新しく、懐かしい回帰 Ⅲ

 視線を移した途端、それは石ではなく、影だとわかった。


 __白い、影……?


 影に白などというものはないだろう__そう思っていれば、いつの間にか、それは立体的なものに見えていた。


 それも優雅な尾を持つ、ほんのりと輝く白い狐。


 見事な冬毛に覆われた狐の琥珀の瞳とかちり、と噛み合ってキルシェは息を呑んだ。


「……なんだ、お前がサリックスを呼んだのか」


「お前とはご挨拶ですね」


 狐はすぃ、と瞳を細める。それはどこか微笑んでいるように見え、刹那、脳裏に女人の形__フルゴルの面影が浮かぶ。


「フルゴル……」


「ご無沙汰しておりますね」


 キルシェが名を呼べば、ふわり、と返事するように尾がうねった。


「中々、あれから顔を出さずにいるものですから」


「一度は来ただろう」


「ええ。でもよくここを通っているのは知っていますよ。お二人であれば、ついで詣りも歓迎です」


「お前、すました顔をしていたくせに、存外寂しがり屋だったのだな」


「契約を交わした相手に愛着をもたない『もの』ではないのですよ、私は」


「それで、サリックスを使って呼びつけたのか」


「ええ。__サリックスはとても従順ですから、いつも助かります」


 ごろり、と身を横たえたサリックスが、鼻先で白狐の尾に触れると、軽くあしらうように白い尾がその鼻先を撫でるように覆う。


「まさか、任務中サリックスが従順だったのは、お前のおかげか」


「今更ですね。そうですよ。馬に翻弄されていては、『氷の騎士』の名折れでしょうに。侮られる要素を作ってはいけませんからね」


 たしかに、とキルシェは内心頷いた。


 当時のサリックスは、常に落ち着き払っていた。


 体躯が立派な黒い馬は、乗り手である『氷の騎士』の威厳も相まって、その様はまさしく畏怖の対象になるだろう雰囲気だった。


「フルゴル、ごめんなさい。色々してもらったのに……私、薄情なことをしていました」


「いえ、いいんです。苦言を呈したように受け取られたでしょうが、実のところ、そこまで気にしてはいないので。時々、思い出してくださっていたでしょう? 私は、それだけでも十分でしたから」


 くすくす、とフルゴルのヒトの姿での笑い声が聞こえた。


「崇め奉れ、などとおこがましいことをしない、謙虚な『もの』なのですよ、私は。__黒狐はどうか知りませぬが」


 そして、すい、と細い鼻筋を白い狐は空へと向ける。


 紅葉した葉が、いくらかまだ残った枝葉の向こうには、どんより、とした曇天が見える。


 訓練に来たときは、ぽつぽつ、と雲が浮かんではいたが、たしかに晴れていた。それが嘘のような変わり様で、キルシェは驚きを隠せない。


 白い狐は顔を2人へと戻す。


「__通り雨が近づいています。よければ雨宿りでもしていきなさい、とサリックスに声を掛けたのです」


「……それにしては、遊び歩いていたようだが」


「そこはサリックスですからね」


 ふむ、と腕を組んで唸るリュディガーは、視線で、どうするか、と問いかけてきた。


 雨宿りをしていけ、というぐらいだから、それなりにまとまった降り方をする通り雨なのだろう。それが本格的に降るまでにやり過ごせる場所まで進めるかは不明だし、現状、矢馳せ馬の訓練の直後で、湯浴みをさせてもらったあととはいえ、疲れているのは事実。


 極めつけに、サリックスを追いかけたために、体力はかなり消耗していて__


「__休ませてほしいです」


 わかった、と頷くリュディガーは、視線を白狐へ向ける。


 その視線を受けて、白狐はふわり、と優美な尾を見せつけるように身を翻し、進み始めた。


 サリックスは、といえば、白狐が離れたのを合図にでもするように、むくり、と起き上がって、それからは粛々とあとを続く。時折興味があるものへ歩み寄るが、さほど先導する狐から離れることはない。一歩逸れる程度。


 苔むしたところと、していない地面との境界を進むことしばし、少しばかり地面がぬかるみ始めたのを感じ、足を取られないか、と足元を見る。


 徐々に足元は、石畳の残骸のような、ものがちらほらと見られ始め、やがて完全に石畳へと変わった。


 石畳はしかし、風化がかなり進んでいる。石と石の間の土が流れていて、隙間に足を取られないよう気をつけていれば、リュディガーが察して手を差し出してくれるので、ありがたく支えに使わせてもらった。


 すると、巨木が見えてきた。


 そうして、石畳の隙間に苔が生えているのが目立つようになったころには、巨木は目の前に迫り、その影から石造りの構造物が現れる。

 

 __この遺構は……。


 思い出深いそこに、思わず足が止まる。


 屋根もない構造物の名残は、記憶の中のそれとさほど変わらない。


 床だったのだろう石畳を押し上げる太い根もそのままで、強いて言えば、常緑の枝が伸びたように思える。


 キルシェにとって二度目の訪問だった。


 一度目、ここを使うことを許されたあと、お礼は別の場所__白狐の祠だという場所へリュディガーに案内されて訪れていた。


 祠とはいうが、それは、苔の中にまるで地面から生えたような、胸元の高さまである細長い岩で、こことは違う場所にあった。


 そこで、白狐を目撃はしていて、他愛無い会話を交わしてもいる。


 白狐に続いていたサリックスは巨木の近くまで歩み寄り、その根本のあたりで、まだ緑の草を食み始めた。


 リュディガーに促されるように手を引かれ、遺構の窓辺だったのだろうアーチへと進むと、先に至っていた白狐はひとつ柱の名残の上に軽やかに飛び乗る。


「疲れたら、ここを自由につかうとよろしい。__赦します」


 尾を足元に巻き付けて座る白狐。しゃなり、とした音が聞こえてきそうな優美な動きだった。


「ああ、わかった。ありがとう」


「ありがとうございます」


 すいっ、と狐の双眸が細められた。それは、笑っているように見えるから不思議だ。


「__冬至の矢馳せ馬、地麟様がいたく楽しみになさっています」


 地麟とは天麒と対を成す麒麟。龍室一門の護法神の筆頭。


 神秘的な印象の子供の姿の地麟とは、キルシェはまみえたことがある。


「それは……とても光栄なことだが、ご期待に応えられるかはわからんな」


「期待に応えられなければ、ご自身が後悔しますよ。__そうでしょう?」


 くすり、と笑う声がした。


 リュディガーが口を開こうとする隙があらばこそ、白狐は明日の方を見たかと思えば、座っていた場所から飛び降りる。


 そして、地面に音もなく着地したように見えた刹那、周囲に溶けるように消えてしまった。


 あたりを見渡すが、間違いなく目立つ白狐の姿はない。


 __神出鬼没……。


 文字通りだ、とおもっていれば、リュディガーが遺構の、窓辺だっただろうアーチのところへ誘うので、素直に従った。


 そして、その場へキルシェを待たし、草を食むサリックスに慎重に近づくリュディガー。先程とは打って変わって、サリックス自ら近づいてくる。その鼻面を軽く叩くように撫でるリュディガーは、鞍の背面に括り付けていた荷のうち、丸めて括っていた布を取り出し、戻ってきた。

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