていた。
『吉沢さん、どうしたんですか? うちに来るの珍しいですねえ』
旭たちが所属している生活産業課のような部署には、基本外に出向くことが多い吉沢の所属する営業の社員は──営業企画課は別として──あまり顔を出さない。会うことがあるのは、総合会議や部署間でのすり合わせ、その他の営業会議などだ。とくにこの課は事務方の傾向が強く、そのため内向きの業務が多く就業中は滅多に会うことがない。つまりこの訪問は、よほどの事情がない限りプライベートなものだということだ。
『ああちょっと、西森に用があって』
西森、と会話の中で名前を出され、旭の手がぴくりと跳ねた。仕事中にプライベートなことで呼び出されるのはあまり好まないが、ここまで来て名前を出されてしまっては仕方がないと、内心でため息をついた。
『そうなんですか、吉沢さんって西森さんと仲良いんだ。いいなあ』
相手をしている彼女が弾んだ声を上げた。応えるように吉沢が二言三言返して、小さな声で笑い合っている。
旭は背を伸ばしてそっと課内を見回した。窺った先に村上はおらず、そういえば外出していたのだとほっとして、旭は作業の手を止めた。
『なんだよおまえ、仕事中に何してんの』
話を適当に切り上げてこちらに近づいて来た吉沢に、原口が呆れたような声を出した。吉沢は肩を竦めた。
『何って? オレは西森に用があんの』
旭は吉沢を向いた。もう昼だが、おはようと挨拶をする。
『昨夜はごめん、連絡気がつかなかった』
笑った顔が引き攣らないようにと、妙に緊張しながら旭は言った。
『いや、いいって、寝てたんだろ?』
『うん、まあ』
気まずさを押し隠して旭は頷いた。まさかこんなに早く顔を合わせるとは思わなかった。
『オレ自分が夜型だから感覚狂ってるんだよな』
吉沢が笑う。
間に挟まれた原口がなになに、と吉沢を見遣った。
『なんの話よ?』
『おまえには関係ねえよ。あのさ、西森、明日空いてるか』
『…え?』
『また出掛けない? いいとこあるんだけど』
『──』
旭は返答に困った。
そんなプライベートな話をしにわざわざ、仕事中にここまで来たというのだろうか。
昨夜の電話に出なかったから、旭は朝一番に吉沢にメッセージを返しておいた。明日の予定を聞くだけならそれで充分事足りるのではないだろうか。
それとも、それでは駄目だということなのか。
妙な違和感を感じたとき、はあ? と原口が声を上げた。
『おっまえさあ、そーいうプライベートなことはメールとかにしろよ、わざわざ来てんじゃねえよ。鬱陶しいわ』
不快を隠そうともせずに、まるで旭の心の内を代弁するかのように原口が言った。
だが言われた吉沢はにこりと笑うだけだった。
『いいだろもう、昼休みだし。ついでに飯食いに行かない?』
『ああ、うん…』
『お、じゃあ俺も行こ』
『はあ?』
『あの──吉沢』
なんでおまえが、と続ける吉沢を遮って旭は言った。
昼を告げる軽快なメロディが社内に流れ出す。
『昼はいいけど、明日は先約があるから。ごめん、またでいいかな?』
もちろん先約などはなかった。どんな用だと吉沢に聞かれ旭は適当に誤魔化した。それでもなお吉沢は食い下がろうとして、結局原口にいい加減しつこいと窘められていた。
『じゃあまたな』
3人で昼食を取ったあと、午後は取引先を回るという吉沢と社の前で別れた。吉沢は渋々といった様子で歩いて行く。課に戻った旭は午後が始まる前に映画のチケットをオンラインで購入しようと携帯を取り出した。
吉沢に先約があると言ったのは嘘だったが、やりたいことがないわけではなかった。先週通りかかった単館シアターでの上映会は明日が最終だった。旭はそれに行くつもりだったのだ。
出来ればひとりがよかった。
吉沢と行く気にはなれない。
隣で同じく携帯を弄っていた原口が、大丈夫か、と呟いた。
『え、なに?』
原口はちらりと横目に旭を見た。
『あいつ。あんまりうざかったら俺に言えよ、な?』
『ああ…、うん』
吉沢のことだ。
ありがと、と旭が返すと原口は苦笑して、大きく伸びをした。顎が外れそうなほどの欠伸を繰り返す原口を笑って見ながら、旭はチケットの決済をし、購入を完了した。
「……」
穂高のところから帰ったあの夜、自宅の前で掛かってきた電話を旭は取らなかった。
時間が遅かったのもある。でもそれ以上に取ることを躊躇わせたのは、その着信の多さだった。
着信履歴がずらりと並んだ携帯の画面が、鍵を開け入った暗い玄関の中で白く光っていた。終業後からずっと、30分から1時間おきにそれは続いていた。それを見て、旭は何とも言えない息苦しさを感じてしまった。
ぎゅっと目を瞑り、考えを追い払った。
スクリーンに映し出された画面を目で追っていく。やや青みがかった褪せたような色合い。荒涼とした景色に歩いて行く後ろ姿。何度見ても胸の奥を揺さぶる感情。
誰かを求めてやまない欲が、果てのない源泉のようにあとからあとから湧き上がってくる。
終わりに近づいた主人公がゆっくりとこちらを振り返る。
その視線を断ち切るように、振り返りきる直前、画面は真っ黒になる。
瞼が落ちたように。
エンドロールが流れ始めた。
ゆっくりと館内の明かりが灯り始めた。あちこちでぽつぽつと人が立ち上がり、ゆっくりと通路へと流れだした。余韻を楽しむようにひそやかな話し声が続く。
ああ、よかった、と旭は思った。
やっぱり来てよかった。観られてよかった。
隣の人が立ち上がったのにつられて、旭もゆっくりと立ち上がった。時計を見ると16時を回っていた。どこかでお茶でもして、何か食べて帰ろう。膝の上のコートを取り、袖を片方通したとき、視線を感じて旭は顔を上げた。ふと、何気なく肩越しに振り返る。
「…ねえ、どっかでお茶しようよ」
「んん、いいねえ、どこ行く?…」
後列のシートに座っていた女の子たちが旭の後ろの通路を通りながら楽しそうに話している。その列について歩いていた人の中、背の高い男が立ち止まっていた。驚いた顔でこちらを見ている。
「え、──えっ?」
どうしてこんなところに。
「…旭」
旭は目を見開いて穂高を見上げた。
***
なんだか自分たちはいつも、突然に出くわしてばかりいる。
近くの喫茶店に入り注文を終えた後、苦笑して、旭は水の入ったグラスを置いた。
「そっか、穂高もあの映画好きなんだ」
「ああ」
向かいで穂高が頷いた。仕事前の、まだ撫でつけていない長めの前髪は額に落ちて瞼の中程までを覆っていた。
「先週も観に行った」
「え、先週?」
手の中に包んだままだった旭のグラスの表面が揺れた。
「そうなんだ、俺は先週…、ほら、会ったあの日、あそこの前を通って知ったんだけど…じゃあ、穂高はあのとき中にいたんだ」
「…そうかもな」
もうすっかり見慣れた仕草で穂高が眉を顰めた。あまり自分と目を合わせてくれないのは寂しい気もするが、話が出来るだけまだいいかと旭は思った。
一緒にお茶でもどうかと誘ったのは旭だ。映画館で出くわしてお互い驚いて声もなく、そのまま人波に押されるようにして出口を一緒にくぐった。その瞬間、旭は穂高の腕を引っ張っていた。
──あのさ、まだ時間あるなら、お茶でもしないか?
もう少し一緒にいたいと思った。
せっかく、こうして会えたのだから。
穂高はまた驚いた顔をして旭を見たが、すぐに眉を顰めたいつもの顔に戻り、少しならと頷いてくれたのだった。
「穂高は展示会のほうは行った?」
「ああ先週行った。あれはよかったな」
「うん」
旭が微笑むと、わずかに穂高が目元を緩めたような気がした。あ、と思ったときトレーを手にした店員がにこやかに声を掛けてきた。
「お待たせしました」
注文したものがそれぞれの前に置かれる。ありがとう、と受け取りながら見た穂高は、もういつもの顰めた顔に戻っていた。
ああ、もうちょっと見たかったな。
店員がごゆっくり、と戻って行く。
「資料が充実してて、いろいろ買ったんだ。シナリオブックがすごくよくて」
「へえ」
「それで、巻末についてた絵コンテが…、──」
旭は砂糖を入れようとして、止まった。
穂高の長い指が、テーブルの上に用意されていた砂糖をひとつ、シュガートングで摘まみ、旭のコーヒーの中に落とした。
小さな白い塊が、ぽとん、と沈んでいく。
穂高は当たり前のようにスプーンで掻き混ぜた。
「──」
今のはなんだ。
どうして──
どうして…
「絵コンテが、なに?」
「…え?」
はっと旭は顔を上げた。
穂高は自分のカップを手に取っていた。
「今言ったろうが。巻末の絵コンテがなんだよ?」
「あ、うん、それもすごくよくて…」
ぎゅっと、旭は膝の上の手を握りしめた。
ふうん、と穂高が言った。
「DVDは買ったか?」
「えっ、あ、うん! もちろん…」
「俺も。来週だったな」
「うん、…今度の、金曜かな」
妙な具合に跳ね続ける鼓動のせいで声が途切れそうになる。悟られないように、気取られないようにと願いながら、旭はカップを手に取った。
「楽しみだな」
うん、と旭は頷いた。穂高はまるで気づかずに、自分は何も入れないコーヒーに口をつける。
窓の外を見る横顔。盗み見るように旭はそっと見つめて、ほんの少しだけ甘いコーヒーを飲んだ。
「……」
砂糖をひとつだけ──旭の好きな飲み方を、どうして穂高は知っていたのだろう?
今から仕事に行く穂高は、この近くの駅から乗り換えて行くのだと言った。
喫茶店を出て駅前まで一緒に歩いて行く。
早い日暮れの訪れが冬が近いことを知らせている。橙と藍色の入り混じる薄闇が空を覆っていた。街灯の光が足下に複雑な形の影を生む。
そういえば先週もこのくらいの時間に会ったのだと旭は思い返す。
「…なに?」
ふふ、と思い出し笑いをした旭に気づいて、穂高が怪訝な声で言った。
「ああ、ごめん。こないだもこれくらいの時間だったかな、って思っただけ」
「ああ、…そうだったな」
相変わらず硬い表情の顔を見上げて、旭は微笑んだ。
「あのときはびっくりしたよ。声掛けてくれるなんて思わなかったから」
「…見掛けたら普通に声掛けるくらいするだろ、大人だぞ」
「はは、うん」
ふいっと逸らされた目を追いかけるように覗き込んで、旭は笑った。
駅まであと少し。
駅まで一緒に行ったら、別々の改札をくぐって、背を向ける。
どこかで夕飯を食べて帰ろうという気持ちはとうになかった。
家に帰ってひとりで食事をするのは慣れているはずだ。もう何年もそうなのに、どうして今、こんなに寂しいと思ってしまうのだろう。
やっぱり、途中で降りて食べて帰ろうか。人の多いところなら気も紛れるかもしれなかった。
「あれ、西森!」
その声に旭は足を止めた。
きらきらとした街灯の下、目の前のショップの大きな窓の明かりの落ちる中に、満面の笑みを浮かべた吉沢が立っていた。
「え…」
嘘だろ、と旭はひやりとしたものを背中に感じた。
「やっぱり、あの映画観に行ってたんだ?」
穂高も旭の横で立ち止まった。
吉沢の目は笑っているようなのに、なぜか笑っていないように旭には見えた。
偶然?
──いや、違う。
とても偶然とは思えなかった。
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