第9話 飛躍とつまずき
「莉彩、調子はどう?」
「・・・?急にどうしたの、わたしは元気だよ」
「それならいいんだけど・・・無理はしないようにね」
「わかってる。迷惑はかけられないし」
次の朝、起きてきた私に珍しくお母さんが気を使ってか声をかけてきました。もう不安なんてありませんし、睡眠も楽斗さんに言われた通り8時間は取っています。もう健康そのものです。
私は母の気遣いもほどほどに私は学校に向かいました。
「あれ、お姉ちゃんもう行っちゃった?」
「葵が起きるのが遅いんです。早く朝食食べないと遅刻するわよ」
「わかってるって」
莉彩が家を出て少しすると葵が下に降りてきた。昨日は塾から帰った後も友達と通話していたらしく、少し寝不足のようだ。
「お姉ちゃん、調子どうだった?」
「・・・葵も心配?」
「うん、昨日も少し無理してるみたいだったし」
「そうね。でも、莉彩が良いっていうなら、変に言わない方がいいのかしら」
「わかんない」
・・・
教室に入った私は、一瞬動きが止まりました。理由は単純明快、私の席の隣に楽斗さんが座っていたからです。
「おはよう、井川」
「・・・」
あまりに当然の事のように楽斗さんは挨拶をしましたが、私はいまだに理解が追い付いていませんでした。席替えでもあったのかと周りを見てみましたが、席が変わっているのは楽斗さんともともとその席にいた沼上さんだけでした。
「あの、どうして席を?」
「今日が中間テストの正式な範囲発表だろう?それに伴って授業中の自習が増えるだろうから先生と沼上に言って変えてもらった」
「・・・そうですか」
もうそうとしか言えませんでした。まさか楽斗さんと隣の席だなんて・・・一週間だけではありますが、念願もかなってしまったようです。これはますます授業中も気が抜けません。
その後は中間の範囲表を受け取り、改めて確認と作戦会議を行いました。
「やはりネックになるのは数学と化学だな。特にⅠAと化学基礎は年度によって問題も結構変わるみたいだし、そこは重点的にいこう」
「わかりました」
「あと、前もクリアしてた国語とかは範囲も問題なく進んでるし、多少抜いて他に時間を割いてもいいだろう」
「そうですね」
予定も済んだら後は基本いつも通りです。授業中はとりあえず先生の話に意識を向けます。意外とテストに出そうな部分についても話してくれるので、それを聞き漏らさないように注意しつつ頭にいれていきます。
自習の時間になったら事前に楽斗さんに指示されていた箇所の勉強を進め、とりあえず詰まったら随時聞いていきます。授業中は時間が少ないので、迷うよりはすぐに解決した方がよりよく進められました。
昼休み中も言われたように眠っていましたが、その日は久しぶりに楽斗さんが席を立って音楽室に行きました。私は少し迷いましたが、席を立って楽斗さんのあとを追いました。もう退学なんてする気はありませんが、もうこんな機会はない可能性だってあるのです。それなら、機会があるならそれを逃したくはありませんでした。
彼の音色はいつ聞いてもすばらしいものです。多分こうしていることも楽斗さんにはばれているでしょう。それでも、楽斗さんは何も言うことはなく、演奏に集中していました。
「なぜこんなところで寝ている」
「・・・え?」
どうやらいつ間にか眠っていたようです。目が覚めると、どうやら昼休みも終わったらしく、音楽室から出てきた楽斗さんが私の顔を覗き込んでいました。
「あの・・・えっと・・・すみません」
「ここで寝るなら中で寝ろ。あんまり変なところで寝ると逆効果だ」
「・・・・・」
それはつまり、中で聞いてもいいということでしょうか。もしかしたらまだ夢の中にいるのでしょうか。もうそんな体験には慣れたような気もしますが、こうも連続して起こるとまだ疑いたくなります。二人きりの空間で彼のハーモニカを聞くなんて、想像しただけでなんだか顔が熱くなってきました。
あんなに沈んだ気持ちだったのに、それは一転してすべてがうまくいっているような感覚がありました。
しかし、中々良いことというのはそう長続きしてはくれないようです。
「・・・熱?」
それが現れたのは水曜日でした。目覚ましの音と共に目覚めた私でしたが、その日はなんだか様子が違いました。起きない理由なんてありません。今すぐにでも起きて準備したかったのに、体がまったく動こうとしなかったのです。何かに押さえつけられているような、奇妙な感覚が全身を襲っていました。
それに、違和感があったのは頭もそうでした。何か考えようとしても、すぐにその思考は見えない何かに遮られてしまい、ほとんど何も考えられない状態になっていました。多分体調を崩したのだろう。とにかく早く良くなるのを祈るばかりです。
最初に異変に気付いたのはお母さんでした。いつもの時間に起きない私を心配してか、わざわざ部屋まで様子を見に来てくれました。私の顔を見てすぐに状態を察してまずは熱を測りました。
結果は38.5度、すさまじく体調を崩しています。その数字に違った意味で倒れてしまいそうでしたが、なんとかこらえます。
「とりあえず、安静にするしかないわ。二日くらいは休まないと治りそうにないわね」
「二日って・・・それじゃあ困るよ」
「ああだこうだ言わない。治らないものは治らないんだから大人しくする」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「・・・心配しないで。寝てたらよくなるだろうから」
お母さんが下にいないことに違和感を覚えたのか、葵まで様子を見に来てしまいました。私の体温に相当驚いている様子でしたが、お母さんに連れられて部屋から出ていきました。
「・・・どうしよう」
こんな何もまとまらない頭で考えても良い考えなんて生まれるはずもありません。大事なこの一週間の二日を完全に棒に振るなんて、もったいないことこの上ありません・・・楽斗さんにはなんて言ったらいいか。もしこれが原因でダメなんてことになったら・・・
そこで思考を強引に遮り、何かから逃げるように再び眠りにつきました。
・・・
「九条美琴さん・・・ですよね」
「・・・そうだけど、何か用ですか?」
「少し話に付き合ってもらいたいんだけど」
「・・・わかりました」
その日、葵は美琴に声をかけていた。これを知った時は随分驚いたものだが、クラスは違えど二人は同じ中学に通っていた。友達付き合いも多いようで、一人になるタイミングを探すのは大変だったが、なんとか機会を得ることが出来た。
「私は井川葵です」
「井川さん?それってもしかして」
「はい、莉彩お姉ちゃんの妹です」
「そうなんですね!莉彩さんに妹さんがいらっしゃるなんて、声をかけていただいて光栄です」
「・・・ありがとうございます」
どうやら美琴は随分と莉彩のことを慕っているようだった。その機器として表情に思わず驚いて言葉に詰まってしまった。
「それで、話というのは?」
「・・・お姉ちゃんが高熱を出してしまって、寝込んじゃったんです」
「本当ですか?それで、容体はよろしいんですか?」
「二日は寝ないと良くはならないだろうってお母さんが」
「そうですか・・・心配ですね」
「はい、それで美琴さんに、楽斗さんにお見舞いに行ってくれるよう頼めないかなと思って」
「・・・莉彩さんのこと、葵さんも大好きなんですね」
「・・・それは秘密です」
「私たち、いいお友達になれそうですね。それに、心配しなくても、お兄ちゃんは行くと思いますよ。普段から莉彩さんのことは気にかけているようですから」
「そうなんですか?・・・やっぱり、あのお二人
って・・・」
「私にもよくわかりませんけど・・・多分、そうなんじゃないですか?」
葵と美琴は嬉しそうに互いを見合い、そして握手を交わした。
・・・
「・・・もうこんな時間」
睡眠というのは時間をつぶすには最適です。軽い食事と薬をもらって安静にしていると、いつの間にか学校も終わっているだろう時間になっていました。
ちゃんと寝たおかげで、多少熱は収まっているようでした。相変わらず体中が重たいですが、ちゃんと回復の見込みはありそうです。
「少しは何かやっておかないと」
私は教材を取ろうと何とか体を動かして手を伸ばしました。しかし、ベッドの周りに注意をひくものを置かないようにしていたせいで、ベッドから手を伸ばしたくらいでは届きそうにありませんでした。だったら、少しベッドから出る他ありません。
「莉彩さん、ちゃんと寝てないとだめじゃないですか!」
ベッドから出ようとした瞬間、入り口から美琴さんの声が響きました。本来いないはずの彼女の登場に、思わず体がとまりました。
美琴さんは駆け寄ってきて半ば強引に再び私をベッドに寝かせました。
「クイーン、あまり乱暴にしてはいけませんよ。病人なのですから、もっと優しく」
「病人はちゃんと寝かせるのが看病する人の仕事なんです」
美琴さんに続いてルークさんが入ってきました。美琴さんの服装は改めて見ると制服ですし、学校帰りに来てくれたのでしょうか。しかし、学校の違うはずの美琴さんがなぜ・・・
「葵さんに教えてもらったんです。莉彩さん、体調が良くないんだって、それに莉彩さんまた来てくれるって約束したのに全然来てくれないんですもん。だったら、もうこっちから行くしかありません」
「・・・ごめんなさい。ちょっと余裕が無くて」
「わかってます。テストが終わったら、絶対遊びに来てくださいね。ルークにはお迎えするように言うから」
「クイーン、あまり無理強いするのは良くないので・・・」
「約束だよ。莉彩さん」
「うん、約束だね」
その言葉に美琴さんも満足したようで、ようやく私から離れました。
「莉彩様、お見舞いの品をご用意しておきましたので、後でゆっくり召し上がってください」
「すみません、ありがとうございます」
ルークさんはそういうとそのお見舞いの品であろう袋を机の上に置きました。なんだか結構大きい気がするのですが、一体何が入ってるんでしょうか。
「それでは、私共はこのあたりで失礼します。クイーン、よろしいですね」
「わかってる。じゃあ、莉彩さん。お大事に」
「はい、ありがとうございました」
お見舞いの袋を置くと、あまり長居することもなく二人とも部屋を後にしました。私を気遣っての事か、忙しかったのか、そう思うほどにあっさりと部屋を出ていってしまいました。
そして、私のこの予想は半分は当たっていました。お二人と入れ違いで楽斗さんが部屋に入ってきたからです。
「楽斗さん?!」
「・・・美琴からあまりよくないということは聞いたが、確かに中々のものだな」
「ごめんなさい。時間がないのに」
私の熱のほどは楽斗さんは一目でわかったようでした。そんなにまだひどい顔をしていたのでしょうか。恥ずかしくなって思わず彼から顔をそらしてしまいました。
別に楽斗さんは怒っているわけではなく、ただ心配してくれている様子でした。時間がないのは彼が分かっていないはずがありません。それでもなお、彼はこの状況を悲観的には受け止めていないようでした。
「今までよく頑張ってたな」
「・・・それってどういうことですか?」
楽斗さんの言葉は、私にはよくわかりませんでした。だって、それを聞くのは一緒に出かけた時か、テスト前日や終わった時のものだろうものだったからです。もしかして、もう無理だとあきらめて一周回って気持ちが軽くなってしまったのでしょうか。なんだか急に緊張してきました。
「俺は、お前が元気に二週間勉強を頑張れるとは最初から想定していなかった」
「え・・・?」
「今までまともな勉強をしてこなかった奴が、いきなりこの密度で勉強して耐えられるはずがない。本来はもっとペースを考えてゆっくりやる必要があった」
「・・・」
「だが、残り二週間でそんな悠長は出来ない。この方法を取るしかなかった。そこで想定する必要があったのは、お前が勉強疲れで疲弊したり、ストレスが溜まって嫌になるかそのあたりになる。だから、休憩する日や体調を崩して勉強できない日があるだろうことは最初からスケジュールに入れていたわけだ」
「全部、楽斗さんの想定通りなんですね」
「そういうわけじゃない」
楽斗さんの想定の深さに感激したのもつかの間、彼は即座にそれを否定してしましました。
「一日八時間の睡眠を欠かさなければ、もう少し記憶の整理は順調に進むはずだった。だが、想像以上にお前の出来・・・いや、思考基盤が薄かった。だから最初は焦った。休むことを定期的に取り組むと間に合わないかもしれない。だが、そこで二つ目の想定外が起こった。お前が異様に勉強に対して前向きだったことだ。疲労やストレスはあったかもしれない。だが、お前はそれをものともせず挑んでくれていた。結果的にうまいこと噛み合った。それだけのことだ」
「そうだったんですね」
・・・
莉彩の部屋を出た後、霧矢と美琴は下で楽斗の用が終わるのを待っていた。
「莉彩さん、早く良くなるかな」
「直接見たところ、少々厳しいと言わざるを得ません。おそらくは、何かしらのストレスと疲労の影響でしょう。それも、ストレスが先日のデー・・・外出で解消されたことによる落差によって体調を崩された。そこに今までの疲労のつけが重なってしまったと見て間違いないでしょう」
「それって、よくなるのに時間がかかるってこと?」
「彼女の免疫力次第とも言えますね。上手く原因を処理できれば、回復力も早まる可能性は高いと思われます」
「なんだか難しい話だね」
「あくまで憶測ですし、私にも詳しいことは言えません」
二人が話していると莉彩の母がお茶を持ってきた。
「わざわざありがとうございます。お見舞いに来てくださって」
「いえ、こちらの好きでやっていることですので」
「莉彩さんのこと、心配ですから」
「もう、こんないい人たちに心配されて、あの子も幸せ者ね」
「光栄なお言葉です」
二人はお茶をすする。あまり高級なものとは言えないが、腕が中々いいのか良い味を出している。
「これ、おいしいですね。なんていう名前ですか?」
「お母さまは良い腕をお持ちのようです。このお茶でここまでの味が出せるとは、参考になります」
「いえそんな、別に大したことはしていませんよ」
三人がお茶について話を広げていると、上の階から音色が聞こえてきた。
「・・・これって、お兄ちゃんのハーモニカ?」
「そのようですね。どうやら莉彩様にお聞かせになっているのでしょう」
「私も聞きたい!」
楽斗のハーモニカに飛びつくように美琴はすぐに席を立つ。しかし、霧矢はその手をつかんでなだめるように首を振る。
「・・・莉彩さん、うらやましいな。私でもそんなことしてもらったことないのに」
「美琴様はすぐ寝てしまわれますから、ああいったものは必要ないのでは」
「そういう問題じゃありません」
・・・
「勉強は治るまで必要ない。内容の整理の時間だと思って前みたいにひたすら思考を落ち着けると良い」
「わかりました」
お見舞いの中に体にいい果物がいくつか入っているようで、薬のついでにそれも食べる。いままでルークさんやビショップさんに隠れてわかりませんでしたが、それをこしらえる彼の手際はかなり良かったです。家庭力も高いなんて、いよいよ非の打ちどころもないのではないでしょうか。
薬も飲み終えると、楽斗さんは満足したようにベッドから離れてカバンを取った。
「あの、楽斗さん」
「・・・どうした、まだ何かあるか?」
「あの・・・ハーモニカ、聞かせてくれませんか?」
「・・・前も聞いただろう。わざわざ今聞かなくてもいいんじゃないか?」
「さっき起きたばかりで眠れそうにありませんから」
「・・・まったく、仕方ないな」
かなり苦しい言い分なのは自分で言ってもわかりましたが、楽斗さんは聞き入れてくれたみたいで、もう一度椅子に座ってハーモニカを取り出しました。
♪~~♪
私は静かに彼の音色に耳を傾けました。彼の音楽はいつどこでも色あせることはありません。すぐに私を夢の世界にいざなってくれました。
なんて悪い女なんでしょう。体調を崩したのを良いことに、こんなお願いをするなんて、こんな音色を独り占めしてるなんて、なんて贅沢で罪深いことなんでしょう。心の中で一言謝罪すると、私の意識は奥へと消えていました。
「・・・まったく睡眠の質は異常に良い奴だ」
ハーモニカを演奏して10分も経たないうちに莉彩は眠ってしまったようだった。楽斗はそれを確認すると演奏を止めて部屋から出た。あとは安静にしていればよくなるだろう。
「キング、もうよろしいのですか?」
「ああ、帰るぞ」
「お兄ちゃん、うらやましいな。莉彩さんだけにハーモニカを演奏するなんて」
「あいつの希望なんだから、仕方ないだろう」
「私の言うことは聞いてくれないのに・・・」
「クイーンそこまでに」
頬を膨らます美琴をルークがなだめる。
「我々はこれで、お邪魔しました」
「ええ、わざわざありがとうございました」
挨拶も済ませ、三人は莉彩の家を後にした。
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