3


 なんとかその週を乗り切り、週末が来た。

 休日の午前中いっぱいを、旭は溜まっていた洗濯物の片付けと部屋の掃除に費やした。2DKのマンションは就職してから住み始めた部屋で、築年数は古いが日当たりが良く居心地が良かった。高校を卒業してから大学進学を機に上京したときは今よりももっと古く、狭い1Kのアパートだった。あのころはとにかく節約しようと家賃の安さだけで決めたので、贅沢は言えなかった。あの部屋にくらべれば、今は格段に幸せだった。

「よし」

 ベランダに洗濯物を干し終えて、旭は空を仰いだ。いい天気だ。外ではほど近いところにある公園から聞こえてくる子供たちの歓声が聞こえていた。

 リビングの窓から部屋に戻ると、キッチンに行き湯を沸かした。小さなダイニングテーブルの上には開いたノートパソコンが置かれている。湯が沸く間散らばった書類をまとめて、ぱたんと旭はパソコンを閉じた。

 旭はまた村上から無茶な仕事を言い渡されていたのだった。

 金曜日の午後一番に、旭は村上から呼び出しを受けた。

『西森ちょっと来い』

『──はい』

 慌てて作業を中断し、旭が村上のデスクに行くと、村上は立ち上がってついて来いと廊下を顎で示した。

 旭は黙って村上の後について行った。会話もなく着いた先は資料保管室だった。社内で共有するファイルや資料、顧客データなどが保管管理されている。多くはデータ化され社のパソコン内に保存されているが、それでも紙資料は必要なものだ。

 村上は施錠されているドアを電子キーで開け、旭に入れと促した。

 壁のパネルを探ってスイッチを入れる。蛍光灯の光が瞬いて点いた。中はひんやりとして、寒々しかった。

 資料室は10畳ほどの広さで、古本屋のように背の高い書架が規則正しく3列並んでいた。間の通路は人がひとり通れる幅しかない。部屋の中央には2台のパソコンと会議室の長テーブルが2台、向かい合わせに置かれている。空の段ボールがふたつほど残されていた。

『俺が今から必要なものを言うから、探して来てくれ』

『あ、はい』

 あまり中に入ったことがない旭は物珍し気に部屋を見回していて、村上の声にはっとして慌てて返事をした。

 村上と手分けして、四方を埋め尽くす書架から資料やファイリングされたもの探し、抜き出していく。

 長テーブルの上に言われたものを揃えて置くと、村上もその横に自分が探してきたものを置いた。

『西森』

 積まれたファイルを叩きながら村上が言った。

『おまえ、数字に強いんだって?』

『は…? あ、まあ…』

 そうですね、と続けようとして、旭は口を閉じた。青白い蛍光灯の下で見る村上は無表情だった。元々あまり笑わないし表情に乏しい人だが、何を考えているのか分からない。切れ長の鋭い目が、旭をじっと見下ろしている。

『先日のディアウトの数字の間違いに気づいたのはおまえだそうだな』

 ディアウト、新規立ち上げのブランドの名前、松井に頼まれた数字の見直しのことだ。こく、と旭は声に出すよりも先に頷いてしまった。

 ふ、と村上は口の端を持ち上げた。

『じゃあここにあるもの全部見直して、持って来い』

『全部、ですか?』

『今そう言ったろ』

 ファイルは8つ、旭は自分の頬が引き攣るのを感じた。

 この量をまさか今日中に?

 旭の考えを見透かしたかのように村上は言った。

『来週の水曜までにやれ。通常業務の合間にだ。残業はなし、いいな』

 そのまま旭を置いて扉に向かい、出ろ、と顎をしゃくる。ファイルを持ってくれる気はなさそうだ。旭は長テーブルの上のファイルを机の下に放置されていた空の段ボールに詰めて、抱え上げた。村上は既にドアを開け、閉じないようにそれに寄りかかっている。腕組みをして、旭を見ていた。

『あ、──すみません』

『西森』

 村上の側をすり抜けようとした瞬間、ぐっと二の腕を掴まれた。痛い、と旭は思わず顔を顰めてしまった。上背のある村上が、振り仰いだ旭の顔に自分の顔を近づけるようにして言った。

『泣き言は言うな。…分かったな?』



 淹れたコーヒーをテーブルの上に置き、旭は小さくため息をついた。

 誰が──

 誰が泣き言など言うものか。

 あのとき咄嗟にそう言い返していれば、村上の鼻を明かせただろうか。そう思うが、今さらもう遅すぎる。

「……」

 村上は一体何がしたいんだろう。

「パワハラか…」

 頬杖をついて、テーブルの上のファイルの端をぱらっと指先で捲る。携帯が鳴って、旭は立ちあがった。誰だろう? ソファの上に投げ出してあった携帯を拾い上げると、原口からの着信だった。

『なあ西森、今日暇?』

 通話を繋げると挨拶もそこそこに、そう原口は言った。


***


 夕方、旭は原口に言われた場所に来ていた。秋の日暮れは早い。陽はすっかり落ちて、藍色の闇があたりを包んでいる。

 店の名前を確認して扉を開けると、賑やかな歓声が押し寄せてきた。

「西森!」

 入口の近くにいた原口が旭を見つけて駆けてくる。旭は笑って手を上げた。

「悪い、今迎えに行こうと思ってた」

「いいよ」

 女の子でもあるまいし、そんな気遣いは無用だと言うと、原口は笑って旭の背を押した。

「こっち、もう集まってる。店すぐ分かったか?」

「うん」

「ごめんな急に」

 申し訳なさそうに謝る原口に旭は苦笑する。

「気分転換したかったからちょうどいいよ」

 それは本心だった。原口は少し目を瞠った。

「そうか? ならいいけどさ」

 導かれて店の通路を進んでいく。店はイタリアンバルという様相で、内装も凝っていて洒落ていた。土間のような煉瓦敷きの床に足音が気持ちよく響く。あちこちに置かれたワイン樽、その上に並ぶ様々なワインボトル、アンティークの飾り、少し暗い照明、女性が好みそうな店だと思った。

 通路の奥は半個室になっていた。原口が先に入り声を掛ける。

「お待たせ、ほら連れてきたぞ」

 頭を低くして洞窟のような入り口をくぐった。旭が挨拶するよりも早く、女性たちの目が一斉にこちらを向き、甲高い歓声が上がった。



 原口は合コンと言っていたが、それはどちらかというといわゆる飲み会に近かった。メンバーがひとり欠けたからと言われて呼び出された旭だったが、それは原口の、旭を呼ぶための誘い文句だったようだ。

「西森さんて、こういう集まりって来ないのかと思ってた」

 注文した白ワインをひと口飲んで、旭は隣の女性に苦笑した。

「まああんまり、得意じゃないけど」

「ほんと来ねえよな、今日が初めてじゃないか?」

「そうかも」

 向かいに座っている同期の吉沢よしざわに旭は相槌を返す。メンバーは旭を入れて6人、皆会社の人間だ。見知った人もいるし、知らない人もいる。端に座る旭の隣にいるのは経理課の女の子だ。吉沢は営業だった。旭よりも皆原口のほうが親しい者ばかりだ。

「急だったし、絶対来ないって思ってました。今日来て良かったあ」

 女の子──荒木あらきが吉沢に言った。彼女は今年入社したばかりと聞いた。それなら旭たちとは4つほど年下になる。

 さっぱりとした物言いに好感が持てるが、自分をを知っているような口ぶりに旭は首を傾げた。

「…荒木さんとは、今日が初めてだよね?」

 俺を知ってるの?と聞くと、荒木が驚いたように目を丸くした。

「西森さんって、全然──自覚ないんだ」

「は?」

 自覚?

 ぷっ、と吉沢が噴き出した。目を向けると、可笑しそうに旭を見て笑っていた。

 頃合いを見て飲み会はお開きとなった。女の子三人を方角が一緒だと、原口ともうひとりの同期の相馬そうまが送っていく。店の前で別れ、旭は吉沢と駅のほうに向かった。楽しげに笑い合う彼らの声が遠くから追いかけてくる。ふふ、と吉沢は笑った。

「あいつら、今から二次会かもな」

「吉沢は行かなくていいのか?」

 肩を並べて歩く吉沢を旭は見た。吉沢は薄く口元に笑みを浮かべて、行かねえよ、と言った。

「実はオレもそんなに飲み会は好きじゃねえし」

「そうなの?」

「うん」

 仕事だと思ってやってる、と言われて旭は驚いた。吉沢はあの場にすごく馴染んでいて、とても楽しそうに見えた。荒木や他の女の子たちとも盛り上がっていて、扱いにも慣れていた。旭は自分が場違いなところにいる気が始終していたのだ。

「オレはもっとゆっくり飲むのが好きだね」

「ふうん」

 吉沢の前髪が風に煽られる。営業という仕事柄か、吉沢の私服はスマートで雑誌から抜け出たかのように隙がない。派手なことが好きそうに見えて──なのに、人は見かけによらないものだ。

「西森は? 楽しかった?」

「うん、久々に来て良かったよ」

 社内で飲み会があるときも、よほど大きな行事──忘年会や歓送迎会──でなければ参加しない旭にとって、今日は本当に久しぶりの大人数で過ごす時間だった。楽しかった、と笑顔を向けると、吉沢が目を細めた。

「そっか、最近大変だって聞いたけど」

「俺?」

「課長、村上さんだっけ? 西森が当たられてるって」

「ああ…」

 旭は苦笑した。原口から聞いたのだろう。

「大丈夫。大したことじゃない」

 吉沢が足を止めた。旭も立ち止まり、振り返る。

「なあ…まだ、時間ある?」

「あるけど…?」

 休日の集まりにしては早めに切り上げたので、終電にはまだ余裕がある。

「いい店知ってるから、少し付き合わねえ?」

「ひとりがいいんじゃないの?」

 さっきそう聞いたように思い旭が目を丸くすると、吉沢は苦笑した。

「そういう意味じゃねえんだけど、西森とならゆっくり飲めそうだと思って。嫌?」

 旭は首を振った。

「違うけど。じゃあ、一杯だけ」

 明日はまた村上に言いつけられた仕事をしなければならない。飲み過ぎて明日に残ってしまうのは困る。さっきの店では白ワインを二杯、グラスで飲んでいた。あと一杯だけなら大丈夫な気がした。

「いいよ。オレもそうする」

 嬉しそうにそう言って、吉沢が旭の肘を掴み、行き先を導いた。



 その店は大きな扉の幅いっぱいの間口しかなかった。

 要するに、表の通りからは、ビルとビルの間に扉が挟まっているように見えるのだった。映画で見たことがある、異世界への入口のようだ。

「うわ…、すごいな」

「だろ? オレも最初見たときはぶっとんだ。取引先の人に連れて来てもらったんだよ」

「へえ」

 鉄とぶ厚い木で出来ている扉を吉沢が開けた。淡い照明の光が夜の暗がりの足下に伸びてくる。

 吉沢に促されて先に旭が入った。入口から長く奥のほうまでカウンターが続く。先客はふたり、奥の壁際に座っている。カウンターの中にいるバーテンダーはその客の前にいた。ぎりぎりまで落とした照明だ。ふと、柔らかな靴底の感触に、思わず下を見ると密度の高い絨毯が敷かれていた。

 旭の背後で扉が閉まり、背中にぴったりと寄り添うように吉沢が立った。

「あ、ごめん──」

 入口で立ち止まってしまったと旭は慌てて顔を上げ、吉沢を振り向いた。驚くほど近くに顔があり、触れそうになって焦った。踏み出した足がよろめいて吉沢に腕を取られる。

「狭いから気をつけろ」

「うん、ありがとう」

 もう一度ごめんと言ったとき、カウンターの奥にいた人影がすっと近くに来た気配がした。

「いらっしゃいませ」

 低い声が響く。

「あー、ふたりで」

 旭の頭越しに吉沢が答えた。

 何気なく視線を前に向けて、旭の鼓動が止まった。

 息を呑む。

 一瞬沈黙が落ちた気がした。

「──どうぞ、こちらに」

 暗い光の下で、はまっすぐに旭を見てそう言った。

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