6


 翌日、実際にはその日の朝だったが──旭はいつものように出社した。

 遅れることもなくてよかったと、ほっと胸をなでおろした。

「おはよう」

 席にいた原口に声を掛ける。珍しく、旭よりも早くに出勤してきていた。

「おはよう、大丈夫か?」

 顔を合わせるなり、原口はそう言った。昨日は出先から直帰だった原口は、誰かに昨日の村上とのことを聞いたようだと、旭は苦笑した。

「大丈夫、大したことないよ。あ、昨日気がつかなくてごめん」

 家に帰り着いてから気がついたが、昨夜原口から携帯に何度も着信とメッセージが入っていた。

「それはいいけど…なんかあった?」

「え?」

 顔を覗きこまれて、旭は驚いた。

「え…なんで?」

「いやなんか、嬉しそうっていうか…なんか、どうした?」

 そんなに分かりやすく顔に出ていただろうか。荷物を置いて旭は笑った。

「ちょっとね。昔の知り合いに会ったんだ」

「へえ」

 それから週末までの数日間、村上は旭になにも言って来なかった。興味を失ったように叱責もされない。声も掛けて来ず、ほとんど旭を無視するように、理不尽な要求もなりを潜めていた。

 金曜日の終業後、家に帰る途中に吉沢からメッセージが送られてきた。

 明日は暇かと問われていた。

 溜まった家事をするだけで特に用もない。先日の礼を言いに穂高のところに行きたかったが、それは予定とは言いかねた。

 少し考えてから予定はないと返すと、即座に返事が来た。早いなと見ると、午後から出掛けないかとの誘いだった。一瞬旭は困惑する。吉沢と出掛けて、何か話題があるだろうか。たった一度飲みに行っただけで、お互い同期と言う共通点以外あまり接点はない。

 じっと、帰り道の暗がりの中で携帯を見つめる。返事を画面の向こうで待たれている気がして焦った。逡巡したが、結局旭は「いいよ」と返事を打って吉沢に返した。



「はい、もしもし」

 翌日の朝、洗濯機のスイッチを入れたと同時にリビングに置いてあった携帯が鳴った。画面を見て、旭の口元が緩んだ。

「ちーちゃん? おはよう」

 同級生の千紘ちひろからだった。千紘は穂高のひとつ上の姉だ。

『おはよう、旭。ねえ、いい加減ちーちゃんはなくない?』

 幼いときからの仲なので、呼び方はいつまでたっても旭の中では変わらなかった。でもいい加減お互いに大人なのだし直せと、いつものように呆れたように笑われて、旭は苦笑して言い直した。

「ああ、ごめん。千紘、どうかした?」

『別に急用じゃないよ。さださんの近況知らせとこうと思って。今いいかな』

「うん」

 ダイニングの上に置いていたマグカップを手に、旭はソファに腰を下ろした。

 幼稚園からの幼馴染の千紘は、地元で看護師をしている。旭の祖父が入所している老人ホームの経営母体である地元の割と大きな病院に勤務している。

 祖父、貞治さだはるの入っているホームは介護付きで、看護師も常駐する。母体の病院から千紘がホームに派遣という形で異動になったのは3年前、ちょうど旭が今の会社に就職したのと同じ頃だった。それ以来、地元に帰ることが出来ない旭に代わって、祖父の様子を月に一度くらいの割合で、こうして知らせて来てくれる。昔から面倒見のいい千紘にはずっと心配を掛けたり世話になりっぱなしで、旭は頭が上がらなかった。

『それでねえ、可笑しいの、貞さんったら中庭の木全部うさぎの形にしようって言うんだもん』

「え、全部?」

 耳元で笑う千紘の声に旭は驚いた。一度だけ見たことのあるホームの中庭は、驚くほど広い。ひと回りするとちょうどいい運動が出来るようになっていて、少し起伏がある。小さな池があり、たくさんの木々、多くの低木が植えられていた。その植林や造庭には元植木職人である祖父も関わっていた。現役を退いた今でも、乞われれば植木の手入れをしているという。しかし、まさかあれ全部をうさぎの形に? 旭は想像して噴き出した。

「すごいなあ、じいちゃん、元気だなあ」

『元気よー、今年はまだ風邪も引いてないからね』

「へえ、さすが」

 旭よりも健康だ。今年はもう2回風邪を引いたと旭が言うと、千紘に管理がなっていないと叱られる。

『ちゃんと食べてよ、自炊してる? 旭ほっとくと全然食べないから駄目なのよ』

「うん、してる。あ、こないだおばさんが野菜を送ってくれてさ、すごく助かった」

『あー、あの趣味で作ってるやつでしょ? 美味しかった? まずかったら遠慮しないで要らないって言わないと、ずうっと送られてくるよ?』

「そんな、美味しかったよ。全部食べた」

 ほんと? と千紘が疑わし気な声を上げた。

『旭が優しいから、押し付けられてるんだよ。私のとこと、他に送るところないんだもん、ちゃんと言わないと駄目だって』

 他に送るところがないと言う千紘の言葉に、旭は息を詰めた。

「あ、千紘、──俺」

 アキに会ったよ──

「…──」

 言いかけて、旭は飲み込んだ。

 それはいつものことだったが、千紘は弟のことを、いつしかいないものと見なすようになっていた。

 昔は仲のいい姉弟だった。ひとりっ子の旭は羨ましくて、いつも間に割り込むようにして3人で遊んでいたのに。

 あれは、いつからだったのだろう。

『なに、旭』

 千紘の声にはっと我に返る。

「あ…うん、えーと、今度──そっちにお菓子でも送るよ」

『えっほんと?』

「うん、皆が好きなの送るからさ…」

 咄嗟に誤魔化して言ったことに、千紘の声が嬉しそうに弾む。祖父とおばさんと千紘の好きなものを頭の中に思い描いて、旭は微笑んだ。

「皆に、…じいちゃんにも持って行ってくれるかな。いつもごめん、千紘」

『何言ってんの、馬鹿ね』

 遠慮する旭に、母親のような口調の千紘が笑いながら少し怒る。その後ろで、小さな子供の笑い声が聞こえていた。



 待ち合わせたのは、ふたつ隣の駅の、駅ビルの中にある大型書店だった。吉沢と旭の住む場所から、どちらにとっても中間地点となる場所だ。

 早目に着いた旭は、久しぶりに何か読もうかと書店の中をうろついた。文庫本コーナーで好きな作家の新刊が出ていたのでそれを手に取る。ぱらりと捲ったところに、ぽんと肩を叩かれた。

「西森」

 振り向くと吉沢が立っていた。

「吉沢」

「ごめん、オレ遅かった?」

「いや、今がちょうどだけど」

 慌てて来たのか、息の上がっている吉沢に旭は腕時計を見せて言った。

「あーほんとだわ。良かった、すっげえ焦った」

「なんでそんな…あれ?」

 よく見れば、吉沢は薄手のコートを羽織っているが、その下はスーツだった。完全に仕事仕様に見える。

「吉沢、仕事だった?」

 そう、と吉沢が笑った。

「今朝急に仕事ひとつ入っちゃってさあ、慌てたのなんの…速攻で終わらせてきたとこ」

「大丈夫か? 連絡くれればよかったのに」

 それなら出掛ける予定を変えたのに、と旭が言うと、少しだけ吉沢は何とも言えない顔をした。

「はあ? せっかくだし変えたくねえよ。な、それ買うの?」

 吉沢に言われ、手に本を持ったままだったことを思い出す。旭は頷いた。

「うん、レジ行くから先出てて」

「分かった」

 入口手前で別れ、旭はレジに向かった。

 外に出ると、自動ドアの横で携帯を弄っていた吉沢が顔を上げる。

「行こうか」

 とりあえず何か食べようと、適当な店を見つけることにした。



 旭が心配をしていたような、会話に困るようなこともなく、午後の時間はあっという間に過ぎて行った。気がつけばもう日が暮れている。

「な、夕飯も付き合ってくれるだろ? 何食いたい?」

 街灯の灯りだした道を歩きながら、吉沢が旭を見た。駅周辺の多くの店が立ち並ぶ中を、人波に押されるようにしてゆっくりと進む。

「吉沢が食べたいのでいいけど。さっきは俺に付き合わせたし」

 旭を誘った吉沢は取り立てて予定を決めず動くのが好きなようだった。遅めの昼食を取ったあと、吉沢が服を見たいと言うのでふたりでふらふらとあちこちを覗いて回った。買い物が済み、どこかで休憩でもしようと単館の映画館の前を通ったとき、ある短編映画の上映会が催されているのを知った。それは旭が好きで、今も度々古いビデオデッキで見返しているものだった。ようやくDVD化される、その記念上映だ。映画は既に満席だったが、近くのビルの一室で映画の展示会が催されていると入口のポスターに書いてあった。

 ひとりだったらすぐにでも行きたいが、今日は吉沢と一緒だ。

 展示会は来月初めまでとあった。あと一週間。またにするかと思ったとき、旭が熱心に見入っているのに気づいた吉沢が行こうと言ってくれた。

 そうしてなんとか閉場時間ギリギリで滑り込むことが出来たのだ。

「お礼に奢るよ、何がいい?」

 来月発売のDVDの予約もでき、目当ての目録や欲しかった映画の解説本などが買えて旭は大満足だった。嬉しくてそう言うと、吉沢が目を細めて笑った。

「ピザは? この先に新しい店が出来たって」

 指をさす吉沢に、へえ、と旭は感心した。

「よく知ってるな。俺はそういうの全然分からないよ」

 あまり外に出ない旭は本当にそういった情報に疎い。

「外回りなんで早くそういうの聞けるだけ。じゃあそこ行こう、奢りとかはいらねえから」

「え、なんで」

「なんでって、次また誘いづらくなるだろ」

 何気なく言われて旭は目を丸くした。

 そういえば半日一緒にいて、あまり退屈も感じなかった。

 旭はそうだが、吉沢も同じだろうか? 

 なあ、と旭は思っていたことを聞いてみた。

「俺といて、退屈じゃないか?」

「はあ?」

 吉沢が呆れたように声を上げた。何言ってんだか、と続ける。

「ほんっと自覚ねえんだな…そんなわけないだろ、ほら、腹減ったから行こうぜ」

 肘を掴まれて促される。

「わ、ちょっと待っ…」

 まるで違うタイプなのに、ついこの間まではほとんど知らない者同士だったのに──どうして吉沢が自分に構うのか、首を捻りながらも旭は言われるままについて行った。

 長い影が同じ方へと動く。

 その後ろの少し離れた人の流れの中に穂高がいたことに、旭は少しも気づかなかった。


***


 一度目にしてしまったあとで、こうまでして目に付くようになったのは、何かの悪戯だろうか。

 だとすれば性質の悪い悪戯だが、偶然とは恐ろしいものだ。

 仕事は夕方からの穂高は、目当てにしていた単館シアターの上映会に出掛け、終わったその足で店に向かうことにしていた。予想をはるかに超えて良かった映画は、昔一定期間だけ公開されたイギリスの映画だった。配給会社のある事情により公開からわずか2週間で打ち切りとなったにもかかわらず、10年以上たった今でも雑誌で度々特集を組まれるほどに根強い人気がある。長くビデオテープでしか見ることの出来なかったその映画が来月ようやくDVD化されることになり、その記念の上映会と、それに絡めた展示会は見ごたえがあった。

『へえ、西森こういうのが好きなんだ? あ、もう一時間もないぞ』

『いいよ、吉沢は興味ないだろ? 来週にするから』

 映画館を出たそのとき、穂高は騒がしい街の中にその声を聞いて立ち止まった。

『何言ってんだ、来週来れるかなんて分かんねえだろ』

 目の前にいた。

 あいつだ、と思った。

 店に最近よく来る常連客の男。

『ああ、じゃあ、ちょっと付き合ってもらおうかな』

 そいつが──隣で笑う旭の腕を引っ張っていた。

「…──」

 俺は一体何をやっているんだろうな、と穂高は自嘲した。これではまるで…

 休日の夕食時の街中は人で溢れかえっている。

 ほんの数メートル先に、笑い合うふたりの姿がある。

 手を伸ばせば届きそうだと思う。

 馬鹿なことをしていると思いながらも目が離せない。店を開ける時間は迫っていた。

 腹の底が焼けそうだ。

 その隣はかつて、自分の──自分だけの居場所だったのに。

 穂高は歩みを早めた。

 人の間を縫い、追いついた旭の肩を掴む。

 振り向いた旭が目を見開いた。

「──こんばんは、

 旭が自分の名を呼ぶ前に、そう穂高は言った。

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