新しく、懐かしい回帰 Ⅱ

「__キルシェ」


「はいっ」


 やや強く名を呼ばれ、キルシェは身体を弾ませるほど驚き我に返って、反射的に返事をしながら足を止めた。


 呼んだのはリュディガーで、手綱を持った彼は、眉をひそめて数歩後ろで歩みを止めている。


 足を止めた主へ、抗議のような心臓に響くぐらいの大きな鼻息を吐き出す黒い巨馬のサリックス。その首をぱんぱん、と叩くリュディガーは、手綱を引いてキルシェへと歩み寄った。


「上の空だったな。流石に疲れたか」


「ぁ……えぇ……」


 苦笑を浮かべるリュディガー。


 半月ほど前まで無表情だった彼にすれば、かなり自然な表情の変化がみられるようになった。


「秋分の頃に候補は絞られていたのに、都合がつかなくなって数人が欠けて、本番に必要な人数に2人しか余裕が残っていないっていうのを聞いたら、生半可なことでは済まない、と思うよな……」


 渋い顔で言う彼に、キルシェは苦笑して頷く。


「本来なら、君はやらなくても良かったわけだから」


「まぁ……まぁまぁ、しょうがないですよ」


 キルシェは言って、歩みを再開するように促した。


 サリックスは、リュディガーが間諜任務に就くため退団する体を装ったとき、引き取った__贖った、というのが正しい。そして、それはそのまま有効とされた。


 彼はキルシェ専属の護衛という、ある意味閑職ともいう立場になっているから、サリックスは彼の復帰とともに龍帝従騎士団の厩に預けられる方向だったのだが、リュディガーが矢馳せ馬をすることが確定し、その馬としてサリックスを使うことになっため、大学の厩へと入れている。


 故に、こうして練習がある日は、わざわざ連れて一苑まで出向いているのだ。


「しょうがない、と言うが……君は、私に付き合わせられているようなものだ。軟禁生活で体力が落ちていただろう。まさか、私も知らないとき、あの空中庭園で、弓射や乗馬をしていたわけじゃあるまい?」


 キルシェはくすり、と笑った。


「広さはありましたけど、していませんね。庭いじりの労働もどきをしていたぐらいです」


「だろう」


 仮に弓射だけでも許されてしていたとしても、しなかったと断言できる。


 空中庭園は、州都の中央で上層部に位置する庭。


 的を通り過ぎて飛んでしまったら、下に広がる都でどんな惨事が起こるかわかったものではない。


「君は、やるべき学科だって残っていて、結構、過密で強行な予定になっているんじゃないのか?」


 否定できないから、困ったような笑顔が出てしまう。


「……落第は、もういっそ、どうでもいいと言ってしまおうか」


「とんでもない! それは駄目よ。私に卒業しろ、と言ったのだから、貴方だってそうしなければ……そもそも、卒業できていたのだし」


「しかしだな……」


「私、学科については、以前の感覚がもどりつつあるので、それをなぞっていれば、そこまで心配はしていないのです。どれもやりかけだったことですから。だから、こうして粛々と矢馳せ馬の候補としてできることをしていられています」


 大学の学業に打ち込むという姿勢__習慣は、3年を経て薄れてしまっていたのは事実だ。


 軟禁生活で、それなりに継続してやっていたことはあるものの、講書を頼むこともできなければ、場合によっては所望する書籍を所有することも許されない__否、取り合ってさえくれないことがしばしばだった。


 だから、かつてのように、入った内容が頭にとどまり、思考するという流れが中々できず当初は焦りを抱いたが、一週間が過ぎた今では、それも克服しつつあった。


「それに、わからないところは、リュディガーが教えてくていますから。これが一番心強いですね」


「キルシェ……」


 キルシェが笑ってさらに言葉を続けようとしたところで、突然、サリックスが強く足踏みをし、荒ぶった。


「おい! どうした!」


 怒声のような声を上げ、手綱を強く引いて落ち着けようと試みるリュディガー。


「サリックス!」


 これほどまでに荒ぶることは、昔もなかった__そんなことを思い出していれば、しっかりと手綱を握りしめ、腰を落とすように全身で引いていたリュディガーの身体が引っ張られた。


 リュディガーは、咄嗟に手綱をさらに手に巻き付けようとしたところで、するり、と手綱が抜けてしまった。


 途端に、箍が外れたように、サリックスは飛ぶように走り去る。


 幸い、全速力ではないのは走り方でわかるが、人間の足で追いかけても追いつくのは困難なほどの速さであることに違いはない。


 追いかけようとしたリュディガーが、はっ、として一歩目で止まり、キルシェへ振り返る。


 体力的に、間違いなく足手まといの自分だが、彼の今の任務で警護対象になっている当人を捨て置くわけにもいかない。だからといって、暴走したサリックスを放置することもできない__彼の葛藤を瞬時に察して、リュディガーに頷いてみせて、自ら地面を蹴って追いかけた。


 矢馳せ馬の訓練で、一番何度も馬場を走っていたサリックスは、汗をかいて疲れていたはずだったが、それがまるで感じられないほど、軽やかに走っていく。


 キルシェは必死にそれに食らいつこうと走るが、たかが知れていて、走り始めてそうたたず、息苦しさから足を止めてしまった。心臓が弾けてしまうのではないか、と思えるほど早く拍動していて、肩でいくら息を吸っても足りないほど。


 __見失っては……。


 それを危惧して、肩で息をしながら膝に手をついて前を見る。


 もはや森の木々の彼方に__と思っていたのだが、サリックスは緩やかな足運びにいつの間にかなって、身体を返すようにして向きを変え、こちらを見つめている。


 鼻息を強くひとつ吐いて、黒い尾を鞭のように振るう様を見て、キルシェより少し先で足を止めて戻ってきたリュディガーが、舌打ちをした。


「あいつ……ふざけているな……」


 え、と息も絶え絶えにリュディガーを見れば、彼は顎をしゃくってサリックスを示す。


 サリックスは軽く首を振って身体をぴくぴく、と震わせて興奮している様子ではあるものの、その場から走り出そうとはせず、寧ろこちらの出方を見ているようだった。


 リュディガーが数歩近づく__と、サリックスは地面を蹴って距離を取ろうと駆け出すものの、追ってこないことを見極めるや否や、歩みを止めて再びこちらの様子を見るような素振りに切り替わるのだ。


 その気になれば、簡単に逃げおおせるだろうに、それをしようとはしない。


 やれやれ、と腰に手を当ててため息を吐くリュディガー。


「__息抜きさせろ、と言っているな……」


「そうなの」


 逃げないということらしい。キルシェは、安堵のため息を吐いて身体を起こし、くすり、と笑った。


「どうすればいいのかしら」


「そうだな……。ある程度好きに歩かせれば満足するが……」


「なら、そうしてあげましょう」


 リュディガーは目を見開く。


「いいのか? 時間は」


「学科なら大丈夫です。午後は何もないので」


 そこまで言って、キルシェは周囲に広がる森__落葉し、苔が明るさが増した森を見渡した。


「……私も、久しぶりにここをじっくり見てみたいな、と思っていたので」


 ここ__三苑みつのそのの森。


 一苑で訓練をしているが、そこから二苑まではキルシェは用意された車で、リュディガーはサリックスでそれに続く形で通過した。


 そして三苑へ入る前、訓練で疲れたサリックスが微動だにしなくなったので、やむを得ずキルシェは三苑を抜けるための車に乗り換えるのを諦めて、歩くことにしたのだった。


 __そうしたら、これだもの……。


 サリックスの不服な態度の予兆は、すでにあったのだ。


 ひとりくすくす、と笑いながら、キルシェはリュディガーとともにサリックスに付かず離れずという歩調で続いた。


「気分屋なのがぶり返したか……」


「ぶり返す?」


「ああ。あいつ、不思議なことに、任務中は反抗的な態度はほぼ取らなかった。しおらしくなったか、と思っていたんだがな……」


 顎をさすりながら、リュディガーは唸る。


 サリックスは少し距離を取って先に進んでは、足を止め、まだ残る草地に鼻面をつっこんだりして、自由を謳歌していた。


 どんどん、奥へと__道から遠ざかっていくサリックス。


 禁域の深い部分へと向かうことに、キルシェは内心焦っていたが、すぐそばにいるリュディガーを見れば、彼はいたって落ち着き払っているではないか。


 __……ということは、大丈夫、ということよね……。


 それでもどんどん進むサリックスへ焦りが消えるはずがない。


 しかしながら、適当に、心の向くまま歩いているようであるサリックスは、うまい具合に苔むした場所を避けているので驚かされる。


 三苑は、禁域。


 禁域で、踏み入っていけない部分は苔むした場所__それが目安となっているはず。


 __本能的にそうなるのかしら……。


 動物は、感がいいと言う。


 一切の臆した様子がないのは、超えてはいけない領分をわきまえているということなのだろうか。


 感心して続いていると、突然、黒い巨体が地面に倒れた。


 何が、と思う間もなく、次いでサリックスはゴロゴロと地面に身体を擦り付けるように転がり始める。


 本当に気楽に、無邪気に過ごしている様。


 馬のそうした様子を久しぶりに見られて、キルシェは笑みがこぼれた。


 伸び伸びと気持ちよさそうに転がる様子を見ていると、自身の疲労具合を認識させられて、キルシェはその場にしゃがんで、特に酷い足の疲労を取り払うことにする。


「流石に走ったし、疲れただろう」


「ええ……。まったく、嫌になるぐらい体力が落ちていますね」


 __本当にこんなことで、候補とはいえ、矢馳せ馬の訓練に参加していていいのかしら……。


「どこかに腰掛けよう。多分、ここらにしばらくいるだろうから」


 ええ、と頷こうと口を開いたところで、ふと違和感を覚え、それを飲み込む。


 __あら……?


 サリックスのその傍ら。


 いつからそこにあったのか、白い一抱えほどの石を認め、キルシェは意識をそちらへ移した。

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