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 真面目に仕事をしていても報われないことは多くある。叱責を受けてあさひが自分の机に戻ると、隣の席の同僚が小さな声で旭の耳元で言った。

「お疲れ」

「うん」

 旭は苦笑する。まあいつものことなので特に気にはしない。旭の上司はささいなことでもかっとなりやすい性質で、叱責は日常の光景だった。パワハラだとかなんだとか言われている最近も気にせずに怒鳴りつける。それに慣れつつある自分がどうしようもないと旭は思うが、どんなに上手くやっても同じなので、もう仕方のないことだと諦めていた。

「今日は何の地雷?」

 上司の席から離れたここまでは、叱責の内容は聞こえなかったらしい。後ろを通り過ぎていく他の同僚が、ぽん、と旭の肩を叩いた。振り仰げば目が合って、かすかに気の毒そうに笑う同僚に、旭は笑い返して、隣の同僚の原口はらぐちに言った。

「文章に句読点がいっこ足りないの」

「はー…」

 資料を渡すふりをしてこそっと答えると、原口は呆れた声で盛大なため息をついた。

「馬鹿なんじゃねえの」

「聞こえるぞ」

 ふーん、と原口は鼻を鳴らした。

「なあ今日飲みに行く?」

「んんー」

 少し考えて、旭はやめとく、と言った。

「なんで?」

「早く帰りたい」

「俺も」

 くすくすとふたりで笑い合った。



 大学を出て一年間の空白ののち、就職をしてから三年が過ぎた。就職難と言われながらもなんとか入り込んだ会社は小さな商社だった。仕事はやりがいもある。でも、性に合っているかと聞かれたら、それは果たしてどうだろうと、旭はいつも少し考えてしまうのだった。

『きみ、どうしてうちを選んだの?』

 採用面接で聞かれた言葉は、そのまま自分に跳ね返ってくる。

 どうして?

 どうしてだか自分でもよく分かっていないのに、答えられるはずもない。

 あのとき俺は何て言ったんだっけ?

 もう覚えていない。覚えていないほど、ありきたりのことを言ったんだろう。

「ありがとうございましたー」

 帰りすがら、行きつけのレンタルショップでDVDをひとつ借りた。とぼとぼと歩く夜道で人とすれ違う。

 帰って何をしよう。映画を見て、それから…

 それから眠って、明日また起きて。

 明日は金曜日、これといった予定もなく、夜はもう長いことひとりで過ごすのが旭には当たり前になっていた。

 


 翌日、滞りなく仕事を終わらせて、定時で上がろうとしたところで旭は上司に呼び止められた。

西森にしもり、ちょっといいか」

「はい」

 上司のデスクまで行くと、机の上には厚めの資料が置いてあった。なんだか嫌な予感がしたが、旭は見て見ぬふりをする。

「何でしょう」

「悪いんだけど、これ頼めるかな」

 そう言って差し出されたそれは、机の上の資料だった。嫌な予感は当たるものだ。

「いつまででしょう?」

「月曜」

「げ──」

 月曜ですか、と呟くと、上司は笑った。その笑顔が怖い。今日は金曜日で、それの意味するところはひとつしかない。旭は引き攣りながらも、分かりましたと答えた。

「遅くても月曜の昼までには仕上げておいて。いいね」

 駄目押しのように念を押されては、言い返す気力は既になかった。

 資料を受け取って自分の机に戻る。

 ファイルに収まった紙束はぶ厚い。

 俺は何か、上司に嫌われることをしたんだろうか…

 やれやれと思いつつ再びパソコンのスイッチを押して、立ち上がった画面をクリックし、旭はキーボードを叩いた。

「なにやってんのおまえ、手伝おうか」

 他部署に行っていた原口が戻ってきたのはそれから一時間が過ぎたころだった。気がつけば課にはもう誰もおらず、定時を過ぎてもパソコンに向かっている旭を見て、何があったのかをすぐに察したらしい。

 旭は凝ってきた首を左右に曲げて、片手で肩を揉んだ。

「んーいい。課長目敏いし、またなんか言われそう」

「どんくらいかかりそうなの、それ」

 手元の資料の半分よりも上を、旭は摘みあげた。一時間でこのペースなら、後ざっと見積もっても、5時間はかかりそうだ。

「うわ、鬼畜だな」

 旭の答えを聞いて原口は心底嫌そうに顔を顰めた。帰り間際に言い出すことが底意地が悪いと思う。旭も同感だったが、文句を言ったところで進むわけでもない。

「ぎりぎりまでやってあとは持ち帰るよ」

 そう言うと、原口はふいと部屋を出て行った。

 帰ったのかと気にせずに旭が作業を進めていると、しばらくしていい匂いがしてきた。

 ことん、と机の端に近くのカフェのテイクアウトコーヒーが置かれる。

「え…あ?」

 見れば、原口が紙袋を手に立っていた。

「ちょっと休憩しろ」

「ありがと…」

 原口はそのまま隣の自分の席に座り、紙袋からもうひとつコーヒーを取り出した。ずず、と熱いのを啜る様子に、旭は目を瞠った。

「え、帰んないの?」

「21時で強制消灯だろ、あとちょっとだしいるよ」

 時計は19時56分を指していた。

 働き方改革で、会社の方針として残業は基本的には20時までとなっているが、実際にはそれでも終わらない仕事の方が圧倒的に多い。そのため警備室に事前申請しておけば、21時までは会社内で作業をしても大丈夫なようになっていた。旭は作業を始めて30分で警備室に申請の電話を入れていた。

「なんかうまいもん食って帰ろうぜ」

「いいね」

 と旭は笑った。原口も金曜の夜に大概暇だと揶揄おうかと思ったが、旭を気遣っているのだろうと、それは言わないことにした。

 原口は携帯を取り出して店を検索し始める。

「なあ、何がいい?」

「んー、…焼き鳥?」

「よし」

 ちょっと考えて思いついたままを口にする。

「やる気出るだろ?」

「出るね」

 原口が買って来てくれたコーヒーを飲んだ。ほんの少しだけ甘い、コーヒーは旭の好みに合わせてあった。



 21時で切り上げて、旭と原口は連れ立って会社を出た。なんとか半分を越えたところまで終わらせられたのは、原口がなんだかんだと手伝ってくれたからだろう。

「ありがと、助かったよ」

 旭がそう言うと、一歩前を歩いていた原口は振り返った。

「どうにかなりそう?」

「土日あるから大丈夫だよ」

 持ち帰りの仕事は推奨されてはいないが、やるべきことをやらなければ叱責されるだけだ。なぜ自分が、と思わないでもないが、任されたことを放り出したくはなかった。

 出来ないと思われるのは癪だ。

「なんでおまえばかりなんだかなあ」

「俺のこと嫌いだからじゃん?」

「えーそんな理由…」

 事あるごとにきつく当たられては、そう考えざるを得ない。旭に全く心当たりはないが、知らぬところで他人を傷つけていたり、嫌な思いをさせていないとも限らなかった。同じようなことは前にもあったし、旭はそういうことなんだろうと思っていた。

 あとはまあ、相性が悪いとか。

「あ、ここだ」

 話している間に、目的の店には着いていた。焼き鳥の美味しそうな匂いが洒落た格子の木の扉の向こうから漂ってくる。引き戸の扉に手を掛けながら原口が旭を振り向いた。

「レバーが美味いんだってよ」

「え、ほんとか!」

 レバーは旭の好物だ。前に一緒に居酒屋に行ったとき、原口が食べられないと残したものを喜々として旭が食べていたのを、どうやら覚えていてくれたようだ。

「ほんと。頑張って良かっただろ?」

 やった、と喜ぶ旭に、原口は笑って扉を開け、中に足を踏み入れた。



 終電前に原口と駅で別れ、旭は家に続く道を歩いている。

 美味しいものを食べて、体は幸せで満ちていた。ほんの少し飲んだ酒もいい具合に旭を酔わせてくれている。

 家に帰ったら、もう眠るだけ。

 昨日借りたDVDをまた最初から観ながら眠るのもいいな、と思う。人の話し声がだんだん遠のいて眠りに落ちていく、あの感覚が好きだ。

 仕事は明日で終わらせて、日曜日には映画でも観に行こうかな。

「……」

 旭を見る上司の顔が浮かんできて、すっと酔いが引いていく。あの目、ちょっとだけ疎まし気な苛立ったような顔。

 昔もよく同じような目を向けてくる人がいた。

 本当に覚えがない。

 旭は上司のことが嫌いではない。むしろ彼は仕事が出来て自信があり、頼りがいのある人だと思っている。部下には割と親切だ。指示も指摘も鋭いが的確で分かりやすい。機嫌がすぐに悪くなるのは短所だが、いい上司だと思う。慣れ合うことばかりがいいことではない。人を叱れる人というのは組織の中では貴重なものだ。

 ただそれが、なぜかここのところ旭に集中しているというだけだ。

 旭は小さくため息をついて考えを押しやった。

 気がつけばもうマンションは目の前だった。鍵を取り出して、エントランスをくぐった。


***


 日曜日、旭は映画を観に家を出た。

 電車に乗り、3つ隣の駅で降りた。

 駅から歩いてすぐのビルの中にシネコンが入っている。夕方の回のチケットを買い、適当な店で時間を潰してから映画館に戻ることにする。旭は目に付いた店に入ってカフェオレを注文した。休日の店内は人でごった返していたが、窓際のカウンター席が運よくひとり分空いて、そこに滑り込むように座った。

 カフェオレを飲んでひと息つく。

 持ち帰りの仕事は土曜日には無事に終えることが出来た。

 明日朝一番に上司に出せばいい。きっと何も言わずに彼は受け取るに違いない。

「…っと」

 旭は首を振った。なんで休みの日にまでこんなことを考えているんだか。

 ぼんやりと道行く人を眺める。

 皆せわしなく歩いて行く。ぶ厚いガラスで足音は聞こえない。

 道行く人たちの足下でかさかさと舞う枯れ葉に、もう秋なのだと感じた。

 ゆっくりとカフェオレを飲んで頭の中を空っぽにしていく。

 腕時計を見るとちょうどいい頃合いになっていた。飲み干したカップを持って、旭は席を立った。

 2時間ほどの映画はあっという間に終わった。エンドロールまできっちり見て明るくなってから、ゆっくりと旭は眼鏡を外して立ち上がった。物を見る時にしか眼鏡は掛けない。あまり好きじゃないし、苦手だった。目頭を押さえて指で揉む。人に押されるようにして出口まで出ると、急に空腹を感じた。

 20時になろうとしている。

 家に帰って作るのも面倒なので、このまま何か食べて帰ろうと、旭は駅に向かった。確か隣の駅に美味しい店があったはずだ。

 地下鉄の入口に向かい、旭はふと思い立ち立ち止まった。

 20時か…

 旭は行き先を変えた。

 行きたかった店とは違う路線の改札を抜けて、ちょうど来た電車に乗り込んだ。

 

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