新しく、懐かしい回帰 Ⅴ


 __結納……って言っていた……けれど……。


 もし1年伸びた場合の学資は、結納金という意味で受け取ってくれ、というのが彼の主張だったことも思い出す。


 __……どうやら、本当に、そうなるらしい。


 そうなる、とは__彼との婚姻。


 今のところ、自分の中で彼への不平不満はない。


 思っていた彼の像と、目の前の彼との乖離もない。


 そして、その彼と今後ともに歩むことになったとして、それに対する不安はほぼないと言える。むしろ、何か困難に直面しても、乗り越えられるだろう、耐えられるだろう、と思えるぐらいだ。


 それに、とキルシェは横を盗み見る__が、そこで思考が止まってしまった。


 リュディガーは、腕を組んで目を伏せていた。


 改めて見た彼の横顔。見慣れているはずだというのに、思っていたよりも端整な横顔で、どきり、と胸が高鳴ってしまった。キルシェは慌てて視線を絶ち、先程眺めていた水がまとまって滴るところへ戻す。


 彼の側から、じんわり、と温もりが伝わってくる。今更ながら、そこが接していることに気づいて、自分の平静のために、衣服の皺を伸ばすことを口実にするようにしてmドベから一度立って裾を伸ばすように撫でてから、拳ひとつ分感覚をあけて座り直す。


 そして、ふぅ、とため息を零して人心地ついた。


 __私……思っていた以上に、彼のことを慕っているのね……。


 今回は、誰かに決められた政略結婚__以前の不本意な結婚にはならないに違いない。


 しかも、自分には無縁だと思った恋慕の末の婚姻という、この時代の貴族では、中々ない流れ。


 自分がお断りをしない限り、卒業して__時期を見て一緒になるのだろう。


 __時期は……卒業直後、なのかしらね……?


 一度は挙げているが、まさか改めて挙式はするのか。


 帝国において、挙式せねば夫婦とは認められない。以前の婚姻は無効となっているから、その場合は__。


 __なんだろう……色々、話していかなければならないことが多い気がする……。


 否、間違いなく多い。


 今はきっと、自分は卒業のことへ意識が向いていて、それを察しているからこそ、彼からは話題に出して来ないのだろう。


 当人だって、矢馳せ馬のことも一大事だ。


 __本当に、する……のよね……。


「__事あるごとに、ローベルト父さん、キルシェさんはどうしているのかい、とすごく聞いてきていたな……。次は、いつ連れて来てくれるんだい、と……よくせっつかれていた」


 リュディガーの言葉に、はっ、と我に返るキルシェ。ばくばく、と心臓の拍動が早く、落ち着こうと膝に置いておいた手を握りしめた。


 そうしながら彼を見れば、穏やかな表情で、正面を遠い視線で見つめている。


「__キルシェさんが弾いていた民族楽器カーチェの曲__川辺でよく弾いていた曲は、イェソドへ行ったとき、神事で聞いたことがある」


「え……イェソドの、神事?」


 まっすぐ視線はそのままで、淡々と語りだすリュディガーに、キルシェは小首をかしげる。


 彼が、キルシェさん、などと呼ぶことはないから、それもあってただただ戸惑うばかり。


「そのとき見かけた、とりわけ別嬪な宮妓さんが、キルシェさんによく似ていたように思う」


 __何? 別嬪? 宮妓?


 ますますわからない、とキルシェが眉をひそめていると、リュディガーがふいに視線を向けてきた。


「その、耳飾り」


 反射的に、視界の端にある耳飾りへ視線を向ける。


「その宮妓さんが同じものをつけていたんだ。今更、思い出したよ、と__そう、ローベルト父さんが、今際の際に言っていた」


「っ__」


 思いもよらない言葉に、キルシェは息を詰め利き手側の耳飾りへと手を伸ばす。


 これは二つとないものなのは、違いない。


 ならば、その宮妓は母だ。


「ローベルト父さんは、君のことは死んだと聞いて、そのまま……。だから、任務に就くことを決めた日、墓を訪れて……もしかしたら、君が生きているかもしれないから、行ってくる、とだけ伝えて……」


 それきりだ、と言う口調は、どこか自嘲めいている。


 キルシェは目をやや伏せて、耳飾りの向こう__少し先の雨に打たれる石畳を見つめた。


 その部分に視線が向いたのは、周囲よりも大粒の水滴がゆっくりと等間隔で打つから。


 針葉樹の枝葉に溜まった水滴が、まとまって滴っているのだろう。


 それを見つめていると、不思議と、ローベルトの顔、交わした会話、それがじわりじわり、と蘇ってくる。


 しくしく、と胸が苦しく、痛い。


「……もう一度、お目にかかりたかった……」


 その言葉は、思っていた以上に震えてしまっていた。


 耳飾りから手を離す__と、その手を元のように膝に置くより早く、大きな手が奪うようにとった。


「ありがとう。__必ず、連れて行く」


 隣の彼が、より近くなる__と同時に、身体がわずかに押されたように動き、何か温かいものに接したのがわかる。


 自分が無意識に気恥ずかしさから開けていた拳ひとつぶんを、彼は詰めたのだ。


 間近で見る彼の顔。


 双眸。


 苛烈な印象に映るのは、彼が熱っぽく見つめてくるからだ。


 大学に復帰し、同様に学生の身分となったリュディガーとは、暗黙のうちに恋仲らしいことをしない決まりができていた。


 自分は婚約者がいる証の指輪をはめているが、彼はしていない。同時期に大学に来た者同士である点、連れ立っている機会が多い点__いろいろな勘ぐりが行われないように、と配慮してのことで、だからこそ、恋人らしい馴れ合いはしない流れができた。


 それが寂しいとか、そうしたことを思ったことはない。


 失った時間を取り戻すべき、と言ったビルネンベルクは、キルシェの考えも、それゆえに起こる馴れ合いの状況も見越してもいて、そう言っていたのかもしれない__とそんなことを考えていれば、もう一方の彼の手が脇から差し込まれるように腰に回されて、抱き寄せられる。


 強張ってしまう身体。


 自分よりも一回りも、二回りも大きな身体に包まれるような形になる。


 筋肉質で分厚い身体はとても温かいが、まざまざと彼の体温とともに、力強い胸の鼓動を聞く羽目になって、落ち着いていたはずの拍動が、またも__否、先程の早さよりも早くなった。


「すまない。冷えてしまったな」


「い、いえ……」


 秋分を過ぎてから1ヶ月半は経っている。寒さは増してきているが、身に染みるというほどではない。


 確かにこの日は、雨が冷たい方ではあるが、それだって外套を纏っているのだから、そこまでではない。


 __矢馳せ馬の後、湯浴みをさせてもらってもいるのだし。


 それは、彼も同様だ。


 石鹸の香りの向こうに、彼の香りがほんのりとある。


 鎖骨あたりに額を押し付ける形のキルシェは、ちらり、と彼の顔を盗み見る。矢馳せ馬の訓練の後で、湯浴みをしていたから、寛いだ印象になっている彼を目の当たりにして、ひとつ心臓が大きく打って顔を厚い胸板にあわてて隠した。


 リュディガーは握っていた手を放し、その手で耳飾りを撫でるように、頬との隙間へ差し込むので、それがどうにもキルシェにはこそばゆくて身を離す。


 彼が頬に添えていた手に誘われるように顔を彼に向けたところで、唇を重ねられた。


 熱っぽい視線が至近距離で、キルシェは堪らず目を瞑って逸す。すると、腰に回された彼の手が、輪郭を確かめるように撫でていることに気づいた。その動きに見え隠れする下心に、下腹部がずくり、と疼きを覚える。


「……ん……」


 思わず小さく、鼻にかかったような呻きを零してしまったことに、自分が一番驚いていた。

その唇の隙間を割って、分厚い舌が差し込まれてくる。その舌から逃れようとするが、自分の舌を追って角度を変えて深く口付けられるから、身体が強張ってしまう。


 初めての深い口付けに戸惑って彼の身体を押したが、案の定びくともしない。しかし、さほど経たずに彼が唇を離して、胸元へ再び強く抱き寄せた。


 知らず知らず、息を止めていたキルシェは、肩で息をする。 


 どっ、どっ、と彼の鼓動も強く早い。


「すまない……急いた……」


 何を、どのように言えばよいのかわからないキルシェは、小さく無言で頷く。


 求められることは、嬉しい。それも、最愛の人から。


 だが、あまりにも急で、困惑することしかできない。


「__えぇっと……」


 やっとの事で絞り出した声は、本当に小さかった。


 言葉を発すると、拍動する心臓が零れそうになるから、一度、唾を飲み込んでから、改めて口を開く。


「……な__」


「な?」


 聞き取れなかった彼が、わずかに身体を離して顔を覗き込もうとするが、キルシェはそれだけはされたくなくて、彼の胸板に額を押し付ける。


「__な、慣れるようにしま、す……」


 消え入りそうな声で言ったが、今度は彼が固まった。


 しかし数瞬の後、彼が吹き出すように笑うので、思わず顔を上げる。


「__そうだな、慣れてくれ」


 ここしばらく__否、ずっと見たことがなかったほど、破顔しているリュディガーがそこにいて、呆気にとられるキルシェ。


 それは、新しくも、懐かしい__。

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