5

 店に忘れ物をしたことに穂高が気づいたのは、夜になってからだった。外はもう暗くなりかけている。今日は定休日。どうせ明日店に行くのだしいいかと思っていたが、間の悪いことにオーナーから連絡が入り、その忘れ物が必要になってしまった。

 まあいい。回収ついでに明日の仕込みをしておけば、楽が出来る。夕飯も店の物で済ませるか。

 自宅を出て最寄りの地下鉄に乗る。歩けばすぐだが、人の多いところに自然と足が向くのは、上京してからの癖だった。

 ゆっくりと夕闇に染まる人波に視線をさまよわせる。どこにいても頭一つ分背の高いことは、人を捜すのに役立った。

 面影を捜してしまう。そこにいるかもしれないと、会えるかもと期待する。馬鹿げた行為だが、穂高はずっとそうしてきた。

 同じ場所にいられれば──いると思うだけで満足だと思っていた。

 だが、彼は突然目の前に現れた。

 自分のことを覚えていた。

 


 穂高は着いた駅の階段を上がり、店に向かった。

「あら穂高君、今日お休みでしょー、寄ってかない?」

 途中で知り合いに声を掛けられて、また今度と軽くあしらう。しつこく追いかけて誘って来ないのは、穂高の性格をよく知っているからだろう。

 きつい香水の匂いに慣れない。

 繁華街の奥に進み、通い慣れた路地の角を曲がる。ふと、そこで足が止まった。

 誰かが店の前の暗がりに蹲っていた。

 酔っぱらいか?

 まいったな、と穂高は手を伸ばした。店の前で面倒事は困ると、肩を揺すった。

「おい、どうかし…」

 小さくくぐもった声がした。身じろぐ体。振り向いた顔に、穂高は息が止まりそうになった。

「──旭」

 どうしていつも突然に現れるんだ。


***


 …揺れている。

 どこだろう。ぐらぐらと揺れている。

 電車の中?

 そういえば、帰ってる途中だった。

 ここはどこだ。

 妙に薄暗い。

 椅子に座ってる? なんだろう、ふわふわしてる。

 ああ…そうだ。飲んでいたんだった。少し飲み過ぎてしまった。

 もう帰らないと。

 ぐらりと傾いだ体に、咄嗟になにかを掴もうと手を伸ばした。

 その手を誰かがぎゅっと握ってくれた。

「…アキ」

 大きな手だ。

 どんなに鍛えても筋肉のつかない旭のその手は、ほっそりとしていて、女の子のようだといつも揶揄われていた。

 こんな手がよかった。ぶ厚くて、しっかりした手。そうしたらきっと、もっと、出来ることがあっただろうに。

「アキ…」

 握ってくれた手を頬に摺り寄せる。離れていってしまいそうだ。やっと、ちゃんと呼べた。

「アキ、行かないで…頼むから」

 そっと髪を撫でる指先がぎこちない。これが夢でなければいいのにと旭は思った。


***

 

 水の音がする。

 小さな音が遠くに聞こえている。

「……」

 目を開けると、ひどく視界が悪かった。

 ぼんやりと瞬く。

 天井がやけに暗い。

「──起きたか?」

 突然聞こえた声に、はっと旭は起き上がった。頭の上から何かが落ちた。

 ぐわん、と視界が回りそうになる。思わず額に手を当てると、濡れた感触がした。太ももの上に何かが載っている。濡れたタオル、これが額にあったのか。

 視界の端から誰かが近づいてくるのが見えた。

「具合は?」

「あ…」

 目の前にしゃがみ込んだ顔に、旭は目を見開いた。

「ア──」

「意識を失くすほど飲むのは、体に悪いですよ」

 アキ、と呼ぶ前に、遮られてしまう。穂高はちらり旭を見て、濡れたタオルを取り上げた。

「水を」

 立ち上がり、奥に行こうとする穂高の服の裾を、旭は掴んだ。

「アキ…!」

 暗い上に背を向けられていて顔が見えなかった。

 でも、穂高が息を呑んだような、そんな気がした。

「きみ、穂高智明だろ? 俺のこと、覚えてない…?」

 柔らかなセーターの感触。

「…俺は、西森旭って言うんだけど」

 重苦しい沈黙が続いた。

 やがてゆっくりと穂高が振り返る。

「ああ…」

 思い出してくれたのだろうか。頼りない明かりでは立ち上がっている穂高の顔は、こちらを向いていてもまるでよく分からない。

 そのときになってはじめて、旭はここが店の中ではないことに気づいた。よく似ているけれど違う。何より、自分が今体を置いているのは大きなソファの上だ。店の中にはソファなど見かけなかった。

「ニシモリアサヒね」

 穂高がかすかに笑った。

「そういえば、姉貴の同級生にそんなのがいたっけ」

「そ…」

「それで?」

「それで、…昔、いつも俺ときみは一緒にいて…」

 言いながら、段々と旭は自分が馬鹿なことをしているような気持になった。昔一緒にいたから、なんだというのだろう。懐かしくて、会いたくて寂しかったのは自分だけだ。穂高にとって自分は何でもない──年子の姉の同級生という、それだけだ。

 尻すぼみになった言葉を閉じるように旭は続けた。

「よく遊んでたから、会えて嬉しかった」

 穂高がくるりと背を向けて、奥のほうに歩いて行く。冷蔵庫を開ける音がして、さっと一瞬明るい光が部屋の中を過った。

 長細い部屋。もしかしたらこの部屋は店の奥にあるのかもしれない。

 穂高が戻って来て、旭の目の前にグラスを差し出した。

「…ありがとう」

 冷たくて気持ちがいい。ひと口飲むと、胸の奥がすうっと撫でられた気がした。熱が冷めていく。

 そういえば誰かが髪を撫でてくれる夢を見ていた。

「悪いけど、俺は覚えてない」

 旭の向かいに立ち、壁に寄りかかったまま穂高が言った。顔を上げると暗がりに慣れた目に、穂高の表情が少し分かるようになっていた。

 怒っているような顔に、そっか、と旭は微笑んだ。やはり穂高は覚えていなかったのだ。それは仕方のないことだと思った。

「そうだよね、ごめん。覚えてたの、俺だけだね。なんか懐かしくて…」

 言いながら、自分で仕方がないと苦笑する。

「こないだここに来たとき、すぐ分かったんだけど言い出せなくて。今日来たんだけど休みで──その辺で飲んじゃって…、なんかまた戻ってきたみたい。迷惑かけてごめん」

 グラスの水を飲み干すと、穂高が旭の手からそれを取り上げた。

「別に。用があって来たら、あんたを店の前で見つけただけだ」

 蹲っていたのを寝かせただけと穂高は言った。

 それだけでもありがたいことだ。

 こんなふうに話が出来て嬉しいと思った。

「うん、ありがとう、アキ」

 穂高が眉を顰めたのに、旭は気づかなかった。

「俺、もう帰るよ」

 ソファから立ち上がると、ふらりと足下がふらついた。何かに掴まろうとして手を伸ばす。強く、二の腕を掴まれ支えられた。

「まだ無理だろ、そこに寝てろ」

「でも」

 電車がなくなってしまう、と言ったら、穂高が鼻で笑った。

「もうとっくにねえよ、今何時だと思ってる」

「え…、何時?」

「2時」

 そのまま腕を放り出され、旭はソファに沈んだ。

 2時?

 目を凝らして腕時計を見ると、確かに2時を回っていた。

 ばさっとブランケットを投げられる。

「俺は向こうにいるから、朝になったら勝手に帰れ。ドアはそこだ」

 先程開けた冷蔵庫の横を指差される。

 やはりここは店の奥だったらしい。反対側にはもうひとつドアがある。さっさと行こうとする穂高を、旭は慌てて呼び止めた。

「アキ」

 店との境のドアの前で、穂高は振り返った。

「…何?」

「また俺、来てもいいかな」

 じっと穂高が旭を見据える。

「勝手にしろよ」

 ただし、と穂高は付け加えた。

「その名前で俺を呼ぶな」

 それだけ言うとドアが閉まる。

 拒絶のように、ガチャリと鍵のかかる音がした。



 それから程なくして旭は店の奥のドアから外に出た。そこは店の裏口だった。繁華街を抜け大通りを目指して歩いた。始発を駅で待つつもりはなかった。あと何時間かでまた出勤せねばならない。 

 昨日の今日で、休むわけにはいかなかった。

 穂高に会い、話が出来たことで胸の奥が満たされた気がした。

 通りの端に停まっていたタクシーを見つけて旭は乗り込み、自宅へと帰った。


***


 いつのまにか、カウンターに突っ伏して眠っていたようだ。

 奥でドアが閉まる音に、穂高ははっと目を開けた。

「旭…」

 少し待ってから鍵を開け、ドアを引いた。

 大きな仮眠用のソファと作り付けの簡易キッチン、小さめの冷蔵庫があるだけのスタッフルームに、旭の姿はもうなかった。

 やはりもう帰ったようだ。

 明り取りと換気用の窓が申し訳程度に天井付近に小さく、長細く付いている。そこから外のネオンがわずかに部屋の中に落ちていた。店の中と同じようにギリギリまで光量を絞ってあるダウンライトは、3つある内の2つまでもが切れて点かなくなっている。

 深く息を吐き出して、穂高はソファに腰を下ろした。まだほんのりと温かいのは、ほんの少し前まで旭がここに座っていたからだ。

 ソファについた手に何かが触れた。紙だ。

 メモ用紙、手帳か何かを切り取ったようだった。

 目を凝らすと、きれいな字で走り書きされていた。

『穂高くんへ いろいろありがとう、また来ます。西森』

 旭の置手紙だった。

「穂高くん、か…」

 ぐしゃ、と穂高は両手で髪を掻き混ぜる。

 あんな、冷たい態度しか取れない自分が歯痒かった。

 きっと旭はまた来るだろう。

 どうすればいいのか──両手に顔を埋め、穂高は途方に暮れていた。

 忘れたりなどするわけがない。

 幼いころからずっと、穂高は旭が好きだった。 

「くそ…っ」

 今もまだ、髪に触れただけで指先が震える。

 欲しくてたまらなくて、壊しそうだと、手を離してしまうほどに。

 


 最初に穂高の旭に対する想いに気がついたのは、穂高のひとつ上の姉の千紘ちひろだった。

『ねえ、智明。あんた旭のこと好きでしょ?』

 帰るなり、玄関に仁王立ちになって待ち構えていた姉に真正面から切り出された。

『…え?』

で好きなんだよね?』

 何も言い返せなかった。

 当時穂高は中学1年生──旭や姉と同じ中学に進み、入学式を終えた、その一週間後のことだった。

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