アールグレイティー

────恋人じゃないよ。大切な友達だ。



脳内で繰り返される、耳に残った言葉。

ソラリスの寝れない夜の元凶となるのは、そんな愛する人の一言で。別に期待していた訳では無い、そう言ったなら嘘になるだろう。随分と浮かれていたのだ。レイジと過ごす時間があまりにも穏やかで、幸せで。彼の言った言葉は事実であるが、それがどうにも胸を締め付けた。


「はぁ……なんだか疲れが取れないなぁ」


グランに進められて、ソラリスも中庭のベンチで日向ぼっこをするのが日課になっていた。暖かな、いや、今の時期は少し暑い気もするが、ソラリスはそれでも外に出て陽に当たりたかった。憂鬱な気持ちは太陽を浴びていないせいかもしれないし、多分部屋で一人で居たら泣いてしまいそうだ。


ベンチに座ったはいいが、生憎今日の天気は曇り。それどころか雨に降られそうな、そんな予感さえする空だった。まるで自分の心の内を現しているようだ、ソラリスはそう思ってため息を吐いた。どんより、じめじめ。そんな空気が、今のソラリスと同調しているようだった。


そしてふと、隣に誰かが座った。

視線を向ければ、そこには花見の席で一緒だったヴィノスが、相変わらずの不機嫌そうな顔で座っている。正直特に仲がいい訳でもない彼が隣に座った理由が分からず、ソラリスは困惑していた。


「あ、あの……お久しぶりです」

「ああ」

「天気が悪くて、嫌になっちゃいますね」


軽く笑いながらそう言ったソラリスだったが、ヴィノスは返事を返さずにまっすぐを見つめている。会話が続かないというか、会話をする気が相手にないというか。なんで隣に座ったのだろう、休憩所もあるのに。そういった気持ちがソラリスの本音である。


ヴィノスは胸元に下がるネックレスに触れながら、鋭い視線をソラリスに向けた。なんだか怒られるのではとソラリスは身構えたが、彼は口を開いて、そして言いづらそうな顔をして口を閉じる。そしてまた開いてと、もどかしい気持ちになったのかネックレスに触れる手がピタリと止まった。


「あー、なんというか……なんか悩み事か?」

「……え?」

「辛気臭ぇ顔して、なんか悩んでんのかって聞いてんだよ」

「ひっ」


怖い。

要約すれば、悩んでることあるの? 話聞くよ? と言っているのだろう。彼のような性格の人がわざわざ聞いてきたのだ、相談に乗る気があるのかもしれない。怯えた様子のソラリスを見て、ヴィノスはガシガシと頭を搔くと小さく舌打ちをした。繰り返す、正直怖い。


「えっと、その……」

「ロザリエがお前のこと気に入ってんだよ。なら俺も気にかけてやろうかと思ったんだが……まあ向いてねェか」

「い、いえ! あの、私の話聞いてくれるんですか?」

「だからそう言ってんだろ」


ヴィノスは視線を逸らすと、退屈そうにソラリスが話し出すのを待っていた。もうこの際話を聞いてくれるなら恋愛マスターでも不機嫌そうな男でも、なんならナメクジねこでもいい。ソラリスはそう思って吹っ切れると、すう、と短く息を吸った。


「レイジ君ってば信じられない! あんなに思わせぶりなことしといて『友達だよ〜』なんて、もっと他に表現無かったの?! せめて気になる人、とか? まあ私も盗み聞きしたし悪かったかもしれないけど……ちょっと期待しちゃったのよ! それなのに── 」

「声がデケェ、本人に聞かれるぞ」

「うっ、うう……。その……私、わがままなんでしょうか? 一人で騒いで、一人で悩んで馬鹿みたいです……」


落ち込んだソラリスはへにょりと耳を下げながらうなだれた。別に振られた訳では無いが、この世の終わりのような気分である。ヴィノスはそんなにソラリスを見てから、また視線を真っ直ぐに向けた。


「……別にわがままでいいんじゃねぇのか。恋ってそんなもんだろ、みんな自分勝手だ」

「そうなんでしょうか……」

「騒いで悩んで、真剣思ってる証拠なんじゃねぇの? それは別に悪いことじゃねぇだろ、そんままでいい」


ヴィノスは再びネックレスに触れている。もしかすると彼も想う人がいるのかもしれない。ソラリスはそう思ってヴィノスに少し親近感が湧いた。彼がどんな恋をしているかは分からないが、ソラリスよりは経験が多いように見える。そんな彼が言うのだから、素直に受け入れていいのかもしれない。そう思うと、ソラリスは堪えていた涙が零れてしまった。


「な、なんか……私だけが好きでっ、もう、正直いっぱいいっぱいなんです……ぅっ、でも、伝える勇気は、まだ無くて……っ」


ソラリスが堰を切ったように泣き始めると、急に雨が降り始めた。勢いが強く、すぐにびしょ濡れになったのを見て、ヴィノスは一度立ち上がる。


「あーあ、一旦避難するぞ」

「う、うぇっ……」

「泣くなって、早くこっち来い」


濡れたまま泣き続けるソラリスを見て、ヴィノスはその腕を掴んで立ち上がらせようとする。


その時──手首を強く掴まれた。




…………




最近ソラリスに避けられている気がする。

それに気づいたのはロキアと知り合ったあの日からすぐであったと思う。会えば軽く挨拶をして立ち去られるし、訓練所で一緒になった時も彼女はすぐに練習を切り上げて、顔を合わせる時間をなるべく少なくするようにしているように見える。


それが素直に寂しいというか、酷く胸が痛かった。あの日彼女が何故泣きそうな顔をしていたのか、それはまだ分かっていない。ただ、その理由を知らなくてはいけないような、そんな焦燥感がこの頃のレイジの悩みであった。


「はあ……どうしたものか」


依頼をこなして群の施設に帰還する。いつも通りの日常を過ごしながらも、ずっとソラリスの顔が頭から離れない。理由を聞くべきか否か、そんなことを悩みながら寮の方へ向かった。少しシャワーでも浴びながらしっかり考えをまとめたい。

そう思っていたが、最近ソラリスが中庭のベンチに居ると人伝に聞いており、自然と足がそちらへ向かった。居るかどうかも分からないのに、そう内心自嘲気味に笑う。すると、中庭に出た瞬間土砂降りの雨が降り出した。なんてタイミングなんだとうんざりする中、ベンチの方に人が居るのが見える。


「うっ、うぇっ……」

「泣くなって、早くこっち来い」


「──ッ」


そこに居たのは、ヴィノスとソラリスだった。

しかし──二人の様子を見て、カッと体が熱くなる。ソラリスは辛そうに泣いていて、そんな彼女の腕をヴィノスが掴んでいる。何が問題があって泣かせたのではないか。あの気の強いソラリスが泣くなんて、酷く傷つくことがあったのだろう。そう思ったら、気づいた時にはソラリスに触れているヴィノスの手首を掴んでいた。


「あ? なんだ」

「手を離せ」


ヴィノスはレイジの表情を見てから、軽く鼻で笑った。挑発されている。そう感じて、ヴィノスの手首を握る力が強まった。痛みを感じているだろうが、彼は涼しい顔でソラリスの頭に軽く手を置いた。


「なんだ、俺が泣かしたと思ってんのか? まあ実際そうだが」

「何故そんなことをした? 理由によってはただでは済まさない」

「あっ、違うの! 待って……ヴィノスさんは何もしてないから……」


ソラリスはレイジの手に自分の手を添えると、強く掴んでいた手を優しく離させた。頭に血が上って、上手く考えがまとまらない。ソラリスが本当のことを言っているのか、ヴィノスを庇っているのか、表情から読み取れずにいる。ただソラリスが泣いている、それだけで自分が酷く動揺しているのが分かった。


「俺の事庇ってんのか? 優しいなァ?」


ヴィノスはソラリスの頬に触れて、涙を拭った。雨に濡れて、雨粒と流れていく涙をヴィノスが掬う。それを見た瞬間、レイジはソラリスの手を掴んでその場から立ち去った。早足で進むレイジの後を懸命に追いながら、ソラリスが慌てているのが分かる。それでも何も言わずに、レイジはそのまま寮の方へ向かった。




「こんだけ煽ってなんも釣りがねェとかは勘弁してくれよ?」


ヴィノスは独り言を漏らして、雨に濡れたまま二人の背を見ていた。雨は別に嫌いでは無いが、今は暖かな彼女の腕に包まれ、頑張って偉いですねと慰めて貰いたい。レイジの冷たい目を見て、ヴィノスはうんざりとした様子でため息を吐いた。



…………



──反省会。

大反省会の開催である。


人は寝る前、急に不安になって人生の反省会を始めることがあると聞く。レイジ自身も、ここをもっとああしたら良かったかもしれない、なんて思い返すことぐらいはあっただろう。

しかし、そんなの今は比でない。

普段のそんな悩みが百パーセントだとしたら、今は千パーセントぐらいで悩んでいるし反省している。自室の浴室から聞こえるシャワーの音に、その気持ちがより強くなった。


「はぁーーーーー…………」


冷静に考えれば、ヴィノスは話の途中でなんらかのきっかけで泣いてしまったソラリスを雨から避難させようと腕を掴んだのかもしれない。女性に丁寧な扱いをする人では無いだろうし、無理やり腕を掴んで立たせようとしたことも頷ける。それよりも雨に濡らせたまま風邪をひくよりかは、少し強引でも雨宿りさせた方がいいだろう。何故挑発されたのかは知らないが、想像通りなら別にヴィノスはソラリスを悲しませた訳では無いはずだ。


問題はここからである。ヴィノスには後で事情を聞いて謝るとして、冷静でなくなったレイジは思わずソラリスを自室に連れてきてしまった。話を聞きたい、その気持ちだけが先走ったのだろう、今はそう冷静に分析できる。そしてくしゃみをして体をさすったソラリスを見て、咄嗟に浴室の方へ押し込んでしまった。これが駄目だった。完全なるアウトである。今の自分が数十分前の自分に会えるなら殴っているところだ。


「ソラリスを部屋に送って後で話聞けば良かったんじゃないのか……?」


何を言ってももう後の祭りである。

この後どうするのか、脳内で複数の自分が会議を始めている。びしょびしょの服をまた着せて部屋に帰すのか。そんなことしたら可哀想だ。じゃあ自分の服を貸すのか。それは嫌がられたりしないか。脳内の自分が大乱闘する中、レイジはとりあえずシャツとズボンを取り出すとそれを脱衣所に置いておいた。


「駄目だ、どうしていいのか分からない」


とりあえずソラリスの好きな紅茶の準備を進めながら、レイジは自分の濡れた服を脱ぐと着替えを始めた。適当にタオルで拭いておけば乾くだろうし、風呂はソラリスが帰ってからでいいだろう。自分が風邪をひく云々よりもソラリスが泣いていた理由の方が気になるし、何か悩みがあれば力になりたかった。


「友達だから、普通だよな……」


ソラリスのことで必死になったり冷静で無くなるのは、大切な友達だから。そう思っていたのだが、ヴィノスがソラリスの涙を拭った時、彼女を悲しませているという理由とはまた違う怒りが湧いたような。なんだかソラリスがレンディエールと二人で仲良くしていた時にも、似たような気持ちを感じた気がする。そんなことを思って、レイジは自分の悩みの核に触れそうな気がした。


「レイジ君、お風呂ありがとう」

「──あ、ああ。ちゃんと温まった?」

「……うん」


浴室から出てきたソラリスに驚いて、思考が遮られた。それを残念に思ったか安心したか、レイジは自分でもよく分からなかった。そして、彼女を姿を見てより脳がフリーズする。

お風呂で温まって僅かに赤く染った頬。見慣れた自分の服だが、ソラリスが着ているだけで全く違った服に見えた。手を胸元で抑えてなんだか恥ずかしそうに視線を逸らせる彼女を見て、釣られてこちらも恥ずかしくなってしまう。


「こ、紅茶いれたんだけど飲む?」

「頂こうかな……あはは」


気まずい。

少し恥ずかしいような、もどかしいような、そんな空気が漂っている。向かいの椅子に座って火照った顔で紅茶を飲もうとしているソラリスが、ちょっと色っぽいようなと思ったり、思わなかったり。そんなことを考えていると、紅茶の温度がちょっと熱かったらしく、軽く火傷をしたのかソラリスはちろりと舌を出した。


「あちち……」

「ごめん、熱かった?」

「ちょっとだけ」


猫背になりながらちみちみ紅茶を飲み出したソラリスが、何となく本物の猫のようで可愛らしかった。シャツのボタンを最後まで閉めずに、僅かに首元が晒されている。別に隠している訳では無いだろうが、いつもは見えない所が見えているというのは──。


じっと観察していると、ソラリスはその視線に気づいたようだった。失礼なことをしたと慌てて視線を逸らせば、彼女は小さく咳払いをする。



そして、ソラリスは余計に背を丸めた。

レイジの視線を受けて、まさか気づかれたのではと恥ずかしい思いに紅茶を飲むことに集中していた。何より、カップを持っている時は胸元が腕で隠せる。もうずっとこの体勢でいたい、そう思うソラリスは心の中でため息を吐いていた。


「(恥ずかしい……! 今日違う服で出れば良かった……)」


ソラリスの普段着は布が厚いため、あるものを身につけていない。それが今ソラリスは大失敗だと後悔している原因である。浮いたらどうしよう、そんな気持ちからだいぶ背を丸めて布と密着するのを避けているが、普段姿勢が良いせいでとてもむず痒いというか。少しシャツのサイズが大きいことが救いである。


あのレイジが何故自室に連れてきて風呂を勧めたから謎であったが、ソラリスの手を引く彼の後ろ姿はいつもと違って見えた。怒っているというか、焦っているというか、彼自身困惑している気がして。その訳が恐らくソラリスにあると言うのは、レイジとヴィノスの様子で察しがつく事だ。


「あの、さ……ヴィノスさんただ私の相談に乗ってだけで、本当に何もしてないからね」


それを聞いて、レイジはガンッとテーブルに額を当てた。音に驚いたソラリスだったが、彼が大きく、そして長いため息を吐いたの見て首を傾げた。


「そうだよな……そうだよなぁ……」

「もしかして、落ち込んでる?」

「大分ね……」


レイジはどうやら後悔しているようだった。確かに状況の一部分を見れば勘違いすることもあるだろうが、普段冷静に物事を見ているレイジが突発的に行動するのは珍しいように思えた。自分が泣いていたから焦ったのか、そう思うと嬉しくなってしまうが、ソラリスは上がる口角を無理やり抑えた。


「(一人で盛り上がってこうなっちゃったんだから、自重しないと……)」


レイジは別に自分を恋愛対象と見ていないし、友達以上には恐らくならない。彼の言うとおり仲のいい相方止まりが、振られて傍に居られなくなるより幸せかも知れない。弱気になる自分にいつもなら喝を入れるが、今はそんな気分になれなかった。


紅茶の温度が程よくなってきた頃、レイジは聞きづらそうにしてから、意を決したように口を開いた。


「その……何の相談してたか、俺も聞いいていいか?」

「え」

「ああ、無理にとは言わないよ。ただ俺も何か力になれないかなって」


彼は本気でソラリスの心配してくれているようだ。そんな相手に「貴方が好きなんですけど、それを聞いてどう思いますか?」なんて聞ける勇気があったのなら、どれほど良かっただろうか。言ったら楽になるだろうが、そのせいで気まずくなって今までのように過ごせなくなるのは絶対に嫌だ。ソラリスは今までの日々を思い出していた。それはとても幸福な時間で、それを捨てる決断をすることは出来ない。


「……ごめん、ちょっと言えないかも」

「そう、か……」


傷ついただろうか。そう思ってソラリスはレイジの様子を伺うが、彼は変わらずいつも通りの表情でこちらを見ていた。少しも気持ちを動かなせない、それが悔しくて。自分には興味が無い、そう言われているようで辛くなってしまった。

さっきまで自分のことで怒ってくれたのは気のせいだっただろうか。ソラリスは涙を堪えながら、テーブルを見つめている。


「そ、そうだ。レイジ君も風邪を引いたら困るから、お風呂入ってきたら?」

「うーん。じゃあ、そうしようかな。紅茶のおかわりあるから、好きに飲んでていいよ」

「ありがとう」


少し考える時間が欲しい、お互いそう思ったのかもしれない。レイジはソラリスの提案を受け入れて、浴室の方へ向かった。もう帰っていいよと言われたら危うく泣いていたかもしれない、ソラリスはそう思って残り少ない紅茶を飲み干した。

悩みを聞けなくても、側にいてあげることは出来る。レイジはそう思ったのかもしれない。いつもレイジのことでソラリスは感情がめちゃくちゃになる、振り回される。さっきまで悲しかったのに、今は彼の気持ちを察して嬉しい気持ちで胸が満たされていた。


「真剣に思ってる証拠、なのかな……」


ヴィノスの言葉を思い出して、ソラリスは胸元に手を当てた。笑ったり泣いたり、嬉しく思ったりして、忙しない感情になるのが恋なのかもしれない。振り回されるのは、一直線に彼を見つめて想っている証拠だと、背を押された気持ちになった。


キッチンの方へ向かえば、紅茶の入ったポットが置いてあった。彼がよく飲むのは珈琲の気がするし、もしかして茶葉も自分が来た時のために用意してくれていたのではないだろうか。そう思って、ソラリスは紅茶をカップに注いだ。


「うー、どうしようもなく好きだ……」


もうソラリスがレイジを好きだという気持ちは変えられないだろう。振り向いて貰えないとしても、それを殺すことは不可能である。そう自覚すると、逆に怒りが湧いてきた。

なんて鈍い男なのだろうか。これだけ視線で伝えているというのに、行動で示しているとい言うのに、何故気づかないのだろう。


それに怒って、ソラリスはあることを思いついた。



…………



所謂、嫉妬ではないだろうか。

シャワー浴びたまま惚けていたレイジは、ふとそう思った。ヴィノスがソラリスに触れるのが、面白くなかったのではないか。以前似たような気持ちを感じた時、それは恋愛感情に限らないと結論を出した。しかし、友人が取られそうになってここまで自分は取り乱すのだろうか。そう思って、一度引っかかる。


「取られそうになって……?」


そもそもソラリスは自分のものでは無い。取られそうになる、という表現はおかしくないだろうか。しかし直感的に自分はそう考えて、思考した。つまり、つまりどういう事だろうか。レイジは、最近ソラリスのことでいっぱいいっぱいだ。

ヴィノスにはした相談事は自分には出来ないと言うし、確かにそれはショックであったがどう言った意味で傷ついたのだろうか。頼られなかったことか、独占欲なのか。


「独占欲だとして……そうならこれは恋じゃない」


ソラリスを見るほど、そう思うのだ。彼女はいつだって輝いている。何事にも一所懸命で美しい。そんな彼女の持つ煌めきの感情と、自分の持つ醜い感情は全く違うものだ。だからこれは恋では無い。そう、思っているのだが──。


一瞬視界がぐらりとして、レイジはシャワーを止めた。異様に暑い、どうやら逆上せてしまったようだ。指先はふやけて、どれだけ長くお湯にあたっていたのだろう。それすらもはっきり覚えていない。


「あっつ……」


脱衣所で適当に体を乾かして服を着ると、レイジはそっとソラリスの様子を伺った。すると、彼女が座っていた椅子には誰もおらず、空席になっている。驚いて近づくが、そこには紅茶の入ったカップが残されている。キッチンの方を向いても、誰もいなかった。まさか嫌になって帰ってしまったのだろうか、そう思っていると、あるものに気づいた。


「……?」


焦って全く視界に入っていなかったが、レイジのベッドにソラリスが横になっていた。もしかして眠かったのだろうか。そう思って近づくと、こちらに背を向けていたソラリスはごろりと体を動かしてレイジの方を向いた。


「レイジ君……」

「眠たかったのか?」


返事は帰って来ず、不思議に思って顔を覗き込めばどうやら眠っているようだった。彼女の夢の中に、自分がいるのだろうか。そう思って、レイジはベッドの縁に座った。

そして、自然とソラリスの頬に手が伸びた。ヴィノスがしたように、指で下から上に優しく撫で上げると、少し原因不明の苛立ちが収まったように感じる。くすぐったかったのかソラリスはもごもごと口を動かしてから、顔を背けてしまった。


「ソラリス……?」


相変わらず返事は返ってこない、熟睡しているのだろう。

自分で連れてきたとはいえ、部屋に連れ込んだ男の服を着て、その部屋のベッドで寝て、なんて不用心なことだろうか。無防備に投げ出された体は、レイジがその気になればすぐに暴くことができる。しかし、彼女はこちらを信用しきって、穏やかな表情で夢の中のレイジと楽しく過ごしているようだ。

信用している人物なら、誰にでもこういうことをするのだろうか。そう思って、頬からゆっくりと首元へ指を下げた。最近は贈ったチョーカーを身につけてくれいるようで、そう思うと少し満たされた。するりと親指で首を撫でると、普段の彼女を想像する。


チョーカーはまるで首輪のようだ。

自分のものだと、

示しているようで────。


「──ッ、何してんだ俺……!」

「ふにゃっ!」

「うわっ」


パッと目を開いたソラリスを見て、レイジはすぐに手を引っ込めた。体に触れたことには全く気づいていないようで、ソラリスは体を起こすとキョロキョロと部屋の中を見渡している。


「あれ、ほんとに寝ちゃってた……?!」

「……おはよう、もう日が暮れるぞ」

「ご、ごめん! 別に寝るつもりはなくて、その、あの……」

「もしかして、気分でも悪くなったか?」


ソラリスはそれを聞くと、ブンブンとちぎれんばかりの勢いで首を縦に振った。気分が悪かったならそんなに頭を振らない方がいいんじゃないか、そう思いつつもレイジは納得する。ソラリスも長い間シャワーに当たっていたようだし、逆上せていたが我慢していたのかもしれない。そういう人に弱さを見せたくないところが心配ではあるが、今回は横になって思わず寝てしまうほどリラックスしたようだし、その対処には安心する。


「その、まだ具合悪いから、自分の部屋で休むね!」

「なら送っていくよ、途中で倒れたら大変──」

「大丈夫! 今日はありがとう、またね!」


テキパキと荷物をまとめると、びゅーんっと効果音でも聞こえそうなほど凄い勢いでソラリスはレイジの部屋から出て行った。あまりの速度に、驚いて部屋の中を駆け回る猫を連想したレイジだったが、今はソラリスが居なくなって安心した。


「はぁ……途中で起きなくてよかった……」


無意識とはいえ寝ている間に勝手に体に触ったとなれば、もう二度と顔を合わせないと言われても頷くしか出来ない。なんでそんなことをしてしまったのか、後悔しても遅かった。感情が乱されて、めちゃくちゃである。完成図の分からないパズルをやらさているようで、完全に疲労している。


レイジは自分の気持ちは恋ではないと思っている。だが、本当にそうなのだろうかと否定する自分もいる。まだ全貌の明らかになっていない景色を見るため、ピースを一つ一つ嵌めていくしかないのだ。



…………



羞恥で死ねるなら、もう何百体と屍が転がっているだろう。

ソラリスはそんなことを思いながら、自室のベッドでうつ伏せになって悶えていた。


少し遡り、レイジが風呂に入っている頃。

ソラリスは名案中の名案を思いつき、紅茶を置いてレイジのベッドに向かった。そして、「失礼しまーす」と形だけの断りを入れてから、ごろりとベッドに寝転がった。

作戦はこうである。まず寝ている振りをして、レイジが風呂から出てくるのを待つ。そして彼が出てきてこちらに気づいたら、寝言のフリをしてレイジの名を呼ぶのだ。夢の中でも自分と会っていると分かると、レイジも少しは意識してくれるかもしれない。


「ふふ、名案過ぎる……!」


恋をすると人は少しおかしくなるものだ、そう指摘する人は誰もいなかったが、ソラリスはそのまま目を閉じてレイジを待った。少し経って、ベッドが自分の体温で温まってくる。レイジはまだだろうが、そう思ってうとうとしながら待ち続けていると、気づけば──。


「ふにゃっ!」

「うわっ」


ソラリスは、ガチ寝をしてしまったのである。

回想終了。


勝手に人の部屋のベッドで寝るなど、それも男性の部屋だ。ふしだらな女だと思われてなかっただろうか、変な顔をして寝てなかっただろうか。そんなことを思うと不安と後悔と恥ずかしさで、また屍が転がるのだ。


「う、うぐぅっ……!」


枕に顔を沈めていると、呼吸が苦しくなって急いで顔を上げる。恥ずか死の死体の横に窒息死の死体が追加されない前に、ソラリスは勢いよくベッドから起き上がった。


「寝てたから何も分からなかった……」


レイジは恐らく、寝ているソラリスを見て眠たがりの寝坊助だと思っただろう。それすら許して、自分にシーツを掛けようとしていたかもしれない、穏やかな顔で。その様が容易に想像出来て、ソラリスはレイジのように大きく長く息を吐いた。


「だ、大反省会だ……!」


こうして、二人の悩める若者は反省会を開くのであった。

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