第7話


「おはよう。宗ちゃん、おはよう」

 揺り動かされて目が覚めた。目の前にパジャマ姿の真里子。一瞬驚いたが、そうだウチに泊まったんだった。

「なんだ、まだ七時じゃん。今日も部活キツいんだし、眠らせて下さいよ……」

 僕は寝返りをうって目を閉じた。部活は九時半からだ。超行きたくない。ウチの高校は公立なので、土曜日は原則お休み。そのせいで、部活動推奨の日みたいになっている。

「宗ちゃん、宗ちゃん」

 揺り動かされる。真里子の場合パワーが一般人と違う。体全体が激しくシェイクされて、僕は思いっきり目が覚めてしまった。

「なんだよ! 俺は部活ギリギリまで寝てないと、体力持たねえんだよ!」

 朝からブチギレ。しかし僕の怒りはスルーされて、真里子の指が僕の口元に伸びてくる。

「宗ちゃん、歯、見せて」

「まさかお前、俺が寝てる間に歯を触りに来たとか無いよな」

 ちょっと怖くなった。

「宗ちゃんが寝たあとに、お姉ちゃんが迎えに来てくれた。それでお姉ちゃんと一緒に寝たよ。だけど目が覚めたら、やっぱり気になって。宗ちゃん、歯」

 真里子が無理やり、僕の口をこじ開けようとする。しょうが無いので口を開けた。歯の折れた部分を触って、真里子が悲しそうな顔をする。そんなに気になるなら、見ないほうがよさそうなものなのに。真里子によると、見たり触ったりしないと、不安が増大していくらしい。

 だからこそ僕は、即効で歯医者の予約を入れたのだった。家族に大好評だったので、少し惜しい。学校の友だちに見せびらかして、笑いを取りたい。しかし前歯を元に戻さないと、真里子の傷は深まるばかりだろう。毎日僕の歯に触ってくるかもしれない。それは避けたい。

 折れた歯は真里子が大事に保管してくれていた。ハンカチに包んで、自分の筆箱に入れておいたそうだ。それもちょっと怖い。僕は歯医者で診察を受けるにあたって、一応折れた歯を持っていくことにした。だけどまあ、差し歯とか入れ歯になるのかな。前歯を金歯にしたら、また笑いが取れそうだけど。やってみたい。真里子は泣くだろうけど。

 

 午後の練習をパスして、歯医者に向かう。土曜日にやっている歯医者が近所にあって良かった。ただ、少しお高い歯医者らしい。歯の矯正とかもやっている所だ。ずいぶん儲かっているようで、待合室がホテルのフロントみたいだった。

「あら、綺麗に折れたわね。他に破片は無いのよね? ほら、根元にピッタリ。良かった良かった」

 何が良かったのか。歯が折れて良かったことなんてあるものか。三十代後半くらいの女の先生である。片耳に複数のピアス。ずいぶんノリが軽い。大丈夫か。歯医者が苦手ということは無いが、診察台に寝かされるとやはり緊張する。

「あの……それで、どういう処置になりますでしょうか」

 僕は緊張して訊いた。

「大丈夫よ。私に任せなさい。だけどあなた、前歯のこの折れ方。カワイイ顔して喧嘩でもないだろうし。すべって転んだのかしら? ドジね〜」

 問診にしてはフランク過ぎる。僕は愛想よく答える。先生の機嫌を損ねて、ぞんざいな処置とかされたら恐ろしい。

「えーと。部活で剣道をやってまして。でも剣道で歯を折ったわけじゃないんですが。部活の友達に投げられて、コンクリートの壁に激突しました。喧嘩じゃないです。ちょっとじゃれ合ってただけで、アクシデントなんです」

 僕は説明した。嘘は付いてない。

「そうか剣道部なんだ。分かりました。でも最後に、ちょっと余計な事を訊いてもいい?」

「はい?」

「女の子が絡んでるでしょう? そのアクシデントに」

 先生が目を輝かせて言った。

「……。何故そう思ったんですか」

「折れた歯が包まれていたハンカチ。花の柄がついてた。女の子の、優しい匂いがした。憎いわね〜」

 先生が切なく微笑んだ。

 チクショー抜かった。さすが医者だ。観察力が素晴らしい。しかし先生。先生が想像している青春の風景は、恐らく間違っています。女子を巡っての、男の戦い。まさかね。怪我をした僕に接する、優しい女子との交流。全然違う。

 現実の青春は、そんな生やさしいものじゃない。僕は先生に歯を削られながら、よっぽど説明してやろうかと思った。無邪気な女子にブン投げられて、歯が折れたんだよ!

 

 通常、虫歯で歯医者に通うと、だいたいその後何回も通わされる事になる。しかもここは高級歯医者。虫歯の治療でもないし、保険とか大丈夫なのかとドキドキしていた。まあ、親の金だけど。

 ところが三千円で済んだ。しかも、一週間後にもう一回チェックに来て、それで終了だと先生に言われた。前歯はバッチリ元通り。折れた歯を、専用の接着剤で根元にくっつけたらしい。極めて綺麗に折れていたから、それが可能であったとのこと。前歯に触ってみて、かなり力を入れてみたけれど軋みもしない。スゲー。歯医者進化してるな。先生の腕前が特別凄いのかもしれない。僕は過去に酷い歯医者に当たったことがあるから、喜びもひとしおだ。

 折れた歯を、取っておいてくれた真里子に感謝する。僕だったら、折れた歯なんてあっさりと捨ててただろう。


 剣道部には朝練もある。幸いなことに自由参加である。朝練は、OB達の交流の場になっている。出勤前の社会人とか、親子三代で剣道部の人とか。みんな毎朝、元気に汗を流している。男子のレギュラー陣は積極的に参加している。体力的に厳しいので、僕はたまにしか行けない。女子に参加者はほとんどいないが、真里子と深山先輩は熱心に通っている。二人は午後の練習でもバリバリやってる。真里子に張り合って、深山先輩はかなり無理をしていると思う。

 

 月曜日の朝、真里子が僕を迎えに来た。今日は珍しく朝練に行かなかったようだ。僕はまだ朝飯を食べている。母親が真里子を居間に引き入れて、デザートを振舞った。

「今日は朝練、行かなかったんだ」

 僕はテレビのニュースを見ながら訊いた。

「だって歯が気になって」

 真里子がうつむいてリンゴを食べている。

「歯って俺の歯? いいかげん忘れていいよ」

「朝目が覚めたら、宗ちゃんの歯の事で頭が一杯です。やめようって思っても難しいの。悪いけど、もう少しだけ付き合って下さい」

 歯の事で頭が一杯って、気持ち悪い。

「ホラ真里子。よく見てご覧なさい。残念ながら、元のイケメンに戻っております」

 僕はにっこり笑ってみせた。

「あ! ホントだ! どうしたの生えてきたの?」

 それはないだろう。驚いた真里子が、問答無用で僕の前歯に触ってくる。接着された前歯を、指でゴシゴシとこすられる。痛い痛い! しかし引っ張られても、僕の前歯はビクともしない。

「特殊な接着剤でくっつけたんだよ。歯医者の先生が凄腕で、金もほとんどかかんなかった。真里子が、破片を取っておいてくれたおかげだよ。有難う」

 真里子はボロボロ涙をこぼしている。

「これでもう、歯に触らなくてもいいよな。俺、前歯があんまり白くないから、つなぎ目が全然分からないんだよ。ほとんど芸術の域だよね」

 わざわざリンゴをかじってみせる。

 真里子が大きくため息を付いてから、テーブルの上に上半身を投げ出した。よっぽど安心したのだろう。それと、どれだけ気に病んでいたんだろうか。

「宗ちゃん、歯を折った事、許してくれる?」

 真里子が顔をあげて言う。目が赤い。

「許すも何も、俺は初めから怒ってないよ。お前が勝手に……じゃないや。真里子が心配し過ぎだっただけ」

「あの、申し訳ないですけど、お願いがあります」

「え。歯に触るのはもうダメだよ? 直ったんだし」

「私はもう立ち直らなければなりません。宗ちゃんに絶対ウザいと思われてるし。だけど、もう少しだけ謝らせてください。私が『許して』と言ったら、宗ちゃんは『許す』って言ってください。何も考えないで」

 どういう儀式だ。僕は笑いそうになったが真里子は本気だ。

「それぐらいなら別にいいけど。いくらでも言ってやるよ。許す許す。どんどん許してあげちゃう」

 ようやく真里子が少し笑った。朝からメンドクセー。しかも、ほぼ完璧に遅刻だ。

「宗ちゃん、ゴメンね」

 真里子が時計を見上げて言った。

「許す許す」

 僕はふてくされて言った。洗い物をしている母の背中が、笑いをこらえて小刻みに震えている。

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