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 月曜日の朝一番に、出来上がった社内資料を旭が提出しても、上司の村上むらかみはやはり何も言わなかった。

「ああ、そこ、置いておいてくれ」

 予想通り素っ気なく言われ、はい、と旭は答えた。言われたように村上の机の端にファイルしたものを置き、自分の席に戻る。

 村上に向けた背に、彼が電話で何やら話しているのが聞こえる。

 やれやれと内心でため息をついて、旭は立ち上げたばかりのパソコンの画面に向かった。

 肩を叩かれて振り向くと原口だった。

「おはよう」

「おはよう」

 大きな欠伸を噛み殺しながら原口が椅子を引いて座る。

「どうなった、あれ」

「出来たよ。おかげさまで」

 キーボードから手を離さずに旭は言った。

「もう出したのか?」

 耳に寄せるように言われて、旭は頷いた。原口は首を伸ばして、村上の様子を窺っている。チッ、と小さな舌打ちが鳴った。

「見てねえじゃん、課長」

「いいから、仕事しろよ」

 月曜日には課ごとに朝礼があるが、それまでまだ時間はある。ぼんやりしてると村上から何を言われるか分からない。しょうがねえなあ、と呟きながら原口は大儀そうに仕事を始めた。

「西森」

 朝礼も終わり、午前ももう昼に近くなっていた。先輩の松井まついから声を掛けられて、旭は顔を上げた。定例会議で村上は席を外しており、課内はのんびりとした空気が流れている。

「はい」

「これ、今やってるとこの新しいパンフレット、下刷り見ておくだろ」

 松井が差し出した大判の封筒を旭は受け取った。

「はい、ありがとうございます」

「西森が手伝ってくれたところ、ちゃんと反映されてるよ。ほら、ここと──ここ」

 旭の手から封筒の中身だけを抜き取って、松井はパンフレットを旭の机の上に広げた。松井が指差したところを見る。なるほど、ちゃんと以前、旭が提出した数字が書き込まれていた。ほんとだ、と旭は言った。

「俺の意見、通ったんですね」

「ああ」

 旭の所属する部署は生活産業に関するものを扱っている。食品部門は別にあるため、衣食住のうち、衣と住が主だ。新規に共同で立ち上げるアパレルブランドの宣伝パンフレットに付けるデータの見直しを、旭は松井に頼まれてやった。見直しといっても単純な確認のようなものだったが──案外第三者の方が間違いは見つけやすいと言われているように、旭は数字の間違いに気づいてそれを松井に報告した。そのとき提出した新たに旭が計算し直した数字が、きちんとパンフレットに記載されている。

「役に立てて良かったです」

 見上げると、松井は笑っていた。旭の横から原口がぐっと身を乗り出してくる。

「なに、見して見して」

 ほんとだ、と経緯を知っている原口が呟いた。

「めげるなよ西森」

 旭の肩を叩いて松井は戻って行った。励ましてくれているのが分かる。嬉しくて、旭の手がふわりと軽くなったような気がした。

 昼過ぎ、長い定例会議から戻って来た村上は不機嫌そのものだった。おかげでのんびりと平穏だった雰囲気はあっという間にどこかに消えてしまい、課内の空気がピンと引き締まった。人ひとりいるかいないかだけでこうも変わるのかと旭は毎回思う。それだけ村上がその存在だけで皆を緊張させてしまうことにも驚くが、せめて昼食後で助かったと思った。

 あとは午後の何時間かを乗り切るだけだ。

 内心でため息をついたとき、村上が自分を呼ぶ声に、旭は顔を上げた。



 だん、とビールのジョッキが大きな音を立ててテーブルに置かれた。はずみでグラスの縁から跳ねた泡がテーブルに落ちる。原口、と旭が窘めた。

「危ないって」

 旭はお手拭きでこぼれたビールを拭った。近くにいた店員が何事かと見ているのに気づいて、ごめん、と唇で言った。大学生ほどの店員が曖昧に頷いて去っていく。駅前の居酒屋だった。

「飲み過ぎだよ、月曜だぞまだ」

「だって! 悔しいくねえのおまえっ」

「まあ…悔しいけど」

 旭は苦笑した。当の本人よりも原口のほうが興奮していて、旭の悔しさはすでに半減している。

「いつものことだし、気にしないよ」

「かあーっもうなんだよ、もっと怒っていいんだぞおまえは」

「原口が今怒ってるじゃん」

「それは西森が怒らないから」

 会話が同じところをさっきからぐるぐると回っている。旭はグラスの中に残っているビールの表面を見つめて、原口に笑ってみせた。

「大丈夫だよ」

『西森』

 数時間前、不機嫌な声で呼ばれた旭が村上の元に行くと、朝提出した社内資料のファイルが、旭が置いた場所にそのままあった。動かされた形跡も村上が確認した様子もなく、ファイルの上には新しい書類が積まれていた。目にした途端、見なければよかったと思った。埋もれている、要するに、村上にとってはどうでもいい仕事だったというわけだ。

 やるせなさに旭は胸のうちで深く息を吐いて、何でしょう、と聞いた。

『これに目を通して、まとめて持って来て。それと社内メール頼むよ』

『はい、分かりました』

 差し出されたリストとファイルを受け取ろうとすると、すっと村上はそれを引っ込めた。指先が空を切り、目を丸くした旭に冴え冴えとした一瞥を寄越してから、村上は言った。

終業時間内にやれ。いいな?』

『──』

 あのときのひやりとした感覚を流してしまうように、旭は残りのビールを飲み干した。

 同じようにグラスを煽った原口が、おかわり、と店員に声を掛けた。

「なんなんだもう、くそっ」

 うん、と旭は頷いた。

「ありがと、原口」

 そう言うと、息を詰めて原口が旭を見つめ、空になったグラスを持ち上げようとしてやめた。

「ほんと、なんなんだろうな、あの人」

「残業するなって言いたかっただけだろ」

「それにしたってなあ…」

 先週末、旭がぎりぎりまで残業をしたことが村上の耳にどこからか入ったのだろう。定例会議でそのことを言われたか、ただ単に会議内容に腹を立てて虫の居所が悪かったか、全く旭には関係のないことでの八つ当たりか、そんなところだろう。渡された仕事は何とか終業時間内に終わらせることが出来たし、帰りにそれを報告しに行ったときには、幾分村上の機嫌もよくなっていた。素っ気なく旭にご苦労と言い、村上が定時を少し回って課を退出したときには、その場にいた全員が詰めていた息を吐き出し、全身から力が抜けていた。

 思い出して旭は諦めたような笑顔をこぼす。

「おまえばっかりって異常だよ。松井さんも言ってただろ」

 村上が帰ったあと、松井が旭を気遣って言った言葉を、横で原口も聞いていた。

 パワハラだ、と吐き捨てる原口に、旭は静かな声で言う。

「課長は俺が気に入らないんだよ」

「西森──」

「自分じゃどうしようもないから、仕方ないよ」

 原口が何か言いかけたとき、テーブルに並々とビールの入った新しいグラスが届いた。



「おやすみ」

 じゃあな、と手を振る原口に手を振り返して、旭は駅の構内へと入った。改札にカードを通して抜け、ホームへと上がる。階段を昇りきったところで、冷たい風がびゅう、と吹き抜けた。

 酒で温まった体がすぐに冷えていく。薄手のコートの襟を合わせて電車が来るのを待った。次に来るのは5分後だ。

 ホームの上に掛かる屋根の隙間には夜空が見える。星は繁華街の明るさで霞んでしまってどこにもなかった。半分以上欠けた月が、ぼんやりと浮かんでいる。

 息をするともう白くなる。

 帰って何をしよう。

 風呂に入って、眠って…

 そう、眠ればきっと、嫌なことは明日には忘れている。

 忘れられる。

「……」

 ふいに、言いようのないやるせなさが胸の内側で膨らんだ。

 電車の侵入を知らせるアナウンスが始まる。

 ホームに電車が滑り込んできた。ドアが開く。吸い込まれるように周りの人が動き出す。乗らなければならないと思うのに、旭は立ち止まったままそれを見送った。

 旭は踵を返してホームに背を向け、階段を下りた。



 彼を見かけたのはほんの偶然だった。

 仕事の帰り道。その日は先輩に同行して行った取引先との会合が長引き、帰宅時間はいつもよりも遅く、直帰だった。用があるからと言う先輩と出向き先の社の前で別れ、旭は普段は使わない路線を乗り継いで家に帰ることになった。行きはタクシーだったので土地勘がなく、地下鉄の入口を探すのに少し手間取った。

 大通りの交差点の手前でようやく目指している場所を見つけ、信号待ちをする人の後ろに旭は立った。

 安堵して息を吐く。

 肩から力が抜け何気なく見回し、前方に視線を向けた瞬間に、気がついた。

 人波の中に知っている人がいる。

『──』

 間違いない──彼だ。

 遠くて確信が持てなかったけれど、彼だと旭には分かった。

「は…」

 旭はあの日と同じように息を吐いた。あの日とは違う白く凝る息が溶けていく。

 赤信号の交差点、横断歩道の先が彼を見た場所だ。

 もうあれから何度も旭はここに来ていた。意味のないことだと分かっている。彼がいつもこの地下鉄を利用しているとは限らない。

 たまたま──あの日偶然、旭と同じように、ここにいただけかもしれない。

 その可能性のほうが大きい。

 それでも。

 信号が青に変わり、まばらに待つ人たちと一緒に旭は横断歩道を渡った。その間もずっと、視線は地下鉄の入り口にあった。

 辿り着いて辺りを見回した。

 同じ時間、同じ場所。何度繰り返してもあれから見かけたことはない。

「…22時」

 いつもより2時間以上遅い。腕時計で確かめて、旭は苦笑した。いったい、何をしているんだろう。

 懐かしくて、ただそれだけで、そして会って、何の話をする?

 何を話すというのだろう。

 もう随分昔に話をしなくなったというのに。

 旭のことなど、彼はもう覚えてはいないはずだ。

「そうだよな…」

 きっと忘れている。

 ばかだな、と旭は自嘲した。

 離れてしまってから寂しいと気づいて、それでも捨ててきたのは自分のほうだったのに。

 たった一度見かけただけで焦がれるように会いたいと思うことが、ひどく滑稽だと思った。

 ただもう一度、もう一度だけ。

 離れない面影を追うように、足が向いてしまう。

「…なにやってんだろ」

 帰らないと。

 それでもしばらく動けずに、旭は入口の側の腰高まである植え込みの縁に腰掛けて、時間を過ごした。

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