ガラスの靴では踊れない

 深夜帯の仕事をしている時は、繁華街・歓楽街以外では予約センターが電話で受け付けた仕事だけが頼りだ。

 何故なら、小さな飲み屋やスナックは住宅街の中にも存在するが、東西で五十キロ・南北で三十キロほどの営業エリア内のすべての店舗の所在を知るわけではない。ましてや酔客以外のお客さま───未明から早朝出勤する人・その時間まで残業している人・友人宅で飲んでいた人・緊急で病院に行く人───などに至っては、そもそもどこから出て来るかなど予想できないからだ。

 予約センターで受け付けた予約は、各タクシー車両に搭載されている自社仕様のナビにデータで飛び込んで来る。近年では、タクシー予約アプリなどで予約することも可能なので、運転以外の仕事(画面操作)もなかなかに忙しい。

 そんなわけで、深夜帯に繁華街・歓楽街以外の所を走っていても、予約が入ることがある。そして、未明や草木も眠る丑三つ時に、誰が・どんな理由でタクシーを呼ぶのか、ドライバー側からは全く判らない。すべてがぶっつけ本番で、日々アドリブ三昧───それが、タクシードライバーという仕事の難しさであり、面白さなのだ。


 その日、私は夜勤帯にしては早い時間(深夜割増が入る前の時間)に一つの予約を受け、七十キロ以上八十キロ未満の距離にある隣の政令指定都市へとお客さまを送った。この時は、緊急のお仕事のお客さまだったので、ご本人の要望により高速道路をフルに活用して走り、午前0時前には目的地にお送り出来た。そして、営業エリアまで帰る方法を考えるのだが、高速を使えば二時間弱で戻れるが、高速代は自腹である。一方、一般道路で帰れば三時間ほどかかり、その後の営業時間は少なくなる───というわけで、遠方に行った場合は、どうやって帰ればよりリスク少なく稼げるかを考えるのだ。

 この場合、深夜帯でもあり、途中で渋滞している可能性はほぼなく、一般道路でも三時間かかることはないだろう。そして、午前三時ぐらいに戻れれば、もう一仕事は可能だ。なので、私は一般道路で慌てず・急いで、営業エリアに戻ることにした。

 ついでに一般道路を走るメリットはもう一つあって、高速であればひたすら目的地を目指すだけだが、一般道路を走っていれば、思わぬお客さまか予約をGETすることがあるのだ。そして、この日はそういう日だったのである。


 午前三時前、繁華街・歓楽街まではもう一距離ある地点で入った予約は、住宅ばかりが集中している一角からだった。「これはスーパー早朝出勤(私命名)か?」と思ったが、現場の路上で乗って来られたのは、二十代後半の普通の女性だった。

 その女性の最初の行き先希望は、「どこかビジネスホテルが集まっているところにお願いします」だった。「それでしたら、新幹線駅の周辺になりますが、予約はしていないんですか?」と訊けば、予約はしていないとのこと。「では、空いている所を探して動くより、まずどこか空いているか探してから動きましょうか? タブレットを持っていますから、すぐに調べられますよ?」と提案すると、「ありがとうございます。でも、早くこの付近から離れたいので、車を出してください」とのこと。

 それなりに朗らかにしているが、どうやら何か事情がありそうだった。

 取り敢えず発進させながら、出来るだけさり気なく、「どうかしたんですか?」と訊けば、「男に捨てられて来たんですぅ」と。

 おっと、これは───『別れて来た』でも『フラれて来た』でもなく、『捨てられた』とは穏やかではない。

 しかも背後の気配は、笑いながら言うと同時に、ぽろぽろと泣き始めたではないか……。

「女同士のご縁で、話した方がすっきりされるなら話していただいて構いませんし、話したくないのなら話さなくても大丈夫ですよ。ただ、一つだけ確認させてください。この一件に関して、お嬢さんのお体は大丈夫ですか?」

 DVの様子はないが、妊娠の可能性はある。場合に依っては、これからの会話がデリケートな問題を含むが故の確認だった。

 オブラートに包んだ私の質問だったが、お客さまはすぐにその意味を察したようだった。

「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 そして、彼女は話し始めた。

「わたし、職場が隣の政令指定都市で、彼とは職場で知り合ってお付き合いしていたんですけど、今夜、彼の家を訪ねたら、あの人……妻子持ちだったんですっ!」

 なるほど……そういうことか。

「では、良かったではないですか」

「はい?」

「お嬢さんのお体が取り返しのつかない状態になる前に、その事が判明したのは不幸中の幸いです。もう別れたんでしょう? しんどい想いをした女性は、間違いなくイイ女になれます。クズな男を踏み台にして、高嶺の花として羽搏はばたきましょう」

「クズですか?」

「勿論っ! 好きだった男性を悪くいわれると不愉快でしょうが、私の価値観の中では、妻子持ちであることを隠して別の女性と付き合うというのは、奥さまとお嬢さんに対する二重の裏切りです。しかも、こんなひとけのない住宅街のこんな時間だというのに、お付き合いしていた若いお嬢さんがタクシーに乗り込むまで確認すらしないというのは、男としてだけでなく、人としてもクズなんでしょうね」

「本当だ……」

「そういうクズには、必ず天罰が下ります。少なくとも、現時点で奥さまからの雷撃が下っていることは間違いないでしょう」

 私の言い分に、お客さまはしばし黙って何かを考えているようだった。

「……わたし、イイ女になれますか?」

「私の心証としては、充分素質があると思いますよ。同じような状況で、通りすがりのタクシー運転手に八つ当たりをする人も多い中、お嬢さんは好印象です」

「ありがとうございます。ホテルはやめて、家に帰ります。送っていただけますか? もう、あんな人の近くには居たくありません」

「喜んで」

 こうして、私は一旦戻って来たばかりの隣の政令指定都市にトンボ返りをすることになった。十数年この仕事をしていても初めてのことである。

 私はその事をお客さまに正直に伝え、自分の一晩の走行限界にも燃料的にも余裕はあるが、本当にトンボ返りなので、帰宅コースに支障のないコンビニでメーターを止め、トイレ&一服休憩をいただく許可をもらった。

 そして、その休憩が終わる時には、お客さまであるお嬢さんは車中で泣き疲れて眠ってしまっていた。

 けれども全く無問題。時間が時間でもあるし、コンビニに着くまでに一頻ひとしきり泣いていたので、こうなるだろうと思っていたからだ。帰宅コースの希望も自宅住所もすでに訊いてあるから、あとはひたすら安全爆走に専念するだけだ。


 やがて、空が白み始める頃、お客さまのご自宅が近くなって来た時点で、走りながらお声かけをして起きていただいた。

「多少は元気が出ましたか?」

「はい、お陰様で」

「ではこれをどうぞ」

 休憩の為に寄ったコンビニで、果汁一〇〇%の白桃ジュースを買っておいたのだ。自分は何も買う物がなかった事と、泣いた後にエアコンが入った車中で眠れば、喉も乾くだろうと思ってのこと。加えて、心の傷や疲れには、優しい甘さが良く効くものなのだ。

 お客さまが目覚めて別れるまでの短い時間で、最後の話をした。

「今回の件を全部話した上で、カラオケに付き合ってくれる女性のお友達はいますか?」

「はい、います」

「では、是非早いうちに一緒にカラオケに行って、失恋ソングを歌いまくってもう一度泣いて───それで完治です。クズ男が悔しがるぐらいイイ女になってください」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます。頑張ります」

 ガラスの靴のお姫さまの話はロマンだが、現実世界を生きている我々女性は、ガラスの靴では痛くて踊れない。それを履いたままでは、大人の階段も登れない。だから、それを脱ぎ捨てて、イイ女になる道を歩いて行くのだ。

 朝の光の中で別れたお嬢さんは、ステキな笑顔を取り戻していたから、もう大丈夫だろう。


 そして、大丈夫ではないのは私だった。ナビで計測すると、会社までは七十八キロ。朝の通勤ラッシュはすでに始まっている。一体、何時になったら帰り着くことやら……。


 およそ¥18000ほどの、一人の女性の人生の転機と同行したというお話。

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