7


「…っ、ア、」

 アキ、と思わず叫びそうになるのを、旭は必死で堪えた。

「あれ、きみ──」

 驚きで身を固くしている旭の隣で、吉沢が突然現れた穂高を見て目を丸くした。どこかで見た顔だと思い出すように目を眇める。

「あのバーの人だよな?」

「こんばんは、いつもどうも」

 かすかに微笑んで会釈をする穂高の顔は、明らかに営業用のものだった。

「え、なに、西森、彼と知り合いだったのか?」

「あ…うん」

「でもこないだはそんなこと言ってなかったじゃん」

「うん」

 どういう関係? と目で問いかける吉沢に、旭は穂高を紹介した。

「俺の、地元の同級生の弟なんだ。ア…えと、穂高、くん。穂高くん、こっちは俺の会社の同期の吉沢だよ」

 穂高が目礼した。

 吉沢が興味深そうに穂高を見る。

「へえ、年下あ? ちょっと上かと思ってたわ。西森のほうが全然年下っぽいな」

「うん、下って言っても同い年なんだ。同級生とは年子で俺が早生まれだから、ア、…あの、穂高くんは学年が違うだけで」

「ああ、そういうこと」

「だから俺のことも、俺が言うまで気がつかなかったって」

「…ふうん」

 言い慣れない呼び方に苦戦しながらもなんとか簡単に紹介し終えると、旭は穂高がじっとこちらを見下ろしているのに気がついた。何かまずいことでも言っただろうか。旭は決して背が低いわけでもないが、頭ひとつ分上にある彼の顔を見上げるのは、なぜだかとても──いつも落ち着かない気持ちになる。

 それは昔から感じていたことだった。自分でもどうしてだか、未だによく分からない感情だ。

 何か話さなければと、旭は穂高に微笑みかけた。

「えと、今日は、今から仕事なのか?」

 穂高はゆっくりと頷いた。

「そう、今から。今日は少し遅く開けるから」

「そっか」

「旭さんは休み?」

 うん、と旭は頷いた。

「吉沢と出掛けてたんだ」

「そう」

 先日とは違う棘のない柔らかな声に、旭は戸惑った。どうしたんだろう。まさか彼のほうから声を掛けてくれるなんて思いもしなかったことだ。このまえは突然で、穂高も驚いていただけだったのだろうか。

 だからあんなに冷たかったのか。

 それとも、今は吉沢がいるから、営業用の顔で接してくれているのだろうか?

 ふたりきりだったら、穂高はどちらの顔を見せるのだろう。

「じゃあ穂高くん、オレらメシ行くから」

 旭の腕を吉沢が掴んで引き寄せた。

「また寄るよ、それじゃ。行こうぜ西森」

「え、あ」

 強引に切り上げようとされて旭は焦り、穂高を見上げた。

 何か、言わなければ。

 なんでもいい、また今度とかまた行くよとか、次がある言葉を言わなければ。

 言わないと。

「あの…」

「旭さん」

 旭の声に被さるように、穂高が感情の読み取れない顔で旭を呼んだ。

「この間店に忘れ物してたから、取りに来れる?」

「え…」

 忘れ物?

 なにか忘れて行っただろうか。

「今から?」

「いつでも構わない」

 旭の呟きで吉沢の腕が緩んだところに、穂高が一歩近づいて来た。吹き付けてくる風を大きな体が遮った。穂高はコートのポケットから革の財布を取り出して開いた。ふと目が留まる。年季の入ったボロボロの財布だ。

「これ、店の名刺。裏に俺の番号がある。来るときは連絡して」

「あ…うん」

 差し出された名刺を受け取って旭は頷いた。言われたように裏返すと、携帯の番号が確かに書きつけてあった。

「ありがとう。連絡するよ」

 行くぞ、と話の終わりを待っていた吉沢に肘を引かれた。

 穂高がちらりと吉沢を見てにこりと笑い、それじゃ、と会釈をして背を向けた。長い足で歩いていくその姿が、あっという間に人の流れの中に紛れていく。それでも背の高い彼が人波の中に溶け込むのには時間がかかった。

 どこにいるのか、いやでも目が追って行く。

「…んだあれ」

 吉沢が何か小さな声で呟いた。けれど周りのざわめきにかき消され、旭には聞こえなかった。

「なあ、この間って?」

「うん、……」

 少し大きな声で吉沢が言う。

 曖昧に頷いて、まっすぐに伸びた姿勢の良い背中が見えなくなるまで雑踏の暗がりを見つめた。どこかで曲がったのか、穂高の後ろ姿がふっと視線の先から消え、分からなくなった。

「…ごめん、行こうか」

 釘付けになっていた目を無理やり引き剥がすようにして、ようやく旭は吉沢を振り向いた。

 出来ることなら追いかけて行きたいと思った気持ちは、胸の奥に押し隠した。



 顰めた顔で穂高はポケットの中で震えっぱなしだった携帯を手に取った。案の定オーナーからだ。

「──はい」

 足早に人の間を歩きながら穂高は応えた。

『おーい、店どうなってる? 遅刻だぞ』

「…すぐ行きます」

『今どこ…』

「…っと」

 電波が悪いふりをしてそこで穂高は一方的に通話を切った。また掛けて来られても面倒なので電源を落とし、ポケットに放り込んだ。

 吐きそうだ。

 胸の奥が爛れたように熱い。触れられないものに手を伸ばしたあの男が許せない。しかも…

 ──穂高くん

 自分でそう呼ぶことを強いたくせに、それに傷ついていれば世話がない。

 深くため息をついた。とりあえず店を開けなければ。首になるわけにはいかないのだ。

 穂高はきつく手を握りしめた。

 

***


「そういや、最近吉沢と仲良いんだって?」

「え?」

 昼食を近くの定食屋で取ろうと一緒に入り、それぞれに注文したものを待っているとき、原口が聞いてきた。

「こないだ一緒に出掛けたんだろ?」

「え…あー、うん」

 まあ、と旭は答えた。

 週が明け、半ばが過ぎた。吉沢からはあれから頻繁に連絡が来るようになり、嬉しい反面旭は戸惑いが隠せなかった。

「あいついい奴だし、楽しいだろ?」

「そうなんだけどさ…」

「ん?」

 曖昧な言葉を返す旭に、原口がお茶を飲む手を止める。

「吉沢って誰にでも好かれそうなのに、なんで俺なんだろう?」

「は?」

「友達多そうなのに」

 営業という部署にいて、本人の明るい性格もあるのか吉沢には友人が多い。交友関係も広いし、顔も広そうだ。会社内で女の子によく声を掛けられているという話を耳にしたこともある。そんな男がなぜ、地味な自分と仲良くなりたがるのか、旭にはまるで分からない。

「えー、そんなふうに思ってんだ?」

「話してても趣味も違うし、なんでだろうって」

「ふーん。まあでも、そういうのは関係ないんじゃねえ?」

「え?」

 注文していたものが届き、会話はそこで途切れた。旭はアジフライ定食、原口はカツ丼だ。しばしふたりとも目の前の料理を食べることに集中する。

「西森はさ、もうちょっと自信持ったら?」

 先に食事を終えた原口が、おかわりのお茶を啜りながら言った。

 自信?

「俺は西森といて楽しいけど」

「…そう?」

 それは付き合いが長いからではないだろうか?

 半分首を傾げながら問い返すと、原口は笑って、旭の定食の膳に残っていた漬物をぱくりと指先で摘まんだ。



「お」

 昼休みが終わり社に戻る途中、社用車で出掛ける村上を見かけた。運転しているのは営業の人間のようだ。取引先での会合が午後に予定されていたと、ぼんやりと旭は思い出す。

「そういや課長外出か」

 原口が走り去る車を眺めながら呟いた。旭もじっと遠ざかっていくのを見届ける。

「午後はゆっくり出来るな」

「……」

 村上は先週に引き続き旭を無視し続けていた。無駄な業務を言い渡されることから解放されたのは有り難いが、仕事をする上でいないものと見なされるのは少々辛いものがあった。村上の承認がなければ進まないことも多くあり、周りが思うほどには旭は楽になったわけではなかった。話しかければ返事はしてくれる。だが、それだけだ。旭の提出する申請書や承諾書は、どんなに早くに出していても、常に一番後に回されていた。

「はい、分かりました。その旨伝えておきます。…はい、はい、それでは、失礼します」

 受けていた内線の受話器を置き、短く嘆息する。承認が得られず相手に催促されることもこの頃は増えた。

 これが社内の中でとどまっているうちはまだどうにかなる。

 だがもしも、取引相手にまでこの影響が出るようなことになったら──

 一体どうすればいいのか、旭はどこか漠然とした不安を抱えていた。

「…困るよな」

 松井にでも近いうちに相談してみるかと、小さく息を吐いた。



 寒さにかじかんだ指先が震える。

 今日は急激に北から降りてきた寒波の影響で、夕方からこの季節にしては一番の冷え込みになった。

 夜の中に、もう冬の匂いがする。

 裏地のないコートは風をしのげず、吹いてくる風の冷たさに旭は首を竦めた。人の多い繁華街の道の端で、携帯の画面を見ては何度も指を持ち上げては躊躇うことを繰り返していた。

 画面には穂高の番号が表示されている。後はもう発信をするだけだ。

 今日は木曜日、時間からしてもう仕事を始めている頃だ。店の開店時間はとうに過ぎていた。

 どうするか。

 いつでも構わないと穂高は言っていたが、あまり先延ばしにしても行きづらくなる気がした。そうして、ここまで来たけど。

「──…」

 意を決して、旭は画面を指先で叩いた。発信音が鳴る。

 忘れ物。

 それを取りに行くだけなのに、なにもわざわざ連絡をせずともいいのではないかと、ふと思ってしまう。それに、顔を合わせることに旭は少し躊躇いがあった。

 あのときは穏やかだった穂高が、旭とふたりになったとき、また冷たい目で自分を見てくるような予感がした。

 ずっと冷たいままで接してくれたら期待はしない。でも一度優しい目を向けられたらそれをずっと求めそうで怖い。

 幼い頃とは違う。いつまでも今の彼に、昔の面影を見ていてはいけない。あれがきっと本来の──今の素の穂高なのだ。

「勝手だよな…」

『はい』

 息を零した瞬間、低い声が耳元に響いて、あやうく旭は携帯を取り落としそうになった。

「…う、わ、っ」

『もしもし?』

 慌てて持ち直して耳に宛がう。思わず上げた声に何事かとこちらを振り向く何人かの訝し気な視線に、旭は恥ずかしさが込み上げてきた。かあ、と顔が熱くなる。

『…旭さん?』

 名乗ってもいないのに穂高に悟られて、ますます体温が上がった。

「あ、うんっ、俺だけど…」

 仕事中にごめん、と旭は早口で言った。

「今から忘れ物、取りに行ってもいいかな」

『ああ』

 店の中にいるようだが、穂高の声は一瞬プライベートな色あいを孕んだ。

『今どこ?』

「あの、もう、店の前」

『──』

 穂高が息を呑んだ気配に、まずったかと旭はひやりとした。

 その瞬間、少し先にある店の扉が勢いよく開き、黒服を身につけた穂高が飛び出してきた。見渡しもせずにまっすぐ旭を見つけると、大股で駆け寄って来る。顰めた顔で見下ろされた。

「なにやってんのあんた」

 剣呑な声に、ごめん、と旭が言いかけたとき、強く腕を掴まれて店のほうへと引きずられた。

「電話してから来いって言ったの、忘れた?」

 さっきまでの穏やかな口調はどこにもない。

「だから、今したけど──」

「店の前でか? 馬鹿かっ、この辺は危ねえんだよ」

「危ない?」

 チッ、と舌打ちが聞こえた。

「いいから入れ」

 店の中に押し込まれて強引に椅子に座らされた。店の奥にはぽつぽつと客がいて、一番手前に座っていた男性客がこちらをちらりと見て目が合った。騒がせたからだろうと、いたたまれずに旭は首を竦め視線を逸らした。

「いいか、手が空くまでそこにいろよ、いいな」

 カウンターの中に入った穂高にじろりと睨みつけられて、旭は深くため息をついた。

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