桜の花が咲くころ・その二
それは運命なのか、偶然か、それとも人という生き物の底力なのか───同僚達曰く、「お前だけだよ、それはっ!」的MY季節の風物詩、『花見シーズンには認知症の方と遭遇する』という件。
同じなのは季節だけで、場所もシチュエーションも全く違う為、すべてを語ることは難しい。なので、一例だけ───どういう状況だったのか判り易い件を挙げよう。
その日の私は日勤で、お天気の良い昼下がりに、城跡の桜の名所辺りを巡回していた。
桜は満開。広い歩道も城跡の公園も、人でいっぱいなのが金魚鉢───もとい営業車の中からも見てとれる。そして、公園の人波は見えるが、少しだけ離れた大通りで、手を挙げてくださるスーツの高齢男性を発見。タクシーの性として、「お客さまだ☆」となると、ウキウキ・のこのこ寄って行く。皆々様はご存知ないだろうが、ドライバーがお客さまをちゃんと見ているのは、わりとこの一瞬だけだったりもするのだ。後は、肩越しだったり、ルームミラー越しだったりと、部分情報のみの事が多い。
多分に情報収集癖のある私としては、この一瞬に出来るだけ情報と状況を読み取るようにしている。これからお客さまになる方の服装、持ち物、年代、お連れさんがいるかいないか、小さなお子さんがいるかいないか等々。
この度のお客さまは男性・七十歳以上、やや明るめのグレーのスーツで、持ち物は会社員の男性がよく持っている手持ちのサイドバック。ややふらつきながら立っているのは、花見の帰りでお酒が入っているのだろうという推測。
私はいつものように、「こんにちは、どうぞ」と笑顔で迎え、よっこらしょと乗って来られたお客さまは「△◎◇までやってくれ」とのこと。多少呂律が回っていないのも、お酒のせいだと考えた。
「はい、○×通りから国道を右に折れるコースでよろしいですか?」と訊くと、「ああ、いいよ。任せる」とのこと。『おほほほ……昼間にしてはそれなりの距離。ラッキー!』と思った私は、どこまでも浅はかだった。
男性は陽気な話好きで、色々なことを話してくれた。主に仕事のことで、不動産関係の方らしいと話の内容から分かる。
けれど……何だか、話の内容がちょっと……。
戦後、現在の空港には米軍が駐留していたが、米軍がいなくなった後に払い下げられた土地で稼いだのが、最初の財になった───というだけなら、昔の武勇伝で片付けられる。しかし、その後に続く『今からしようと思っている案件』や『現在抱えている案件』の部分になると、話の時代が行ったり来たり。
その場所は、もう再開発が済んでいるのでは?
う~ん、その辺に田んぼが広がっていたのは、私が学生の頃までだったねぇ。
なんて話がゴロゴロ。しかも、ご本人が時代を行き来していることに気付いていない───それは、もうアレだ。私の祖母と同じパターンなので、アレに確定。
私の思考が、お客さまの話の聞き取りから、『この後、どうしようかなぁ』に変化する頃、目的地の地名しか言ってなかったお客さま本人から、目的地となる建物の名前が告げられた。それは、私も介護タクシーの仕事で出入りしたことのある、大きな老人ホームの名前だった。
これはラッキー。後の対応の見通しが立てやすい。
一.そのホームの名前が明確に出るということは、そのホームに入所している人。それであれば、事はそこで終了。
二.入所者でない場合も、ディサービスなどのサービスに通っている可能性大。その場合、施設にはご本人の詳細な情報がある筈。
ただし、とっとことそのホームに到着してみたら、正解は一でも二でも無かった。正解は三───後日入所する予定の、仮契約の方だったのである。
ご本人は、「釣りはいらねぇよ」と一万円札を私に渡し、ロビーのソファーにどっかと座り込んだ。それを見たスタッフの方が担当ケアマネージャーに報せ、慌てて飛んできた担当ケアマネージャーがご本人と話しているのを聞いて、事情が判った。おそらく、余程ご家族に、今後はここに住むのだと言い聞かされていたのだろう。ケアマネの必死の説得にも応じず、「俺はここに居る」と言って、動く様子がない。
普通のタクシードライバーであれば、お客さまを望みの目的地にお送りし、料金を頂ければ、すぐに立ち去っているものだ。けれども私は、事情が透けて見えるものだから、受け取った一万円札とそのお釣りと領収書を手にまだ待っていた。すると、お客さまに手を焼いたケアマネが私に気付き、「この方を連れて来られても困るんですよ」と一言。まあ、八つ当たりだし、混乱もしているのだろう。
そして、何の幸いか、介護タクシーの仕事を終えたばかりでご乗車いただいた私は、濃紺のスタッフジャンバーを着たままだったのである。
「事情はお察ししています。わたくし、実はこういう者です」
と、背中の会社名を見せる。取引があるのだから、ケアマネージャークラスであれば、社名ぐらいは認識している筈だ。
「あ、ああ…お世話になっています」
よし、成功。
「実は、普通のタクシーとしてご乗車いただいたのですが、途中からお客さまがどのような方か察しましたので、唯一明快に行き先を述べられたここにお連れしました。あの方の担当ケアマネージャーでいらっしゃいますか?」
「そうですけど、あの方はまだ仮契約で、いま連れて来られても……」
困惑をそのまま口にするケアマネに、私は手でまあまあと伝えた。ご本人の耳がある所で、大声で相談事をすることはよろしくない。
「そこで、わたくしから二つご相談があります。一つは、釣りはいらないとおっしゃって一万円札をくださいましたが、これをこのまま頂くのはマズイですね?」
「はい、それは…」
事態を混乱させない為に、意識して事務的に話を進める。猫の皮は何枚でも持ち合わせがある。
「了解です。では、二つ目、あのお客さまは独居の方ですか? それともご自宅にご家族が?」
「奥様がいらっしゃいます。ああ、そうだ住所を───」
私から揉めるつもりもないから、落ち着けケアマネ、我々には判っていてもやってはいけないことがあるでしょうに。
「いえいえ、それは良くないです。個人情報がありますから。奥様と連絡がつきますか? 私の携帯番号をお教えしますから、奥様から私に掛けてもらってください」
ケアマネージャーは『ああそうか』という顔をすると、「少しお待ちください」と一旦席を外す。それから間もなく、お客さまの奥様から電話を頂戴した。戻ってきたケアマネが横で聞いているが、それは全く構わない。
私は奥様に事情を話し、住所を伺い、止めているだけで切っていないメーターを再開してお送りすることの了解をいただいた。次は、ソファーから動こうとしないお客さまに、再度乗っていただかなければならない。さて───と、振り返ると、すでにくだんのケアマネが「家に帰りましょう」と言いながら、タクシーへの乗車を促していた。
う~ん、経験の浅さが垣間見えるケアマネだ。「帰ってはいけない」と思っているのだから、それでは駄目なんだよ。
ケアマネに背後から、「任せてもらってもいいですか?」と囁く。そして、立ち位置を変わり、お客さまからちゃんと私の顔が見える位置でしゃがんだ。
「お客さま、どうされたんですか? お疲れになりました?」
「お前、誰?」
「やだなぁ、タクシーの運ちゃんですよ。楽しくお話ししながら、ここまでご一緒しましたでしょう?」
「ああ、どうした? 金が足らんかったか?」
「違いますよ。この後、お仕事の現場を見に行かれるんでしょう? そうおっしゃっていたから、お待ちしていたんですよ?」
本当に、そんな話もしたのだ。
「ああ、そうだった。現場に行くんだ。待たせて悪かったな」
と、お客さまはあっさり再度タクシーに乗ってくれた。こちらも、伊達に二十年も認知症の祖母の話相手をしていた訳ではない。婆ちゃんに感謝!
「奥様と打ち合わせも済んでいますし、あとはお任せください」と、担当ケアマネと囁き合い、再びタクシーを発進させる。私が余りにすいすい進むものだから、「俺は行き先を言ったか?」と疑うお客さま。「さっき、ちゃんと住所を伺いましたよ」と嘘ではないように答える。『多少の誤魔化しはあっても嘘ではない』、コレ重要。
やがて、家が近くなって来たのを察すると、「こっちには行きたくない」と多少の抵抗があったが、そこは巧みに矛先をそらしつつ、マンションの前へ。
マンションの玄関前には、すでに奥様が待っていらっしゃった。奥様の顔を見たとたんに、お客さまは大人しくなり、無事に引き渡しと清算を終えた。
奥様はずいぶん恐縮していらっしゃったが、私にとっては『いつもの仕事』の延長線上の仕事だったので、苦ではなかった旨を伝え、「お疲れさまでした。ありがとうございました」と別れた。
無事に送り届けられて本当に良かった。かつて、元気に徘徊していた祖母が受けた恩を、ここで一つ返せた気がする。
およそ¥4000ほどの、市内を巡回した時のお話。
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