善狐の見返り Ⅱ

「リュディガー」


 しんみりした空気を跳ね除けるかのように、少しばかり明るい口調でフルゴルが呼んだ。


 怪訝に2人で彼女を見れば、ふわり、と柔らかい笑みをたたえている。


「そなた何か変化に気付かないか?」


「違い……?」


「そなたは気づいていないようだが、我々の契約はすでに解消されている」


「何……?」


 くすくす、と笑うフルゴル。


「我々は生涯、お前を縛り付けるつもりはもとよりなかったのでな」


「そう。我々は、そなたに力を貸した。使役できるような形で。何故そういう条件を飲んだのかを、話していなかったな」


「それは……龍室の護法神の二柱で、主人である陛下の令で__」


「そう。それもあるが、それだけではない」


 アンブラは頷いて、視線をやおらマイャリスへと移した。


「いつかの夜のお礼をしに来た娘がいた。__その時、律儀にも酒と、桃を供えた。そして、リュディガーが困ることがあれば、なにかの形で力添えをしてあげてほしい、と言った」


 __それは……まさか……。


 思い当たる節があるマイャリスは、どきり、とした。


「__まさか、蛍のところで……あの時のお礼のこと……?」


 左様、と頷くアンブラ。


 マイャリスはリュディガーにやんわり、と腕を解かれるに従い、腕を解くと、彼が驚きの視線を向けてくる。


「何だって? 独りで?」


「え、えぇ……まだあのときは、その……例の事件の前でしたから、独りでも行けたの……」


 リュディガーに帝都の様々な場所の話を聞き、興味が勝って独りで出歩くことが楽しくいた頃のそれは、よく覚えている。


 夜通った道を辿ったが、まるで雰囲気が違う昼間の景色で、とても新鮮だった。


 __今でも、行けるかは怪しいけれど……。


 大学から二度、往復したことになるが、果たしてあの道を見つけられるだろうか。


 帝都へ移ってから、それを探してみるのも悪くないな、とそんなことがふとよぎる。


「あの道を通してくれて……あの辺りの主だったのでしょう? あの狐__」


 そこまでいって、はっ、とマイャリスは気がついた。


 あそこで遭遇した狐。季節に見合わない優雅で豊かな尾を持つ狐は、黒だった。


「……もしかして、アンブラ。貴方はあの時の黒い狐……?」


「いかにも。__私は、その供物の分もあったから、受けたのだ」


 じゃあ、とフルゴルを見る。


 黄昏色の瞳を、すぅ、っと細めるフルゴルは、優美な手元を隠すように袖で口元を抑える。


 記憶に鮮明に残っている、遣らずの雨の出来事。その時に、禁域で出会った白い優美な狐。


「いつかの雨宿りの礼をしに、2人で訪れたでしょう。酒を携えて。その時、貴女は貴女で、さらに葡萄を供えた。お礼の酒で足りたのに。そして、貴女はそのとき、リュディガーが困ることがあれば、なにかの形で力添えをしてあげてほしい、と願った。__自分は去ってしまうから、と。私は、その葡萄の分があったから、二つ返事で快諾をした」


「なんだって……」


 マイャリスはリュディガーともども、驚愕した。


「なら……それもあったから、代償が喜と楽の表情のみという程度になったのか……?」


「少なからず、それがあったから、というのは否定できない」


 リュディガーは徐に、手で顎を抑えるようにして、指で左右の頬を解す仕草をした。


 表情は相変わらず硬いのだが、マイャリスは外で感じた彼の違和感を思い出す。


「__そういえば……リュディガー、さっき貴方、笑っていたように思うの……」


「まさか。それを見たのか?」


 問われて、マイャリスはその時の出来事を鮮明に思い出し、頬が紅潮するのを感じて視線とともに顔を伏せた。


「その……確認はできずじまいだったのだけれど……微かに笑ったような気がする……」


「確認できず……?」


 どういうことだ、とさらに問われ、マイャリスは口元に手の甲を当てるように抑える。その手からはなくなって、今では新しく左手に移った指輪の感触を確かめるように、左手の親指の腹で撫でた。


「できなかった、の……色々あって……」


 どこをどう説明すればいいか悩ましい。


 説明するにも、気恥ずかしさが勝ってしまって、語尾がどうにも濁ってしまう。


 アンブラとフルゴルの2人には、すでにそういう仲だとは認識されていることだろうが、承知の彼らを前にして、彼に状況を説明するなど、わざわざ事のあらましを改めて伝えるようで、それに耐えられる図太い神経を持ち合わせてはいない。


 歯切れ悪いのを見て、リュディガーが何かさらに言葉を投げかけようとしたが、あ、と短く思い出したような声を上げた彼は、頬を解していた手を滑らせて口元を抑え、にわかに視線を泳がせる。


 どうやら察してくれたらしいことに、ひっそりと胸を撫で下ろした。


「……しかし……まだ、そんな感覚は……」


「長らく呼応しなかった表情と、それに伴う心だ。言ったでしょう。表情を封じれば、心も麻痺しやすい、と。それは、時間はいくらか必要だろうが、もとの営みをしていれば自然と元に戻る。__幸い、心が死ぬところまでは行っていない」


 __いずれ、心が死ぬぞ。


 大学の頃のこと。苦しげな顔で絞り出すように彼がそう言った言葉が蘇る。


 心をすり減らし、自ら潰すようなことをするな、とも言っていた彼。きっと小さい頃のことがあったからこそそう思い、辛さを身をもって知っているから、あの時そう諭してくれたのだろう。


 そんな彼は、茨の道だと知りながら、任務を完遂する為にそこを歩んでいた。


 __知らず知らずに、お父様のご遺体を弄ばれて、それだけでも耐え難かったでしょうに、自ら手を下した……。


 任務のために、すでに引きずる足に血が滲んで、痛みを伴っていただろうに、無視していた。そんな彼は最後の最後で、父を手にかけるという行為で、傷が一気に裂け、血が止めどなく溢れていたかもしれない。


 __想像を絶する苦痛だったでしょうに、止まらなかった……。


 倒れて、地面に爪をたてるが如き痛み。


 でも彼は、その地面に立てた爪を使って、這ってでも進んでいた。


 __そしてそれを……彼と同じものを、アンブラもフルゴルも共有した……。


 よく今日まで心が死ななかった、と驚愕のするとともに、安堵する。


 常にそばにあって支えていた2人に、感謝してもしきれない。


 きっかけは自分のお供えが少なからず影響したらしいが、たったそれだけのことで、これほどの恩恵を受けられている奇跡。慈悲。


 見つめた先のフルゴルだけでなくアンブラも、かすかに笑う。


「彼女が供えたものと、力を貸す見返りにそなたが陛下への奉仕に応じることで我々は受けた。契約の副産物として、我々は人間らしい感情を味わえれば、と思ったのだ。__もう十分」


「そう。もう十分に、ヒトの感情を味わえた」


「案ずるな。解消されたからと、さっさと手を引くことはせん。しばらくは力は貸す」


「しばらく……」


 同時に首肯する2人。


「これだけ長くともにいて、ひとつ事の為に動いた者に愛着が湧かないはずがない」


「いかにも。たとえ、その者の愛嬌が皆無であったとしても、それもまた愛嬌であるから」


 リュディガーが、微かに息を詰めた。


 膝に手をおろし、彼は静かに頭を垂れた。


 そうして暫くそのままでいた彼は、ひとつ大きく息を吐き出すと顔を上げて改めて柩と箱とを見、すっくと立ち上がった。マイャリスもそれに合わせて立ち上がる。


 先んじて立ったリュディガーを見守っていれば、彼は柩の側近くまで歩み寄り、縁に手を置いて中を覗き込む。


「……葬儀は終えていたのにな……」


「今回の受肉、異形の魔性の格が高すぎたこともあるし、そもそも特異な状況だったのだろう」


 そうか、と言ったリュディガーは遠い視線のまま、柩の中を見つめている。


「……荼毘に付したい。帝都で」


「帝都で?」


 帝国では、火葬が主流で、次点で土葬が多い。民族や風土によって異なるのだ。他にも、水葬、鳥葬というものも存在する。


 形は違えど、どれも不死者になってヒトを襲っては困るので、儀式を行ってから送り出す。


「ここで荼毘に付し、墓に入れてしまうと、今後何かの折に『氷の騎士』の父母だと露見して、墓を荒らされないとも限らない。中央は説明を尽くすそうだが……素直にそれを受け止めきれない者もいるはずだ。これ以上の辱めは、ただの死体だとしても流石の私でも耐え難い……」


 ぎっ、という微かな音は、柩の縁をリュディガーが握りしめる音だった。


「なるほど。確かに荼毘に付すならこの人の死の噂が広まりやすい片田舎よりは、帝都でしたほうが特定されにくくはあるな」


「ここが母さんの故郷なのは承知だし、探せば母さんの一族の墓も見つけられて、そこに入れてもらうことも可能かもしれないが……繋がりがあることがわかって、そちらに迷惑をかけてしまう事態は避けたい」


「賢明な判断だ」


「まだ預かってもらうことになるが……可能か?」


「ああ、承ろう」


 二つ返事で頷くアンブラに、リュディガーは顔を向けて一文字に口を引き結ぶ。


 そしてアンブラらへ向けて姿勢を正すと、武官らしい所作で頭を下げる。


「__俺は……果報者だな……」


 いくらか詰まったような、震えた声で言う彼。それはどんな表情だったのだろう。


 マイャリスからは彼の表情は見えないが、見られなくてよかった、と思ってしまった。


 彼の表情__それが想像通りであれば、間違いなく目撃した途端、支えるべき自分が涙してしまう気がしたからだ。

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