8
長い指だ。
皺のない白いシャツを着た、綺麗に伸びたまっすぐな背中。姿勢がいいのは、小学生のときに始めた剣道の影響だと知っている。無駄のないしなやかな動き。今も、続けているんだろうか。
グラスを持つ手が、綺麗だ。
「きみ、彼の知り合い?」
穂高が忙しなく働いているのをぼんやりと眺めていると、横から声が掛かった。
見ると、男性客がこちらを見てにこりと笑っている。入って来たときに目が合った、あの男性だ。
「…はい?」
「ずうっと見てるから」
そんなに見ていただろうか。かあ、と赤くなったのが自分でもわかるほどに顔が熱くなった。幸い店内は暗い、誤魔化すように旭は言った。
「考え事をしてたので、気づきませんでした」
「そう?」
可笑しそうに喉の奥で男性は笑い、グラスに口をつけた。琥珀色の液体に浮かぶ大きな氷が小さな音を立てる。旭も自分の前に置かれたものに手を伸ばした。それはガラスのティーカップで、深いルビー色の湯気の立つ飲み物だった。同じガラスのソーサーには薄くスライスしたレモンが添えられている。
ビールを注文したのに、なぜか穂高はレモンティーを出してきた。これはどういうことか。
『いいから黙って飲め』
違うと言うと、問答無用で押し付けられた。
はあ、とため息をつきながら旭は一口啜った。熱い紅茶にほんの少しだけ落とされたブランデーの香りが鼻を抜けて、ふわりと体が温まる。
温かい。自覚する以上に体は冷えていたらしい。
「それ美味しそうだね」
ひとつ席の開いた向こうからまた声を掛けられる。
「美味しいですよ」
今度は旭もにこりと笑って応えた。手元しか見えないような飴色の暗い店の中では、お互いの顔の表情まであまりよく見えるわけもないが、気持ちの問題だ。
「この店でそういうものが出てきたの、はじめて見たよ」
「そう、…なんですか?」
手元を見下ろす。確かに、酒を提供するこういった店で紅茶はあまり見かけない。コーヒーはままあることだが。
「……」
指摘されてはじめて旭は気がついた。
穂高はわざわざ淹れてくれた…?
「どんな味?」
「濃くて、少しブランデーが入ってますよ」
「へえ」
飲んでみたいな、と男がこちらに身を乗り出したとき、すっとそれを遮るようにカウンターの中から長い手が伸びてきた。
「よかったらどうぞ」
綺麗に盛り付けられた肉と生野菜の載った皿が男の前に置かれた。
「鴨肉、お好きでしょう」
にっこりと穂高が笑った。
「…どうも、悪いね」
「いいえ」
苦笑いを浮かべた男が、体を引いて椅子に座り直した。
穂高がちらりと旭を見る。目が合うとふいと逸らされて、旭は居心地が悪くなった。
完全に邪魔になっている。
用事を済ませて早く出なければ──けれどまだ、穂高の手は空きそうになかった。また出直してくるとさっき言ってみたのだが、却下されてしまった。
何かしていないと落ち着かない。旭はカップを持ち上げて、出来るだけ時間をかけて飲もうと少し温くなった紅茶に口をつけた。
「──ほら」
綺麗な指が白い皿を旭の前に置いた。小さな、ひと口大に切り分けられたサンドイッチが綺麗に並べられている。
「え?」
「食べろ」
他の人には聞こえないように旭の耳元に口を寄せて、穂高が言った。潜めた声が思うよりも近くて、穂高の体温が肌を掠めていく。旭の心臓が妙に跳ねた。
誤魔化すように旭は微笑んだ。
「あ、ありがとう」
見上げると、穂高は冷たい一瞥を寄越しただけで、また仕事に戻って行った。
くす、と隣の男が笑う気配がした。旭が目を向けると、男はにこりと笑って顎で旭の前のサンドイッチを示した。
「食べたら?」
「…はい」
彼に出された皿に添えられたフォークを男が手にする。それを見て旭もサンドイッチを摘まみ口に入れた。チーズと胡瓜とハムの簡単なサンドイッチだったが、昼から何も食べていない旭の体にじわっと染み入って、すごく──すごく美味しかった。
「美味しい」
噛み締めるように、旭は穂高の作ってくれたサンドイッチをゆっくりと食べた。
狭い店だと言うのに、客は途切れることなく入って来た。
そのうち誰かがカウンターに入るのかと思っていたが、誰も店の者は来ない。穂高はひとりで店を仕切っているようだった。
結局、穂高の手が空いたのは、それから1時間以上が経ってからだった。
奥に残っていた客がゆっくりと腰を上げた。常連客のようで、軽く穂高と会話を交わしながら支払いを済ませている。ささやかな談笑に耳を傾けながら、腕時計を確認した旭は小さく息を吐いた。
そろそろ終電の時間が迫っていた。
「ありがとうございました」
その人が出て行くのを待ってから、旭は立ちあがった。もう店内にはふたりきり、旭と穂高しかいない。声を掛けるのに遠慮はいらなかった。
「穂高くん、俺も、もう帰るから」
カウンターの下の精算機に代金を仕舞っていた穂高の手が止まる。
「そろそろ終電なんだ。明日も仕事だし」
穂高が顔を上げ、旭を見た。
不機嫌そうに眉間にしわが寄っている。
整った顔立ちでそういうふうにされると、気圧されるような迫力があった。他の客には笑いかけても、旭には今日は不機嫌さを隠そうともしない。
「俺の忘れ物は?」
目を逸らさずに旭は聞いた。
「忘れ物ね」
じっと旭を見下ろして、穂高は小さく呟いた。
「…ちょっと待ってろ」
穂高はカウンターの奥まで大股で歩いて行き、そこにあるドアを開けた。ドアの隙間から見えたのは旭が先日寝かされていた大きなソファで、やはりそこがあのときの部屋だったのだと、改めて旭は知った。
中に入った穂高がすぐに戻って来る。どうやら旭の忘れ物はドアのすぐそばに置いていたようだ。
「これ、あんたのだろ? ソファの下に落ちてた」
カウンターを出て旭の前に立った穂高は、手の中のものを開いて見せた。
「あ…」
これだったのか、と旭は思った。
それは古いキーホルダーだった。いつもスーツのポケットに入れてお守り代わりに持ち歩いていたものだ。このところの忙しさもあってか、そう言えば最近触れた記憶がなかったと思い返した。
「そっか…失くしたの、全然気がつかなかった」
「大事なものか?」
「うん」
聞かれて旭は苦笑した。大事と言えば大事だが、それは記憶や思い出と同じで他人にとっては全く価値のないものだ。幼いころに貰ったものだった。
捨てられてもおかしくはなかったのに、穂高はちゃんとこんなものを取っておいてくれたのかと、旭は嬉しさが込み上げてきた。
「ありがとう」
大きな手のひらから受け取って、穂高を見上げた。不機嫌な顔をしたままの穂高が、目が合ったとたん、ますます深く眉を顰めた。
「──…」
ふと、旭は気づく。この不機嫌そうな顔はそのままの意味ではないのではないか──見たままに受け止めてはいけないような、そんな気がした。
「…あのさ」
一歩踏み出すように旭は言った。
「穂高くんは、俺が──俺がいるの迷惑か?」
「……は?」
「また来てもいいか? 俺はもっと話がしたくて…嫌ならもう、来ないから」
「──」
一瞬穂高が息を詰めた。
じっと旭を見下ろして、やがてふいと顔を逸らせた。
「別に嫌じゃねえよ。好きにしたらいいだろ」
明かりを絞った暗い光の下では表情の変化などあまり分からないが、旭には穂高の纏う気配が和らいだように感じた。
ほっと、旭の肩の力が抜けた。
「うん」
紙幣を取り出し、カウンターの上に置いた。
「ごちそうさま。サンドイッチすごく美味しかった。料理上手だな」
じゃあまた、と穂高の横を通ろうとした途端、強く腕を掴まれた。
「どこ行くの」
「え、なに、どこって帰る…」
「電車で? 終電はもう終わってるぞ」
「え──」
慌てて腕時計を見ると日付けはとうに変わっていた。乗るはずだった電車は、もう過ぎた時間だ。
「送るから待ってろ」
穂高は奥に行くとコートを取って戻って来た。手には車のキーを握っている。
行くぞ、と腕を掴まれて、慌てて旭はかぶりを振った。
「ちょ、いいよ! ひとりで帰れるから」
「──冗談だろ」
「じょ…」
冗談ってなに。
呆気にとられているうちに旭は外に連れ出された。
抗議の声もあっさりと無視されて、引きずるようにして店の裏に停めていた車に押し込まれた。
「ちょっ…、アキ…!」
まるで荷物のように放り込まれ、鞄とコートを投げて寄越される。
運転席に乗り込んだ穂高は旭を見ようともせずに車を出した。強引さに呆れて、旭はこちらを向けとばかりに、じっと穂高の顔を見つめた。
「…なんだよ」
「あのさ」
もう車は走り出してしまったので仕方がない。
内心でため息をつく。横顔を覗き込むようにして、旭は譲歩案を言った。
「駅でいいから、な? …店まだ途中だろ?」
「ああ?」
鬱陶しそうに穂高は片手でネクタイを緩めた。首元のボタンを外して撫でつけていた髪をぐしゃぐしゃと掻き上げる。それだけで前髪が下りた顔からは大人っぽさが消え、まだ青年の幼さが覗く。窓の外を流れる外灯の光が、穂高の目の中で小さく光った。
その光になぜか旭の胸が震えた。
大仰に穂高はため息を吐いた。
「駄目に決まってるだろ」
「なんで、タクシー拾うから」
「だから駄目だっつってんだろ」
「だから、なんでっ…」
それからは何を言っても無駄だった。諦めた旭は深くため息を零してシートに体を沈ませた。
聞こえないほど小さな音で流れていた曲は、いつのまにか止まっていた。
「着いたぞ」
旭のマンションの前に車を停めて穂高は言った。店からは30分程の距離だった。
往復1時間、穂高は店を中断したことになる。
「店は大丈夫?」
「どうってことないだろ。もうそんなに人が来る時間でもないしな」
「そっか、…ありがとう」
降りようとシートベルトを外し、ドアに手を掛けた。
「旭」
はっと、旭は振り返った。
「なに…穂高くん」
穂高はじっと旭を見ていた。
「穂高でいい」
「え?」
「俺のことは呼び捨てでいい、旭」
ぎゅうと心臓が鷲掴みにされたように痛んだ。
苦しい。
『旭、ほら──』
『旭』
昔と同じ呼び方で名前を呼ばれた、ただそれだけで息が出来ないほどに苦しい。
「ん…、分かった」
絞り出すように旭はそう言った。
「じゃあまた」
おやすみ、と言ってドアを閉める。
走り去る車を見送りながら、また会いたいと、今別れたばかりなのに思う自分はどうかしていると旭は思った。
また話がしたい。
また会って、穂高と何でもない話がしたい。
不機嫌な顔にもそのうち慣れたら…
俺にも笑ってくれるだろうか。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで上がる。自宅の前に着いたとき、旭の携帯が上着の中で震えた。
取り出して、旭は眉を
吉沢からの着信だった。
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