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 それは紛れもなく、あの日見た幼馴染の穂高智明ほだかちあきだった。

 今この場で声を掛けるべきか、一瞬旭は躊躇った。ここは彼の職場で仕事中だ。プライベートなことを持ち込んでいいのか、それに自分はひとりではなく吉沢がいる──そう思ってしまったことで、旭は声を掛けるタイミングを完全に見失っていた。

「何になさいますか」

「ジントニックで」

 横に座る吉沢が慣れた様子で答えた。

「西森は? 何にする?」

「あ──俺は」

 吉沢が名前を言ったとき、旭は思わず彼を見てしまった。だが、微笑んでいる彼の顔には何の反応もない。

「それじゃ、軽いものを」

 落胆を誤魔化すように旭は注文した。



 出されたのはミモザというシャンパンがベースのカクテルだった。

 淡い月の色をしたそのカクテルはわずかな光を反射して、深く沈んでいくような暗い店の中にぼんやりと浮かんで見えた。

 長い指だ。

 こんなに長い指をしていただろうか。

 こんなに背が高かっただろうか。

「どうぞ」

 こんなに、深く低い声をしていただろうか。

 カウンターの上に音もなく置かれたグラスを、彼の指先が旭の前に滑らせる。それを見つめ旭は受け取った。顔を上げると、すれ違うように目が合った。逸らされる。絞り出すようにして旭は声を出した。

「…あ、の──」

 彼はゆっくりと旭を見た。

「何か?」

 あまりにもまっすぐに見つめ返された。やっぱり覚えていないのか。名乗り出せず、旭は首を振った。

「いえ、なんでも…」

 一目で営業用と分かる微笑みを彼は浮かべた。

「ごゆっくり」

 そう言って彼はすっと後ろに下がり、旭たちに背を向けた。新しい客が入って来て、彼はその対応に行ってしまう。もう一度呼び止めたい衝動を、旭はなんとか堪えた。

「西森?」

 視線が無意識に彼を追って行く。吉沢に呼ばれて旭ははっと我に返った。

「どうかした?」

「いや、…なんでもないよ」

 視界の端に映る何の変化もない彼の様子に気持ちが落ちていく。

「乾杯」

 カチン、と小さな音を立ててグラスが合わさる。

 吉沢にどうにか笑みを返して、旭は口をつけた。

「こうしてちゃんと話すの、ほんと初めてだな」

「うん」

 吉沢の話に頷きながらも、旭の意識は別のところにあった。

 奥の客に呼ばれて彼の気配は遠のいていった。

 

***

 

 週が明け、火曜日になっても村上から言われたファイルの見直しは終わらなかった。提出は明日、通常業務をこなしながらでは遅々として進まず、旭は自宅での作業を続けていた。睡眠時間を確保しながらやっていたのでは間に合いそうにないのでギリギリまで時間を削り、ファイルの中の数字と格闘した。

 村上が選び出したものは、主に取引先との間で交わされた書類だった。見積書、納品書、意見合意書もある。中には一切数字の入っていない文書だけのファイルもあり、読み込むこと事体に時間がかかるものが多かった。はっきり言って、旭に負える仕事ではなく、これは経理に長けた者の仕事だった。数字には強かったが、実績や経験がなければ分からないことばかりだ。

 こんなことに、何の意味があるのか。

 ファイルされている書類の中のどこにも間違いや見落としなどはない。それもそうだ。日付けは数年前に遡るものばかり、すでに多くの人が目を通してきたものなのだ。こんなことは、ただ時間を無駄に使い、神経をすり減らせているだけのような気がした。

 それこそが村上の考えかもしれなかったが、旭は深く追求することをやめていた。

 何も考えたくない。

 考え始めると、一気にいろんなことが押し寄せてくる気がする。

 あの夜からずっと、旭の胸の中にはもやもやとした黒い霧が蹲っていた。名乗らずに帰ったことを旭は後悔していた。

 覚えていないと分かっていても、ちゃんと言うべきだったのだ。

 とにかく、終わらせよう。それから考えればいい。水曜日の終わりに、また行こう。

 村上に言われた言葉を思い出す。

 旭は深く息を吸った。

 誰が──泣き言など言うものか。

「おい、なんか顔色悪いぞ、大丈夫か?」

 昼休みになってもデスクに残ったままの旭に、原口が声を掛けてきた。

「うん」

 旭は笑顔を向けて大丈夫と言った。

 原口が納得しているようには、とても見えなかった。



 翌日、声を掛けた村上は、旭の話に一瞬何のことかと眉を顰め、そして思い出したと言わんばかりにため息をついた。

「ああ、あれか」

 大袈裟な仕草だった。村上のデスクの前に立つ旭の背後で、何人かが様子を窺っているのが分かる。

 ばさっと乾いた音を立てて、村上は読んでいた書類の束を机に投げる。

「あれはもういい」

「え…?」

 目を見開いた旭を斜めにちらりと見上げて、村上はぞんざいに頷いた。

「もう、いい…ん、ですか?」

「だからそう言っただろうが」

 旭を見ようともしない。村上はパソコンの画面に視線を走らせながら、素早くキーボードを叩いた。

「見直す必要がなくなったからな。もういらないんだよ。…ああ、言うのを忘れてたな」

 それはわざとだと旭は思った。

「分かったらさっさと仕事に戻れ」

 次の言葉を紡げずにいると、村上は薄く笑った。

「どうせ、出来もしなかったんだろうが」

「──」

 体の横に垂らした手の中の封筒を、旭はぎゅっと握りしめた。

「失礼します」

 悔しさに、せめて声が震えないようにと願い、旭は村上に一礼して自分のデスクに戻った。

 周りの同僚たちがもの言いたげに見てくる視線が辛い。松井も原口も外出中だ。いなくてよかったと思った。また心配をかけてしまう。

 机の引き出しを開けて持っていた封筒を入れる。

 それは見直しの報告書だった。昨夜徹夜して旭はなんとか仕上げていた。

 深く、気持ちを落ち着けるように呼吸をする。

 きっと村上ははじめからこうするつもりだったのだろう。あの場で、旭が出来ていると反論したからといって何が変わるわけでもない。

「……」

 封筒を見下ろした。

 一箇所だけ気になるところがあったので報告書に記しておいたが、もう陽の目を見る事もない。

 出来もしなかったと言われたのは堪えた。だが、これでこの無駄で無意味な仕事からようやく解放された。そう思うことで、旭は自分の気持ちをなんとか宥めることにした。諦めの早い自分の性格を旭はよく分かっている。大丈夫。理不尽さには慣れているはず。これがなにもはじめてというわけじゃない。

 旭は引き出しを閉じた。



 幼いころ、旭は人の理不尽さを嫌と言うほど味わった。いわれのない誹りを受け、傷ついた。自分を蔑み笑いものにする相手を憎んだこともあったが、段々とそんな自分が馬鹿らしく思えてきた。どうして、人生は短いのに、この大切な時間をどうでもいい人間を恨んだり憎んだりすることに使わなければならないのだろう?

 くだらない。楽しいことはもっと、たくさん世界に溢れているのに。

『だからね、もったいないって思うことにしたんだ』

『もったいない…?』

『うん悔しがったり泣いたりしてるより、たくさんアキと遊びたいもん』

 振り返って笑っていた幼い自分。その後ろを歩いていたのは幼馴染だった。

『ぼくも遊ぶ、あーちゃんといっぱい遊ぶよ』

 少し自分よりも大きな手を、あのとき旭はぎゅっと繋いだ。



「……」

 がたん、と車内が揺れた。もう駅が近い。減速していた。

 電車が駅に着き、ドアが開いた。人の流れに押し出されるようにして旭も降りる。出口は2番、右側だった。普段は使わない駅の構内の階段を上がった。

 店の名はコンコード。旭が彼を見かけた地下鉄駅のふたつ隣だった。

 今日行こうと決めていた心が、疲弊してすり減っている。まっすぐ家に帰って眠ったほうがいいと訴えかけてくる。実際寝不足の体はひどく重かった。

 でも行きたいと思った。

 だけど、少し怖いとも思う。

 自分でもよく分からない矛盾した感情のまま、旭の足は引きつけられるように駅前を抜け、路地を曲がり、繁華街の奥へと進んでいく。

 足早に人の間を縫い、通りを歩いた。

 やがて見えてきた、見覚えのある景色に心臓が高鳴る。

 派手な電飾がきらきらと瞬いては消える。

 店の扉が見えた。

 暗がりの中にそこだけが沈んだように一段と暗い。嫌な予感がした。少し手前で旭の足が止まる。

 近づいた扉には、closeの文字が掲げられていた。


***


 そのまま帰らずに、旭は適当な店を見つけて入り酒を飲んだ。もともとそれほど強くはない上に寝不足が祟ったのか、ビールをグラスに半分ほど飲んだだけで頭の芯がぐらぐらとして酔いが回ってきた。体がふわりと浮かんでいる気がする。ぼんやりとしたまま残りのビールを煽り、おかわりをした。そのまま2杯目を惰性で飲み干して、店を出たときには足下がおぼつかず、体がふらついていた。

 すれ違う誰かと肩がぶつかった。舌打ちが聞こえた。

 ぐらりと揺れた体を支えようと足が止まる。

 再び歩き出したとき、旭の足は無意識にコンコードのほうへと向かった。

 扉が見えて、やっぱり休みなんだと思った。

 でも、呪文で開きそう。

 そう思った自分が、旭は無性に可笑しかった。

「ふふっ…」

 ポケットの中に入れていた携帯が震える。取り出してみると、霞んだような視界に、吉沢の文字が読み取れた。

 そうだ、あの日、連絡先を交換してたんだった。

 メッセージを開くと、週末また飲みに行かないかという誘いだった。

 その言葉にすうっと気持ちが落ちていく。

 また行こう──

 返信を返さずに、携帯をポケットにしまった。吉沢は俺といて楽しいのか。

 俺と遊んで楽しいのかな。

 あんなに遊んだ幼馴染は、もう俺のことを覚えてさえいないのに。

 たくさん一緒にいたのに。

 どうして忘れたりするんだ。

 いつの間にか離れた手を、また繋ぎたい。

 立っていられなくて、旭はしゃがみ込んだ。

「アキ…」

 会いたいと願ったら、飛んできてくれるような魔法が欲しい。

 俺を思い出してよ。

 いつだって、失くしてからはじめて寂しいと思うのだ。



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