欠ケル夜 Ⅱ
晩餐会の準備が整い、移動する面々。
そこはマイャリスがただの一度も踏み入ったことのない大広間だった。
絢爛豪華な照明が吊るさった空間。
そこに彩りを添えるのは魔石だけでなく、惜しげもなく飾られた豪華な装花。着席していく人々の華々しさも相まって、すべての贅がここに集まったといっても過言ではない景色だった。
マイャリスとリュディガーは、主催である州侯からさほど離れてはいない席に着席していた。
いよいよ運ばれてくる食事。
会場の誰もがそれを愉しんでいるのだが、彼らの興味はやはりナハトリンデン夫妻のようで、視線は相変わらず事あるごとに向けられてくる。だが、隣に座る者でさえ、リュディガーは勿論、マイャリスに話しかける勇気は持ち合わせていないらしかった。
食事が進み、メインの料理が終わったあたりで、突然、会話を断ち切らせるには十分な軽やかで澄んだ音が皆の注意をひいた。
州侯が肉叉でグラスを軽く叩いた音である。
手を止め、居住まいを正す一同の視線を一身に受ける州侯は、すっく、と立ち上がった。
「今宵はお集まりいただき、感謝いたします」
会釈のように軽く頭を下げる州侯は、次いでリュディガーを指し示した。
「そちらにいるのは、ご存知な方もいるでしょうし、顔を見るのは初めてという方もいるでしょう。__『氷の騎士』と異名を持つ私の股肱、ナハトリンデン」
紹介されたリュディガーは、少しばかりひそひそ、とテーブルのあちこちで会話が交わされる中、一瞬の間を置いて立ち上がり、誰に視線を合わせるわけでもなく、右へ左へ、と丁寧に礼をとった。
「そして、彼がともなった者は、彼の妻ナハトリンデン夫人であり、私の秘蔵っ子__娘のマイャリスです」
娘、と潜められた会話の中でも、驚きの色を滲ませて方方から聞こえてくる。
どの程度、州侯の身内を知られているのだろうか。独り身だとは知られているはずだ。独り身が子を持っている__特に州侯の場合、異を唱える者は容赦なく排除することを厭わないような人物で知られている。そんな州侯が子を持っているということは、子持ちだと知らなかった者にすれば、驚愕することに違いない。
「まぁ、実子ではなく、養女なのですがね」
州侯はくすり、と笑い、視線をマイャリスへと向けた。
「……今は亡き恩人の、とても大事な娘なのです」
懐かしむように、養父の視線が細められた。
実父と養父ロンフォールがどのような間柄だったのか、実のところマイャリスは詳しくは知らない。幼少期、間柄を尋ねたことはあったが、説明するには難しい、いずれ話すときがきたら、と答えになっていない答えをもらっただけだ。
__父様……。
霞の彼方で、もはや顔を思い出すこともできない実父。そして、母。
恩人だという実父についての話は、養父は今日まであまりしてくれないでいた。
こまっしゃくれた、ことあるごとに意見する娘で、ろくに関わろうとはせず、だからといって恩人の娘だから、手放すことはできずに、苦肉の策で寄宿学校へおいやってしまったのだ。
二人の間に、昔話に花を咲かせるような空気ができるはずもなかった。
自分自身で、聞く機会を逃したといえばそうだった。
マイャリスは、膝の上に置いていた拳を握りしめる。
「ナハトリンデンは、先日、龍帝陛下の懐刀から一本とってみせた。陛下も大層驚きとともに喜ばれて、彼を股肱として抱えていた私はとても誇らしく思った。腕の立つ彼であれば、娘は委ねてもよいだろう__そういう経緯で娘を彼に託しました」
__話が……違う……。
オーガスティンが言うには、褒美としての望みを州侯に尋ねられ、州侯の娘の開放、と返したはず。その言葉に、州侯は気色ばんだ、という話だ。
龍帝陛下の御前で、無碍にもできず、拒否もできず__そうして落とし所として嫁がせた。
「娘は昔から体が弱く、数年前までは帝都で静養を。今では、イェソド州の空気が良いところでナハトリンデンに与えた屋敷にて過ごし、こうして今夜、皆様へお披露目をさせていただいている次第です」
__そういう……。するする、とそんなことを。
帝都での静養は、大学へ行っていた期間のことだろうか。
イェソドの空気が良いところとは、言い得て妙だ。間違ってはいない。
マイャリスは、視線を握りしめた拳に落とす。
「__皆様のおかげで、無事、社交界入を果たすことができました」
もっとももう嫁いでしまいましたが、と冗談めかした州侯の言葉に、会場の皆は笑う。
州侯はそこで、葡萄酒の注がれたグラスを手に持った。
「今宵は誠に目出度い日なのです。__この日のために、全て整えてきた」
声高に言い放つ言葉。それはどこか含むものがある響きで、怪訝にしたマイャリスは顔を彼の方へと向ける。
養父は、鼻の先で一同を見渡し、大きな窓の外を示すように手を伸ばした。一同はそちらへ顔を向ける__と、至るところから、驚愕した声が漏れた。
__月が……。
「__紅い」
マイャリスが失った言葉を、誰かが引き継いだ。
窓の向こうに昇る月は、満月。
月は東の彼方に昇り始めた頃は、少し大きく強い金色の姿をしているもの。それはさきほどもそうだった。昇るに連れ、冴え冴えと白さを強めるものだろうに、今そこに見える月は、
__月蝕とは、月が欠けるのではないの……。
日蝕と同じで、欠けてしまうのではないのか。それとも、これから喰われる前兆なのだろうか。
心臓が痛いほど拍動し始めた。
広間に満ちる、どろり、とした嫌な気配。
胸がどきどきして、リュディガーの出方を探るように彼を見るのだが、彼は視線の端で州侯を捉えているだけのようだった。
彼ほどの人が、この異様な気配に気づいていないはずがないだろうに、一切動きを見せないことに、マイャリスは焦燥感に駆られた。
どうしたものか__と考えていたところで、ぱんぱん、と乾いた手拍子に弾かれるように州侯を見る。すると、ほぼ同時に、甲高い金属音が広間の至るところで響きわたって視線を奪う。
見れば、広間にいた給仕らが佇んでいた。不自然なことに、彼らの足元には、銀のトレイごと落ちた食事があり、それを拾うこともせず、彼らはただただ佇んでいた。
その佇まいの異様さに、誰しもが固唾を呑んで身構える。
__あの州城にいる者は、そのほとんどが予め失われている者ども。
脳裏によぎるリュディガーの、アンブラを介した言葉。
__すでに命を絶たれている。そして、絶たれていることを知らず、生ける屍として従事している。
彼らの様は、まさしくそれのように見え、マイャリスは胸が苦しくなる。信じられないでいたが、この光景を目の当たりにしては、もはや__。
「不可知の領分。博識な帝国民なら聞いたことがあるでしょう」
どこか含む言い方なのは、気のせいだろうか。
「今宵は、秋分であり、月が血で染まる、月蝕の日。__不可知の領分が、浮上して境目が曖昧になる特別な、またとない日」
州侯は、不敵な笑みに口元を歪め、喉の奥で笑った。
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