お客さまは神さまではない
本来は素晴らしい意味の名言なのに、一般的に多大な誤解の元で認識されている言葉がある。おそらく、知らない日本人の方が少ないだろう。
『お客さまは、神さまです』───昭和の大御所演歌歌手・三波春夫氏の有名な言葉だ。
時は高度成長期時代。日本は戦後の復興を果たし、目覚ましい経済成長をしていた。一九六四年の東京オリピックや一九七〇年の大阪万博で、世界にも大きく羽ばたいた時代である。
タクシー業務に拘らず、路面店舗や飲食、コンビニやコミュニケーター等、多くの接客業を経験した私の見解だが、この時代を謳歌し、後にバブルも経験した世代が、この名言を最も誤解している───というより、自分の都合のいいように曲解しているように思える。
例を挙げればきりがないので、タクシーで経験した件のみを述べよう。
ずいぶん前で、まだ件の世代が引退していない頃の話である。
深夜料金の時間帯に、繁華街の出口に当たる一角で一人の会社員・男性に乗車いただいた。ちらりと拝見した限りでは、すでにそれなりの役職を得ているだろう年代の方で、かなりお酒を召しておいでのようだった。
「こんばんは」とこちらが挨拶をしても黙殺、「◎◎市に行け」といきなりの命令口調。「◎◎市ですね。◇◇通りを真っ直ぐでよろしいですか?」と訊けば、「ああ」の返事。まあ、確かに目上ではあるが、この時点で初対面の相手に対する態度ではない。
「それから、俺はワンメーター(当時で¥550程)しか払わないからな」と、発進するなり宣言された。
敢えて説明するが、乗車いただいたのは◎◎市の隣の市内で、行く場所にもよるが一〇キロから一五キロ圏内。深夜帯であれば、¥3000は超える距離である。
どうやら、このお客さまは絡む気満々だなと判断したので、私も各種接客業で培った対応をすることにした。
「はい、了解しました」
声を決して荒げることなく、ごく普通の雰囲気で対応出来るのは、私の最大の防具であり、武器である。そして、心中では反撃の機会を虎視眈々と狙っているのだ。
こういうタイプの、おそらく相手を怒らせ・絡むのが目的であるお客さまは、平常心の対応をされると意表を突かれるらしい。数泊の沈黙の後、その方は再度確認した。
「俺は◎◎市まで帰ると言ったとぞ」
「はい、そのように伺いました」
「ワンメーターしか払わんとも言った」
「はい、それも伺いました。ですから、◎◎市方面へワンメーター分だけ移動し、そこでお降りいただくということでよろしいですね?」
金魚鉢───もとい、車内の位置関係は、運転席と左後方の後部座席。勿論、お互いの表情など見えない。けれど、目上のお兄さまの苦虫を噛み潰したような顔が、はっきり見えるような気がした。
しばし沈黙したお客さまは、不完全燃焼の怒りを臭わせた声で、ぼそりと言う。
「…判った。ちゃんと払うから家まで送ってくれ」
時は超が付く繁忙期。一旦捕まえたタクシーを逃せば、帰宅できる時間の見当はつかない。
「了解しました。お送り先を詳しく伺ってもよろしいですか?」
丁重に対応したが、心の声は勿論違う。
『あったりまえたいっ! いい歳をした男がなんば言いよっとか?! 恥を知れ、恥をっ!!』
当然、和やかな行程にはならなかったが、¥3000を超える料金はきっちりいただいた。
また、こんな例もある。
やはり時は深夜帯───この時間は、お酒をずいぶん召して、気が大きくなっている方が多いのだろう。
西日本最大の歓楽街では、最終電車&最終バスが終了した後には、碌に移動することも出来ないタクシー渋滞が発生する。その動けないタクシーの列の前方から、ドライバーと何かを話してはその車に乗らず、その一つ後ろのドライバーとも話しては乗らずに、徐々に移動して来る三人組がいた。例によって、件の世代である。おそらく、碌な話ではないだろう。
やがて私の順番が来て、何を言うのかと思ったら、「交渉って出来る?」とのこと。「内容にもよりますが、お話は伺います」と答えると、「東区の▼▲まで、¥2000で行ってくれない?」。
目上に失礼なのは承知の上で、(こいつ、バカか?)と本気で思った───が、一応の平静さは保つ。
「東区の▼▲といえば、昼間の料金でお送りしたとしても、¥5000はかかる場所ですが?」
「だから、交渉しているんだけど?」
「交渉というのは、値段の摺り合わせが出来る範囲のことを言いますよね?」
「そんな事は訊いていない。こちらの方は、××会社の専務だぞ。少しはサービスしようと思わないのか?」
由緒正しき逆切れ。
「大変申し訳ありませんが、わたくし、昼間の勤務では介護タクシーをしておりまして、生活保護の方もいらっしゃいますが、きちんと既定の料金をいただいています。他にも、お子さまだけをお預かりする仕事の場合も同じです。ここでお客さまの交渉とやらに応じると、その方々に向ける顔がありません」
「俺が訊きたいのは、YESかNOかだ」
「勿論、NOです」
私がそう答えると、彼らは更に後ろの車に移動して行った。
当たり前だ、あんぽんたん。偉い人だというのであれば、値切るのではなく、正規の料金を払えってんだ───というのが、正直な気持ち。
『お客さまは神さまだから、何でも言う事をきけ』という勘違いした方々が、中・低所得者層の生活を圧迫しているという一面があるのは、まあ、間違いではないだろう。彼らは、お客さまとは言えないのだ。
値切りは格好いいことではない。常に、お客さまにはお客さまとしてのマナーがあり、商品やサービスに対して、適正な料金を支払ってくれるのがお客さまなのである。
『お客さまは、神さまです』という言葉の中には、芸や歌は神さまに捧げる気持ちで捧げましょう。商品やサービスは、神さまの前で行えるような公正な取引をしましょう───という意味が含まれるのである。
余談ではあるが、その¥5000越えコースを¥2000で行く事に応じたタクシーがいた。そのタクシーは、交渉を持ち掛けられて断った各社のタクシードライバーから、所属の会社とタクシー協会にクレームを入れられたのだと後日聞いた。
その後、そのドライバーがどうしたのは知らない。
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