チンセプション

丸助

チンセプション




 たかだか氷山の一角らしい。

 僕らが感じている「意識」ってやつはーーー。




 そんな人間の無意識を発見し、名著『夢判断』を執筆した精神分析学の創始者たるフロイトはこう言った。


「やっぱ一番気持ちぃのは夢精ですよね」


 この発言からもわかるように、最高に気持ちいい射精は夢精であることは語るまでもない。

 QEDーーー証明完了。


 こうして『夢』を自在に操れる機械。

 スリープダイヤルが開発された。


 

 スリープダイヤルをベッドの下に置いて、僕は今日も眠る。

 ダイヤルは『リビドー』にセットしてある。

 これで明日、パンツのぐっしょりとした感覚と共に目覚めることが出来るだろう。


 淫夢(エロい夢)を自由自在に見ることができるスリープダイヤルだが、しかしその効果は本来の機能の副産物に過ぎない。

 もともとは安眠枕とかそういう類のと同じで、レム睡眠とノンレム睡眠を自在に操れるだかどーたらで、つまりは「快適な睡眠をするための電波」が発せられるマシンだ。

 

 短い睡眠時間でも十分な睡眠だと錯覚してしまえることから、ブラック企業に耐えうる労働者を大量生産した闇深い発明品である。


 しかしその技術を追求していくうちに「エロい夢も見れるんじゃね」と、ブラックすぎるあまり頭がパーになった日本企業がどんっと開発したのが『リビドー』のダイヤルだ。

 ヘンタイジャパンクールサイコー!

 イェーイ!


 きっとフロイトのおじさんも泣いていることだろう。草葉の陰で……。


 僕は通販で買ったスリープダイヤルを毎日のように使用していた。

 もちろんよこしまな動機である。


 高校生のお財布から代金を工面するのには骨が折れたが、しかしそれでもこのスリープダイヤルの『リビドーモード』は最高だ。

 思春期真っ盛りの僕には切って離せない大切な夜のお供である。


 よし! 今日もいい夢見るぜ!


 ダイヤルから発せられる催眠電波で、僕の意識はどんどんと深い海の底に落ちていく。


 微睡の中………。


 深く。


 深く。


 

「!」


 ハッと目が覚める。

 ちゅんちゅんちゅん、と小鳥のさえずり。

 朝になっている。


 随分と夢見が良かったらしく、体が軽い。


 そして予想通り……パンツはぐっしょり!


 っていうほどでもないけど僅かに湿った感覚がある。ありがとうフロイト。夢精は成功。夢中で性交。気分上場うぇいよーだ。


 ゆっくりと身体を起こそうとしたその時…。


「もう…りょうちゃんまたエッチぃ夢見てたんでしょ」


 と声が聞こえる。


 僕は部屋の入り口を見ると、そこには見慣れた制服の女子高生ーーー。


 幼馴染みの楓が、軽蔑するような視線を僕に向けていた。


 可愛らしく整った顔で、僕の濡れたボクサーパンツをじーっと見下ろしている。

 楓は、僕の下半身を冷めた目線で見つめる。

 なんだかそれは背徳感というか、背中にゾワゾワする感覚がある。


「おい、お前なんで部屋に入ってきて…」


「だって、りょうちゃん全然起きてこないんだもん…」


 楓はむっと口を尖らせて、僕のほうにやってくる。


「仕方ないんだから……もう」


 楓はすぐそばまでやってきて、それから…。


「!!」


 楓はなんと、僕のベッドに潜り込んできた。

 すすっー、と掛け布団をトンネルのように潜り抜けて、僕の下腹部あたりで顔を出す。


「そんなに溜まってるなら…言ってくれればいいのに」


 と不機嫌そうに言いながら、ゆっくりと僕のボクサーパンツをずり下ろしていく。


「……な」


「夢より気持ちよくしたげる」


 小さな唇を、近づける。

 楓は僕の「それ」をぱっくりと咥えた。

 淫らな湿気に包まれて、僕の下腹部はぞくぞくとせりあがる。


「ん…」


 楓はこもった声を漏らして、僕の「それ」を喉奥まで入らせる。


 じゅ…じゅ…と滴る水音。


 楓のあどけない顔が淫靡なものに変わっていく様に、どうしようもない征服感が湧き上がる。


 制服のブラウスが引力に引かれ、つつましくも確かにある谷間を覗かせる。


 それがより、僕の興奮を高めていき………



 

 ーーーという夢を見た。


 うだる倦怠感の割には、目覚めが良かった。

 小鳥のさえずりが耳に届く。

 生々しく、ぐっしょりとした感覚が下腹部を支配している。

 夢と全く同じ天井。

 同じ部屋で僕は朝を迎える。

 

 当然ーーー。

 現実世界に、朝イチで口淫してくれるようなエロい幼馴染みがやってくるはずもなくーーー。


「また楓の夢……」


 僕は心臓を摘まれるような自己嫌悪に苛まれ、布団で顔を押さえつけた。



 ◆



「ねえ。リョウスケもあれ使ってんの?」


 高校の昼休み。

 僕は彼女…つまりは恋人である吉澤と一緒に、中庭のベンチでお弁当を食べていた。

 のどかな昼下がりのことである。


「え? あれって?」


「ダイヤルのこと」


「…ああ。使ってるよ?」


「え、じゃあ…変な夢いつも見てんの?」


「違うよ。普通に。快適な睡眠を得るために…」


「ふーん」


 吉澤は冷たい目で僕を見つめながら、少しだけ安心した様子を見せる。


「なんか、男子はみんなそれで変な夢見てるっていうから」


「僕をその辺の性欲猿と一緒にしてもらっちゃ困るね。謙虚誠実がもっとーさ」


「それならいいんだけど」


 言えるはずがない。

 吉澤というかわいい彼女がいるのに、幼馴染みの淫夢をわざわざスリープダイヤルを使って見ているなんて最低な事実を…。

 そんな業が深いこと、口が裂けても言えわけがない。

 彼女の手作り弁当を食べてるこの贅沢な口は…。


「僕には吉澤がいるからね」


 と、白々しい言葉を放つ。


「そ…そう?」


 吉澤は嬉し恥ずかし半分で、長い髪を耳にかける。彼女には少し、僕を信用しすぎるきらいがあった。


 ロングの黒髪に、冷ややかな印象を受けるけど整った顔立ち。

 僕なんかにはもったいない美人さんで、可愛い感じの楓とは、まったく逆のタイプの魅力を持っている。


 僕は夢の中で浮気している。

 幼馴染みの楓と、毎日にようにくんずほぐれつと絡み合っている。


 中学のときに楓に別れてからというものの………。

 僕は彼女の幻想に囚われ続けているんだろうか。


 それを考えると、僕の不純な無意識層に、より一層深い罪悪感を覚えるものだが……。


 そう簡単に、男の性欲は止められない。



 ◆



「りょうちゃん……っ…いやっ」


 フリルのついたスカート。

 ピンクと白のワンピースには、キラキラとした宝石。

 カチューシャには星型のマーク。


 楓は、いわゆる魔法少女の格好をして、僕の前でビクビクと縮こまる。

 体制を崩したことで、無防備になったあどけない素足が淫靡に僕を誘っている。


 敵に捕まり改造されて、触手生物になってしまった僕は、そのあられもない姿を見て、荒ぶる本能を抑えることはできない。


 情動赴くままに、触手生物となった僕は楓に襲いかかる。


 ぬるるるる! ぬるるるる!


 じゅわぁ…っ。


「やっ……りょうちゃん…っ、正気に、戻って!」


 僕の十本以上ある触手は、ワンピースの隙間に潜り込んで、楓の肌を絡め上げていく。

 ぬる。ぬる。すぅ……。

 なめらかであたたかい楓の肌が、ぬるりとした僕の冷たい触手に熱を与える。


「っ……くすぐったいよぉ」


 フリルのスカートをまくしあげて、彼女の股を貪るようにまさぐる。じゅるるる、と触手から飛び出る粘液と、楓の体液が混ざり合う。


「や…そこ……だめ」


 拒絶しながらも、本当は淫乱である楓。

 僕の触手に擦られるたび、びくっん、といやらしく肢体をうねらせる。


 それがより一層、僕のうねる情欲を高めていきーーーーーーーー。


 以下、自主規制。



 目が覚める。

 見慣れた天井。

 またやってしまったと、ねばついた解放感と罪悪感に体が沈む。

 パンツは相変わらずとぐっしょりしている。

 毎日のようにスリープダイヤルを使っているものだから、もはや股間が濡れていない朝の方が珍しいくらいだ。


 ところで。


 スリープダイヤルの『リビドー』のシステムだが、実は重大な欠陥というか、どうしようもない科学的な限界領域(シンギュラリティ)が存在した。


 淫夢の詳細な内容を決めることはできないのである。


 氷山の一角「意識」の奥深くにある本体「無意識」は、そう易々と全貌を見せることはない。


 人類に操作が許された脳の領域はまだ「どんな夢をみるか?」という部分だけで、「なんの夢を見るか?」という部分は分厚い氷の中に隠されている。


 淫夢と決めることは出来ても、誰とどんなことをするか、などの明確なシチュエーションを決めることは出来ないのだ。


 逆説的に唱えれば、それは性の本性を暴いてしまうことになる。


 自分をノーマルだと思っていた男が、淫夢を自発的に見た途端に、男同士のプレイしか見ることがなく、自分がゲイだったことに気づいたという事例も有名だ。

 結局家庭を持っていたその男は妻子と別れ、本来の性を謳歌することになる。


 それが幸福な結末だったかはさておいて、自分の明確な性的嗜好…下半身の内的宇宙を曝け出すのが『リビドー』のダイヤルである。


 つまり僕の下半身は、恋人である吉澤ではなく、フラれたはずの幼馴染みを求め続けているというわけだ。


 これは明確な裏切りと言っていい。


 小さい頃からずっと一緒だった楓。

 淫乱で、僕を楽しませてくれる楓。

 現実とは隔絶した無意識の世界で、彼女と僕は永遠の愛を育んでいる。


 これを知れば、きっと純朴で疑うことを知らない吉澤は、傷ついてしまうだろう。


 ごめん吉澤。


 僕だって本当は、君の淫らな夢を見たい。


 これは言い訳かも知れないけれど、僕が病的なまでに淫夢に取り憑かれ、スリープダイヤルを使い続けているのは、吉澤との夢を見たいって気持ちもあるからなんだ。


 いや…。

 ダメだ。


 いくら下半身に取り憑かれた僕でも、そんな取り繕った言い訳で、納得することは出来やしない。


 ごめん…吉澤。

 ごめん……ごめん。


 僕は最低なおちんぽゲス野郎だ。


 ◆


「大丈夫?」


 いつかの下校途中。

 吉澤は、僕と手を繋いでいる。彼女は上目遣いで僕の顔を覗き込んでくる。

 いつもは冷ややかな目を浮かべている吉澤だけど、この時だけは心配そうにしてくれていた。


「やつれてるよ? 寝てないのちゃんと?」


「…いや、そういうわけじゃ」


 嘘だ。

 狂ったように夢精を繰り返している僕は、慢性的な睡眠不足に苛まれていた。いや、睡眠はちゃんと取っているんだけど、その分精力も放出しているため、常に肩がぐったりしている。

 用法容量を守ってください。ってやつだ。

 

 実際、通常の射精と、夢精ではその倦怠感に大きな差があった。


 夢精は疲れる。ただそれだけの話。


「ねぇ。今日、家に来ない?」


 え? と僕はお手本通りのあからさまな返答をしてしまう。吉澤が僕を家に誘ったのは初めてだった。


「今日、親いないから」


 地球爆誕より四十五億年。幾度となく繰り返されたであろう誘い文句に、僕は頷く以外の術を知らない。


 吉澤の手を握り、僕は彼女の側をついていく。


 思い出すのは、きっかけ。

 僕と吉澤がいかにして付き合うようになったかだ。


 特別、ドラマチックなことがあったわけじゃない。


 偶然、カラオケで遊んでいた時に僕たちのグループに参加してきて、それで連絡先を交換して、何気ない会話が楽しくて、距離が近いているのをなんとなく感じて、僕は君に告白した。

 

 そうだ。告白したのは僕からだった。


 僕はまあ、その時は文句なしに吉澤に夢中だった。


 幼馴染みの楓。

 僕の初恋の相手である楓を忘れさせてくれるような、そんな予感をなんとなくだけど僕は吉澤に感じていた。


 僕は吉澤の家に行く。


 少し喋って、吉澤の好きな意外とマニアックなゲームをやったりして、そういう雰囲気になる。


 会話が途切れた時に、穏やかな感傷の線が僕と吉澤の間で繋がる。

 

 キスをする。

 吉澤は目を閉じていて、僕はそれを見ている。


 手を伸ばして、小さな肩を掴む。

 言葉にならない引力に従って、ベッドに倒れ込む。


 じりじりとアスファルトを照りつける太陽を、僕は想像する。

 僕の身体は高揚して、躊躇って、冷や汗が浮かんでくる。暑い。けれど、心は熱を求めている。


 現実の女の子の肉体は不思議だ。

 安心と不安を等価に感じさせてくる。

 

 女の子の身体は繊細で、抱きしめるだけで壊れてしまいそうだからか。

 いやそんな格好つけた理由じゃない。

 恐いだけだ。

 拒絶されるのが。


 現実のセックスは、夢とは違った。

 僕の脳内にある楓と、吉澤のいま目の前にある肉体は全く違う。

 夢には現実感がない、とかそう言う話じゃない。

 夢の中にいるときはそれが主観的には現実で、匂いも、感触も、興奮も確かに存在する。夢の中はある種の仮想現実と言い換えてもいいし、脳が受ける情報に明確な差異はないだろう。

 夢の中にいる、楓の裸体から受ける情報と、現実の中にある吉澤の裸体から受ける情報は同じものだ。


 だが、夢とは己一人で完結するものだ。


 現実のセックスの恐ろしさとは、それが自己完結するものではないと言うことだ。


 僕の全く思い通りにならない肉体が、僕にその全てを委ねている。

 僕の魂は、二人分の肉体を背負い、それと同様に、吉澤にも僕の肉体がのしかかる。

 一体化すると言うことへの恐怖は、否応なく身を竦ませる。



 一糸纏わぬ吉澤の、息を呑むような美しい肌。


 僕がそっと触れた胸は温かい。


 吉澤はむず痒そうに身体を退け反らせる。僕はギョッとする。胸を触ったのが嫌だったのか。でも吉澤は「手、冷たい」と言う。

 僕の手が冷たくて、反射的に退いてしまったのだ。手のひらに血が巡るのをイメージして、吉澤にもう一度触れる。


 くびれに手を重ねると、くすぐったそうに身を捻る。

 キスをしようとすれば、怯えたように顔を下げる。


 僕の愛撫に、吉澤は汲み取れない表情を見せる。

 気持ちいいと少しでも思ってくれてるのだろうか。それとも恋人としての義務で、僕とこうしているのか。

 身体の距離はゼロなのに、どうしてだろう、心はやけに遠い。

 

 僕が思い描いたことはまったく違う反応を、吉澤は見せる。

 淫靡に喘ぐこともなく、吐息を漏らすだけ。

 拒絶されたのかと恐ろしくなる。


 夢とは違う。


 楓とは違う。


 思い通りにならない。

 

 それは当然のことであるはずなのに、僕は動揺して身が竦んでしまう。


 僕は勃たなかった。


 心臓の鼓動だけやけに早くなって、脂汗だけをびっしょりかいて、呼吸も荒くなっているのに…。目の前にある吉澤の白い肢体を、こんなにも魅力的だと思うのに…。

 肌を重ね合う幸福を、感じているに…。


 僕のそれは、いつまでも萎えたままだった。



「ごめんね」


 吉澤が泣きそうになりながらショーツを履いて、ブラをつけて、背中越しに絞り出したその言葉に、無言で返してしまったのは、僕が僕を見切るのに十分な理由だった。



 夢を見た。

 その日、帰ってみた夢だ。


 幼い頃の楓が、バス停で雨宿りする僕の前に現れる。


「りょうちゃん」


 雨に濡れた、まだ幼い楓のカラダ。


 やがて僕が「したい」と思ったタイミングで、楓は僕に身を預けてくる。僕は幼い頃の僕に戻っていて、幼い楓の肉体に等身大の性的興奮を抱く。


 雨の音。


 濡れた音。


 濡れる音。


 僕が触れば、楓は喘ぐ。


 僕が動けば、楓はそれに合わせる。


 僕のしたいタイミングでキスをする。


 抱き合って、全身をくまなく舐め合う。

 

 思い通りになる世界で、僕のそれは安心したように血を巡らせる。

 楓の幼い膣に入る。

 

 射精する。


 脳を蹂躙する幸福感の中で、目が覚める。



 いつものぐっしょりとしたパンツの感触よりも、僕は気づく。


 頬が濡れていた。


 零れ落ちる涙が、頬を伝って枕を濡らす。


「楓……、楓っ」


 みっともなく、僕は喘ぐ。


「楓っ……楓っっ!」


 喉が震える。言葉になるのはそれだけ。


「ごめん……ごめん」


 僕は一体なんなんだ。

 吉澤を泣かせた夜に、スリープダイヤルを起動して、淫夢を見て、みっともなく射精して!

 しかもまだ十歳の頃の楓を相手に、とことん欲情して、その体を触って舐めて、犯し尽くして!


 楓はもう死んでいるじゃないか。


 十五歳の夏に、トラックに轢かれて死んだじゃないか。


 僕は、いつまで死者を弄ぶつもりだ。



 ◆


 

 楓は淫乱なんかじゃない。


 朝起きた僕のを舐めたりなんかしない。

 淫らに僕を誘ったりなんかしない。

 僕の思い通りに股を開いて、濡れて、喘いで、愛を叫んだりしない。


 楓はもっと気難しい女の子だ。僕はいっつも機嫌を伺っていた。楓はよくわかんない理由で怒ってくる。僕が言ったどうでもいいことを、何ヶ月も覚えていて指摘したりする。僕が他の女の子と喋るだけで機嫌が悪くなるくせに、ふと見たら自分は他の男と楽しそうに喋ってる。

 

 僕が「したい」ことをするには、ちゃんと段階を踏んで、交渉をして、それでやっとこぎつけなきゃいけなかった。

 楓とエッチをするために、日々懸命に努力を積む必要があった。


 でも時々だ。時々、脈絡なく僕に甘えてきて、僕はそれが嬉しくって嬉しくって、抱きしめるだけでもう感動が沸き起こってきて…。

 でもこれって僕は都合がいい男なんじゃないかとかで悩んで…!

 それでもやっぱ僕を胸に抱きしめる楓の心臓の音で安らいで…。


 楓はそういう気難しくて、自分勝手で、僕の思い通りになんかまったくならない…。

 そんな「どこにでもいる」女の子なところが大好きだったんだ!


 ……夢の中にいる楓は、僕に都合が良すぎる。

 楓は朝一でフェラなんかしない。魔法少女のコスプレをして触手に犯されてよがったりしない。バス停で青姦キメこんだりしない。


 僕は、交通事故でトラックに轢かれて真っ二つになって死んじゃった幼馴染みを夢の中で召喚して色んなシチュエーションで犯している異常性癖者だ。


 挙げ句の果てに現実の女の子じゃ勃たなくなった夢精中毒者の典型。


 僕は死者の尊厳を踏み躙った上に、生きている吉澤の心すら傷つけた。


 吉澤。

 そうだ。吉澤。


 僕は結局、吉澤を楓が死んだあとの代替品にしようとしたんだ。きっとそうだ。あのとき僕の心にあった安らぎと恋心は性欲の裏返しでしかなくて、「前を向こう」だなんてうそぶいて、「新しい恋をしよう」とか都合のいいこと言って、結局は楓で発散できない性欲の捌け口として吉澤を選んだだけだ。


 吉澤の処女は僕がもらっちゃいけない。


 夢の中の死者に浮気している僕なんかが、彼女の純潔を奪うわけにはいかない。


 でも僕はきっとスリープダイヤルを使うことがなくなったらインポテンツも治って、吉澤の処女を奪うんだろう。


 僕は異常者だから。


 逆に、スリープダイヤルを使い続ければ僕は楓の尊厳を踏み躙り続ける。いろんなシチュエーションで楓を汚し続けるだろう。


 僕は生きているだけでもう罪なのだ。

 生きてちゃいけない。

 僕なんかがこの世界に存在していることこそがよくないことなのだ。


 そうだ、死のう。


 流行った自殺の方法がある。

 スリープダイヤルが発売されてからだ。

 夢眠死。

 

 母の持病の治療薬から拝借したカプセルを致死量飲み込んで、ベッドに入る。

 スリープダイヤルを入れて、『リビドー』ではなく『エデン』に設定する。


 『エデン』は、最も安らかで快適な夢を見せるスリープダイヤルの機能だ。

 この夢眠死が流行ったのはこれで天国に行けるから。だそうだ。

 死ぬとき夢が『エデン』なら、脳が機能を停止しても、意識は永遠に美しい夢の中なんじゃないか。そんなシンプルな理屈で、スリープダイヤルは安楽死の道具としての側面も持ち始めていた。

 日本の闇だとか、茶化していたら自分がこうなるなんて笑い草だがもう止まらない。


 僕は卑しくも、死後の安楽を求めた。

 そして僅かな期待を抱く。

 こんな僕でも天国に行けば、楓に、死んだ楓の本当の魂に会えるんじゃないか。という淡い希望。どうしようもない夢想。

 夢の中の天国なのだから、結局は変わらないか。思考が混乱を始め、眠りに落ちる。


 目を閉じる。

 僕は永遠の眠りについた。



 目が覚める。

 いや、僕はもともと目覚めていた。

 ずっと閉じていると思い込んでいただけで、僕の目は依然前を捉えている。


 交差点だ。


 トラックが迫る。

 少女に。


「りょうちゃん」


「楓っ!」


 僕は咄嗟に飛び出して、少女を突き飛ばす。


 トラックのタイヤが僕を真っ二つに切り裂いて肉を弾け飛ばす。


 少女が死んだ僕の顔を見る。

 涙を流すけれど、僕はそれを拭ってやれない。

 僕はもう死んでいるから。


 楓は僕のために泣き、僕は楓のために死ぬ。


 ああ……これが天国か。

 僕の望む『エデン』


 ずっとこの夢を見ていたい。


 何度もトラックに轢かれる。

 何度も楓を助ける。

「楓、楓、楓っ、楓っっ!」

 トラックに頭を潰され、腸を放り出され、足を捻られる。

 等活地獄さながらの苦痛の連続だったけれど、楓を僕は助けられた以上、ここは、これ以上ない天国だった。

 幸せの絶頂に至る。


 何度でも、僕は君を助ける夢を見るよ。


 ああ。


 最高だ。


 幸せだ!


 僕は永遠にこの夢を見ていよう!!


 幾度かの幸福な死のあとに、僕が目覚めたように夢の中で錯覚する。


 さあ、これで何回目だろう。

 僕は交差点で楓を探そうと意識する。


「…あれ?」


 でもそこに楓はいない。

 交差点もない。

 疾走するトラックもない。


 あるのはただ茫洋と広がる大海原と満天の星空。


 僕は海のど真ん中で覚醒する。


 寒い。

 まず感じたのはそれだ。

 吐息が真っ白に染められる。

 お尻も冷たい。死ぬほど冷たい。

 下を見ると、氷、氷、氷。



 僕は氷山の上に腰掛けていたのだ。



 海に浮かぶ氷山の一角に、僕は腰掛けている。

 驚くよりも先に、僕は何者かに声をかけられる。


「私はフロイト。ようこそ、無意識の世界へ」


 目の前には、教科書で見たことのある髭のおじさんが立っていた。


 ◆


 フロイトを、僕は見上げる。


 海の青と、氷山の白。それに加えて夜空の黒と星の金。

 色鮮やかな景色の中で、フロイトはモノクロームに佇んでいた。

 理由は明白だ。

 教科書のフロイトの肖像はモノクロ写真だったから。僕がフロイトを白と黒でしか想像できないのだ。だからそれは結局このフロイトは偽物で、僕の創造の産物でしかない。


 果たしてその顔も本物と瓜二つであるかもわからない。

 それこそ僕の無意識の層に沈澱したフロイトのイメージがそこに現れているのだ。


 フロイトとも知れないフロイトが僕に言う。


「無意識は重なり、集合する。共鳴する。人の意識は互いに作用し合い、こうして無数の氷山を茫洋たる海の中に作り出す」


 僕がイメージするフロイトはそれっぽいことを言うけれど、所詮僕がイメージするフロイトでしかないからその言葉に学術的基盤はない。


「無意識に存在する人間のイメージが、偽物であるとは限らない。人と人は関わり合い、影響を及ぼし合う。君の中にある他人のイメージは君の中から見た一つの真実だ」


 フロイトは、ぱちんっと指を鳴らす。


「君に客人だ」


 フロイトは消え去った。

 その背後に立っている「客人」の姿が露わになる。


 楓だ。


 それが死んだ日の楓であることはすぐわかった。あの日僕とのデートで着ていた服だ。

 服屋で通りがかりに同じ服を見ると吐き気がしたからよく覚えている。


 楓は、微笑んだりもせずに、真顔で、不機嫌だ。


 楓は僕の隣に腰掛ける。


 星空の下で、二人氷山に座る。


「最低」


 楓は僕をなじる。


「私を夢の中で弄んで、エロいことばかりに使って、ほんとうに最低」


 うん。


「誠実だったふりをしてたんでしょ? 男子の脳みそって、結局そんな感じなんだね」


 うん…っ。


「エロいことばかり考えてるんだ」


 うん……っ。そうだ。そうだ。


「最低。最低。最低」


 楓は、僕を罵倒する。

 うん。うん!

 いくらでも言ってくれ。

 そうなんだ。僕は最低なおちんぽゲス野郎なんだ。


「僕は…僕はクズだ。君を助けることもできないで、夢の中で君を強姦し続けた。現実でも女の子を傷つけて、それでまた君の淫夢に逃げ……」


「うるさい」


「…ぇ」


「そうやって自分を責めて、楽になろうとすることも最っ低」


 楓は僕を見る。

 僕も楓を見る。


 氷山よりも冷たい視線が、僕を射抜く。


「私は結局、夢の中でりょうちゃんの無意識から滲み出た私でしかない。本当の私はもう死んでいて、その意識はりょーちゃんじゃ絶対届かない場所にある」


「……」


「私は結局、りょうちゃんが望んだ私でしかない」


 そうだ。

 この楓も結局、僕の想像の産物だ。


「だからね。りょうちゃんが望む私が言うね」


 楓は、寂しそうな顔をして言う。

 僕のよく知っている表情で、彼女は僕の言葉を紡ぐ。


「ふざけんな! 何が僕は幸せだ! こんなクソみたいな夢で人生終わらせんなよ!」


 楓は、叫んだ。

 子供の頃のように、喉は張り裂けそうな勢いで叫び散らす。


「りょうちゃんは、バカで、えっちで、女心もろくに汲み取れないカスだけど! でも! 私の大好きな大好きなりょうちゃんなんだ! 死なないでよ! 私は死んじゃったけど、りょうちゃんは死なないでよ!」


「……僕は、死ななきゃ」


「うるさいバカ! 私がこうして現れている時点で、りょうちゃん本当は生きたいって思ってるんだ! 私の言葉は、りょうちゃんが私に言って欲しい言葉なの!」


「でも、僕がいたら吉澤が…」


「てかそれもバカなの!? エッチして勃たなかった彼氏がその夜自殺した彼女の気持ち考えろよ! 一生引きずるぞ! お前が死んで解決することなんて、この世界に一つだってねえんだよバカ!」


「…っ」


「逃げんなよっ……死んでんじゃないよ。りょうちゃんの馬鹿っ。馬鹿ぁ」


 うわあああああん、と楓は号泣した。そうだ。楓はよく泣く女の子だった。小さい時からずっと…。僕のよく知る楓。僕の大好きな楓。

 僕は楓の手を握る。

 僕の手は、震えている。

 僕も泣いているからだ。


「ごめんっ。ごめん。僕の無意識のせいで、楓にこんなことを言わせて…ごめん」


 僕はただただ謝る。


「僕が、僕を粗末にしてごめん…」


 楓に向かって…僕自身に向かって、死のうとしたことを謝るだけだ。


 そうか。


 今この瞬間。

 楓は僕で、僕は楓だ。


 楓が生きてと言っている以上、それは僕が生きたいと思っている証明なのだ。


「りょうちゃん……っ、よく聞いて」


 僕に僕が望む僕の言葉を、彼女の愛らしい唇と声で囁くのだ。


「私を忘れないで」


 僕は君を忘れたくない。


「私を忘れずに、生きて」


 君が繋いでくれた僕の命を、僕はここで終わらせたくない。


「私を心の底に残したまま、幸せになって」


 こんなどうしようもない僕だけど、楓の分も、幸せになりたい。

 生まれてすぐに出会ってから、楓と生きた十五年間は、僕にとって素晴らしいものだったと思いながら、残りの人生を謳歌したい。


「死なないで」


 そうだ。やっぱり僕は死にたくない。


「私は、りょうちゃんが大好き」


 僕は君が大好きだ。


「愛してる。ずっと」

 

 ずっと。愛してる。



 無意識の海の向こうで、朝日が昇り始めていた。

 僕は氷山の上で立ち上がる。


「行っておいで、りょうちゃん」


 泣き腫れた目元を拭いて、楓は茶化すように言った。


「それで吉澤さんの処女を貰ってあげて」


「……」


 そうだ。

 こう言う僕を困らせるジョークが好きな奴だった。僕は呆気に取られて、乾いた笑いをこぼす。


「ばいばい。りょうちゃん。もう私のえっちな夢、見ないでね」


 僕がよく知っている、僕の大好きな笑顔を楓は見せた。心の奥底から上澄みまで、僕が僕である全てを温めるような笑顔だった。


 何度も撫でた綺麗な脚で、楓は僕を蹴り飛ばす。


 僕は氷山から落っこちる。


 ざばんっ!


 冷たい海の中に、僕は飛び込んだ。


 死にそうなくらい凍えるけど、もう僕は死にたくない。


 懸命に手脚を動かして、朝日の方へ泳いでいく。


 冷たい海をかき分けて、温かな光へと進んでいく。


 死にたくない!

 やっぱり僕は、生き汚いほど生きるのだ!


 僕の無意識の底にいる、僕の愛する楓が、それに気づかせてくれたんだ!


 やがて目が覚める。

 病院の真っ白な天井が見える。両親が号泣して僕に飛びつく。ごめん。ごめん。僕は何度も謝る。僕は死ぬほど後悔する。自殺しようとしたことを。でも死にはしない。

 今は生きたくてしょうがない。

 生きて会いたい人がいるのだから。


 吉澤が僕の見舞いにくる。


 僕は全てを話す。

 どうしようもない僕の下半身に取り憑かれた夢物語も、僕の心の奥底の無意識層に、楓が住み着いてしまっていることも、洗いざらい全部打ち明ける。


 真面目な吉澤はドン引きする。


 吉澤は号泣して、僕に怒ってそのまま病院を後にする。完全にフラれる。物事はそう上手くはいかないってものだ。


 でも僕はめげない。


 僕は吉澤の処女が欲しいのだ。

 吉澤と恋人同士でいたいのだ。

 今はそれがなによりなのだ。


 僕は学校に復帰すると、何度も吉澤を口説く。

 持てるだけの愛の言葉を彼女にぶつける。

 でも吉澤は僕を突き放す。

 僕はさすがにめげそうになる。


 でも、あのとき氷山の上で、僕の背中を蹴り飛ばした楓が、また僕を蹴り飛ばす。


 僕は吉澤に死ぬ思いで復縁を迫る。

 もう僕は眠れなくなるほど彼女に恋焦がれる。


 吉澤は根負けして、僕を受け入れる。

 付き合って、前よりもラブラブになって、高校卒業間際でエッチをする。

 僕はベッドの中、吉澤の綺麗な裸体を抱きながら、その温もりを実感する。

 僕の思い通りにいかない、それでも寄り添ってくれる愛すべき女の子。

 

 もう僕の枕元に、スリープダイヤルはいらない。

 この子がいるから、なんて格好つけてみる。


 

 たかだか氷山の一角らしい。

 僕らが感じている「意識」ってやつはーーー。


 フロイトがそういうんだから、それは間違いないんだろう。


 人間の意識は氷山の一角で、それが海に浮かんでいる。


 そして僕たちの意識が氷山だとすれば、僕たちの心はいつだって、冷たい海の中で凍えている。


「寒い」「寒い」と身を寄せ合って、僕たちは互いを温める。


 それ故に、われら人間は愛しあうのだ。


 とりあえずこれが、今の僕の生きる理由。


 最高に気持ちいい、夢のような僕の現実。




                                     了

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