第6話
家に帰って、歯医者に予約の電話を入れた。片方の前歯が折れたところで、生活に支障はなさそうだ。ほとんど痛みもない。だけど見た目が間抜け過ぎる。自分で言うのもなんだけど、僕は基本不細工ではない。五段階評価で言ったら四以上はあると思う。女子に可愛いと言われる事もある。「佐藤は顔だけはいい」と、親しい男友だちに言われて、ちょっと嬉しかったこともある。歯が折れた自分の顔を鏡で見てみたら、かなり面白い顔になっていた。特にこだわりもないので、このまま行ってもいいかと一瞬思った。つまらないイケメンでいるより、楽しい人生が送れるかもしれない。
実際、家族には大好評だった。愛嬌があるらしい。僕には姉と弟がいる。姉は気に入ったようだ。
「あんた、いつもすごいムッツリしてるじゃない。無愛想で生意気で。だけどその顔だと、すごくフレンドリーに見える。いいじゃない、すごくいい」
腹を抱えて大笑いしている。馬鹿にされている感じではない。僕と姉は四歳年が離れている。大学一年で理系の姉。神経質な性格。僕との口喧嘩が絶えない。こんなに笑った姉の顔は久しぶりに見た。
「ちょっとムカつく事言ってみて。いつもみたいに」
姉が僕の歯を見ながら言った。
「つまんない韓国ドラマばっかり録画するのをやめろ。俺が予約してた映画とサッカーも、勝手に消しただろ。ふざけんなよ!」
この際だから僕は言った。いつもならここから、陰惨な戦いが始まる。
「すみません、気をつけます。韓国ドラマばかり録画しません」
姉がそう言って、吹き出して笑った。思わず僕も吹き出してしまった。
「カワイイな。この弟なら愛せるかも」
姉が涙を流して笑っている。なんという歯抜け効果。世界に平和をもたらしている。
弟にカッコいいと言われた。
「殴り合いの喧嘩したの?」
とキラキラした目で訊かれた。弟は小学三年生。末っ子で家族に可愛がられているせいか、素直な性格に育った。基本的に僕を尊敬してくれている。歯を失ったことで、僕は兄として、さらなる尊敬を勝ち取ったようだ。
両親も爆笑。僕は反抗期なので、親との関係も微妙な感じになっていた。それが、この歯のおかげで急に距離が近くなった。
「宗ちゃんが、小さい頃を思い出した。乳歯が抜けそうになって、歯に糸を結んで引っ張ってた。私がひっぱろうとすると、必死で逃げるの。もう、すごく可愛かった」
夢見がちな母親のセリフも、何故か今日はムカつかない。
「宗一。喧嘩するなとは言わないけど、相手をよく見ないとダメだぞ。それと引き際だな。誰かの歯が折れたら、そこで喧嘩は終わりだ」
無口でつまらない父親が、珍しくセンスある言葉を放った。夕食の席で家族は大爆笑である。僕はちょっとジーンとした。歯が一本折れただけで、こうも変わるものか。何かすごい勉強になった気がする。
僕はネタばらしをした。歯が折れたのは、真里子に投げ飛ばされて、コンクリートの壁に激突したからだと。
破裂したような笑い声。家族は僕が、学校で喧嘩したと勝手に思い込んでいた。みんな真里子の事はよく知っている。真里子が僕を投げ飛ばす姿を、頭の中で想像したのだろう。
ウチの家族は、みんな真里子の事が大好きだ。特に姉は、真里子を妹のように思っている。弟も真里子になついている。
玄関のチャイムがなった。午後八時。そろそろ来ると思ってた。母親が玄関に出て行った。玄関の方から素っ頓狂な声が聞こえる。
「そんな! とんでもございません。いえ、こちらこそ申し訳ございません。宗一は抜けている所がありますから、いえ、宗一の責任です。お気になさらないで。宗ちゃん! ちょっと来なさい!」
大きく息を吐いて、僕は玄関に向かう。
まず目に入ったのが真里子の母親。久しぶりに見たけど相変わらずデカイ。たぶん体重が増えた。世界陸上とかで見る、海外女子の砲丸投げ選手を彷彿とさせる。母親の後ろに真里子。真里子はついに母親の身長を越したのか……。横幅はまだまだ母親に及ばない。川崎親子が並ぶと、その迫力に圧倒される。母娘の後ろに、真里子の父親の一部が見える。笑っちゃいけないけど、毎回このサイズの差に笑う。
「宗ちゃん、ごめんなさいね。いつも仲良くしていただいているのに。真里子が取り返しの付かないことを……」
真里子の母親が、デカイ体を窮屈そうに縮めて頭を下げた。玄関が狭い。頭を下げた母親の体に押されて、真里子と父親が玄関の壁にミッチリと押し付けられている。その状態で、真里子も必死に頭を下げる。すると、真里子の父親が、半分開いていた玄関のドアから外に弾き出されてしまった。不謹慎ながら、僕と母親はそこで爆笑した。その声を聞きつけて、ウチの家族がみんな玄関に出てくる。
昔からの付き合いだ。最近は少し疎遠になっていたけど、小さい頃は、お互いの家で誕生会やお泊り会などが開催されていた。
「川崎さん、ご無沙汰しております。どうですか久しぶりに一杯。今日は金曜ですし。奥さんも。ね、いいでしょう」
僕の父親が、真里子の父親を家の中に引き込んだ。母親達も嬉しそうにしている。歯の話はどうでもよくなっている。大人たちはそのまま居間の方へ。
「真里ちゃん、ゲームしようよ!」
弟が嬉しそうに真里子の手を引いて、ゲーム機が置いてある僕と弟の部屋に向かう。何故か姉まで付いて来る。
「宗一、飲み物とお菓子持ってきてよ」
姉に命令された。いいですけど。
ジュースを持って部屋に戻ったら、弟が真里子の膝の上に座って、楽しそうにゲームをやっている。真里子はこわばった顔でコントローラーを握っている。姉は真里子の頭に櫛を入れている。化粧セットまで用意して、真里子で遊ぶつもりのようだ。みんな勝手過ぎる。真里子のこの、絶望的な表情はスルーでいいのかよ。
ゲームをやっていたら、真里子の呼吸が荒くなってきた。ハァハァ言い出した。弟が心配そうに真里子の顔を見つめる。
「優君、ちょっとゴメンね」
そう言って、真里子が弟を膝の上からおろした。弟の名前は優一。佐藤優一。
「お姉ちゃんもごめんなさい。少しだけいいですか?」
姉は真里子の髪を「三つ編みねじり鉢巻」のような髪型に整えていた。東欧の、農村の白人といった感じ。似合っている。
「お化粧するから待って」
姉が真里子の手を離そうとしない。もう真里子、ギリギリな感じなんですけど。まあ、姉は分かってやっているのだ。ほっぺたに粉をパタパタとはたいて、クレヨンみたいなものを使って。最後に口紅を塗って、ようやく姉が「いいよ」と言って真里子を解放した。泣いたらお化粧が崩れてしまう。真里子はじっと涙をこらえている。姉のあざとい作戦。化粧をしながら姉は、何も言わずに真里子の頭を撫でたり、膝をポンポンと叩いたりした。そのおかげで、真里子が少し落ち着いてきたように見える。さすが姉。
「優君……」
そう言って真里子が、弟をもう一度膝の上に乗せて抱きしめた。弟は嬉しそうである。
「真里ちゃんすごくキレイ!」
弟が化粧をした真里子の顔を、じっと見て言った。
「みんな有難う。私がいけない事をしたのに、こんなに優しくしてくれて。宗ちゃん、ホントにゴメンなさい」
真里子が涙をこぼす。お化粧を気にして、頑張って涙を引っ込めようとしている。ここから、いかに立ち直らせるかだ。ウチの人間は真里子の性格をよく分かっている。ゆっくりと少しづつ、優しくだ。
「真里ちゃんも高校生になったんだし、これだけは言わせて」
と姉が言った。この状況で何を言う気だ。
「宗一の歯が欠けて、スッゲー面白い顔なの。見てみて? 宗一の顔」
そう言われた真里子が、僕の顔を凝視して辛そうな顔をする。歯の抜けたマヌケ顔で、僕はにっこりと微笑んでみせる。ここまでやったんだから、後は姉さん頼むぞ。
「あのね真里ちゃん。真里ちゃんは宗一の歯を折って、すごく後悔してる。真里ちゃんのその優しさが、私たち大好きなのよ。強くなって欲しいとか、私は絶対に言いたくない。真里ちゃんは弱くていいの。弱さと優しさはセットだもの。それでね、世の中には強くて、優しくない人が一杯います。酷い世界なの。真里ちゃんが苦しくなってしまったら、遠慮しないでいつでも、私に相談するのよ? 宗一でもいいわ。私達が絶対に助ける。それだけは忘れないでね」
「お姉ちゃん!」
膝の上の弟を弾き飛ばして、真里子が姉にすがり付いた。弟は真里子に投げ飛ばされて涙ぐんでいる。しかし空気を呼んで、必死に涙をこらえている。優一……お前男だな!
大人たちは深夜を過ぎて大宴会。スゲー盛り上がっている。真里子の母親の、馬鹿笑いの声が凄まじい。母ゴリラに娘ゴリラ。なんでこんなに、繊細な娘が育ったのだろう。
僕は弟と風呂に入って、ベッドに潜った。真里子は姉の部屋で一緒に眠るようだ。姉のベッドはそんなに広くない。姉が夜中に、床にはじき飛ばされたりしたら面白いんだけど。
部屋のドアがノックされた。僕はほとんど眠りかけている。ドアを開けたら真里子だった。
「何? 姉さんにイタズラとかされた?」
僕は寝ぼけて訊いた。
「宗ちゃん、歯、見せて」
真里子の顔が真剣だ。僕は口を開ける。
折れた前歯の根元を、真里子が入念に指でチェックする。僕は眠いので頭がグラグラする。気が済むまでお触り下さい。そのまま三分ぐらい触られる。キツくなって来た。
「真里子、顎が痛い。そして俺は眠い」
「あ! ごめんなさい。横になって下さい」
真里子がそう言って、根元チェックは終わるのかと思った。しかし甘かった。寝ている僕の口元に、真里子の手が伸びてくる。もう好きにしてくれ。根元から折れた場合、歯医者ではどういう処置になるんだろう。いくら眠くても、歯を触られながら寝るのは無理だな……。
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