胸に還る想い Ⅲ
ずっと片膝を突いていたリュディガーは、すっく、と立ち上がると、流れるような動作で腕を回して抱きしめる。
そこで初めて、自分が震えていることを知った。
それは寒さからくるものとも、悲しさからくるものとも違う気がする。
叩けない。
叩きたくないのだ、自分は。
一度は、拒絶したくせに。
__でも、拒絶できない。
力強い拍動。
温もり。
香り。
そのどれもが至近距離で感じられて、これほどまでに嬉しい。
__そうか、私は……彼から必要とされることを望んでいたのだわ。
嬉しくて、涙が溢れてくる。
__私の、望みは……。
内心でつぶやいた途端、浮かんだのは、父の顔。
はっきり思い描けるのは、つい先日、鮮明に夢で邂逅したから。
「……夢で、父に……父たちに会ったの」
「たち?」
いくらか、リュディガーが腕の力を緩めて顔を覗き込もうとする素振りが感じられたが、マイャリスは体をわずかに離しこそすれ、俯いたまま。
彼の顔を見る勇気がなかった。
「ええ。父以外にも人がいて……父祖なのだと察したわ。役目を果たしたから、望むのならば引き上げる、と言われた」
「引き上げる?」
「
リュディガーが、息を呑む気配がして、マイャリスは苦笑する。
「望むか、と問われているの。__なんとなくですが、望めばきっと迎えがくるのでしょう」
どのような形でかはわからないが、迎えがくるのは間違いないと、確信している。
「……望むのか?」
「行き場が結局、考えられなければ……望んだかもしれない」
マイャリスは、厚い胸板に額をつける。すると、彼の腕が強く抱きしめてきた。
厚い胸板に抱かれて、それを通じて、彼の拍動が早いことに気づく。
「行くな、キルシェ」
その呼び名は不意打ちだった。呼ばれた途端、あぁ、と震える声が漏れて、落ち着きかけた涙が堰を切ったように溢れてくる。
「そう呼ばれると……そう貴方に呼ばれると、すべてが赦されたように思えてしまう……」
「赦すも何もないだろうに」
ふっ、と小さく笑う気配がした。
今の彼が笑うことなどあるはずがないから、涙を拭いながら体を少しばかり押すようにして離し、顔を向ける__と視界いっぱいに彼の顔が近づいて、唇を奪われた。
どっ、どっ、と大きく心臓が暴れ、たまらず彼の服をつかむと、彼が腕に力を込めてさらに抱き寄せられ、唇を押し付けられる。
彼の目が至近距離にあって、その目元の熱っぽさと艶っぽさを目の当たりにし、全身の血が沸騰したのかというほど体が火照った。
心臓がこれ以上ないぐらい暴れ、たまらず目を思い切り瞑って、さらに彼の視線から逃れようと顔を俯かせて、彼の胸板に額を押し付けた。
「……心臓が、口からでそうで……」
「奇遇だな。私もだ」
嘘だ、と言いたくなるほど、彼の口調は落ち着き払っている。
しかし、彼の拍動は、まるで走り終えた馬の拍動のように、力強く早い。
それを、抱きしめられているから全身で聞かされているマイャリスは、体の緊張が解けていくのがわかった。
こんなにも、嬉しい。
こんなにも、愛しい。
望んでいたのだ、自分は。
彼の想いを全身で甘受していたところ、リュディガーがわずかに腕の力を緩めた。
「__ひとつ、思いついた。大学に復帰してはどうだろうか」
思いもよらない言葉で、マイャリスも身を彼から少し離して、顔を上げる。
「っと、ああ、そうだ。これがあった。__使うと良い」
いまさらだが、と彼は取り出したハンカチを手渡してきた。涙を拭うよう仕草で示され、マイャリスは礼を述べて目元を拭おうとするのだが、そこでそのハンカチがかなり折りたたまれた大判なものであることに気づいた。
使い込まれていない白さ__純白ではないが、それでも十分に白いそれは、綿でできている。
一見して無地であるのだが、縁から少し内側が織りの違いで模様のようにみえるもの。
__これ……。
間違いなく、自分が選び、彼に贈ったものだ。
大判であれば怪我をした時にも使える、と言っていた彼だ。すでに使って汚れてしまっていてもおかしくはないというのに、3年も経ってもこうも白さを保ったまま。
それは、後生大事に使ってくれていたというよりも、後生大事に保管していたからではないだろうか。
それをこうして、今になって引っ張り出してきた。
確か、これを初めて彼が使ったのは、買った直後。大学への帰路だったはず。
__あのときも、私が……涙を流したから……。
早速の出番だな、と差し出された。
__あの頃のように、大学へ……。
マイャリスは、目元を抑えるように涙を拭う。
「卒業ができていたはずなんだから、君は。しておくべきだ。キルシェ・ラウペンとしての成績を引き継ぐとか、そうした対処してくれるよう、話をつけることは可能だ。だから、退学したときに未修了だった科目をこなせば……今年がもう無理でも、来年一年で終えられるだろう。君が、学を修める感覚を忘れていなければ、だが」
__大学へ、戻れる……。
ひとつ、また道がひらけた。
「嘘……戻れる、の……」
「ああ。可能だ。ただ、戻っても、そこから先は、君の努力が問われるが」
「そ、それは、もちろん。そんなことまで、されては私が困るわ。そこまで便宜を図られるのは、不本意だもの」
思いもしなかったことだ。もう一度大学などへ行けるなどと。
「今からすぐに大学へ戻って残っていた科目を修めるとして、新年までの卒業も可能だろう。今年は無理だ、と言われるかもしれないが、年明けすぐに復帰して、講書も任されていた君なら1年でいけるんじゃないか?」
講書、と聞いてマイャリスは苦笑を禁じえない。
思い出したくない出来事と結びつく言葉だからだ。
「おそらく……。気を引き締めてかからないと、だけれど」
「君と私には、空白の期間がある。3年だ。君の中の私が、今の私と違っていたら申し訳ないから、その卒業までで、私を見極めてほしい」
「……それは、私にも言えるでしょう?」
「それはない。__私は、確証があるから」
彼はよく、確証がある、という言い方をしていることに気づいた。
ロンフォールを討ち取るための、捨て身の行動についても、確証があったから、と言っていた。
「確証……」
「いずれ明かす」
怪訝に呟いた言葉に、彼はそう言うと、マイャリスの左手を取る。
そして、薬指に金色の指輪を嵌めた。
「それで、その卒業後に、改めて求婚をする」
言いながら、ハンカチを握る右手を自身の手__指に引っ掛けるようにして乗せるように持つと、無骨な指で薬指を撫でる。
左手の薬指は婚約者がいることを表し、右手の薬指に指輪を嵌めるのは、既婚者であることを示すというのが、帝国の風習。
彼の仕草の意味合いを理解して、一層頬が熱くなる。慌てて手を引いて、胸元に押し付けるようにハンカチを握り込む。
「あ、でも、学費が……」
「学費は、私が。あれだ、ほら……結納金というか、そういう感覚でいい」
結納、と繰り返して、頬が瞬時に火照った。
「__そう、そういう……。でも、駄目だったら、必ず返しますね」
「駄目というのは……」
「えぇっと……別の道を歩むことになったら……」
「そんなことは、起こらない」
一切の迷う余地なく否定するリュディガー。
「……確証があるの?」
「ああ」
はっきり頷くリュディガーに、マイャリスはくすり、と笑ってしまう。
「__何でこんな提案を思いついたかというと、私は正式な中隊長には戻れないからだ」
「え」
思わず、目をぱちくりさせてしまうマイャリス。
__階級を剥奪された……?
「私は任務につくにあたり、公式では退団した形だった。最終階級は、中隊長で……それを空席にしたままにはできないから、すでにその席は埋まっている。グスタフ・エノミアを覚えているか?」
「ええ。貴方の部下だった……」
リュディガーの病床へ見舞いに訪れた際、幾度か顔を合わせ、会話をしたことがある人物だ。
「彼が、据えられたんだが……それを降格するわけにはいかないだろう。エノミアが不祥事を起こしたわけでもないんだ。剥奪、降格なんてのはできない」
「それは、そうね」
「だから、龍帝従騎士団に戻ったと言っても、中隊長という肩書だが預かる部隊がない状態になるらしい。部下がないたったひとりで、中隊長に叙されているなんて笑い草だ。__で、諸々整うのは一朝一夕ではいかないので、身軽なのであれば、当面は君専属の護衛ということになった」
「護衛……」
「いくら、君が鏡の守り人でなくなったといっても、帝国にとっては貴人に変わりない、ということだ。__適当な体裁を整えて、大学に入り込むことになるな」
それは、まるで3年前の状況のままではないか。
担当教官がビルネンベルクかは分からないが、大学に在籍して、大学の寮で生活し、学を修める。
失ったもの、手放したものが戻ってくる__こんな幸運があるのか、と立ち尽くす。
「__どうする? 大学は今更、というのならそう言ってくれて良い」
これは彼があくまで提案したことだ。彼が押し付けていることではない。
もし首を振って自分の考えを告げても、ならば、と他にも助言をしてくれるだろう。
だが、今回のこの提案すべて__大学へ復帰できるという、志半ばで断たれた道をたどれることを、どうして嫌だなどといえよう。
__そこに、リュディガーもいるのだもの。
何よりも、その事が大きい。
封じた彼への想いが、一気に胸に蘇ってくる。
諦めた、あり得たかもしれない将来がこの先に待っている期待、多幸感。
__彼が、いてくれる。
胸がすく思いに満たされて、マイャリスはリュディガーの胸に飛び込むようにして、しがみつき、頷いた。
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