第20話 五人カッサパ
カッサパとカッサパとカッサパとカッサパが論争しているのをカッサパが聞いている。カッパではない。
3対1という状況だ。野外中央に設けられた祭壇では巻き上がらんという勢いで炎が高く雄大に燃え盛っている。3人の方、向かって右側に並ぶ重層な結髪の道士、ウルヴェーラ・カッサパと長身のナディー・カッサパ、そして小柄なガヤー・カッサパは順に火神アグニを賛美するヴェーダの詩歌を唱える。アグニよ、アグニ・ヴァイシュヴァーナラよ、ジェータ・ヴェーダスよ!炎はそれを受けてかはたまた風のせいか揺らめきを増す。だか向かって左側のプーラナ・カッサパはたじろがない。
「一切は皆空である」
カッサパたちは睨み合う。空属性と火属性。どちらが属性特攻がつくのだろうか。続けるのはプーラナの方だ。
「全ては虚構。虚妄である。神も悪魔も地獄も浄土も。業も涅槃も善も悪も霊魂も。それらを見た者はいない。見て帰ってきたものなどいない。全ては無、全ては空である。火もまた然り、水もまた然り。梵天も然り、帝釈も然り。全ては虚ろ、有るでも無いでもない」
プーラナが言い終わらないうちにガヤーは油を祭壇に投げ入れた。もわつ!という勢いとともに火が拡大する。熱気熱波が広がる。
「炎は、ある」
3人のカッサパは笑みを浮かべた。熱くないとでもいうのか。
この両派の論争は実有論と虚無論との論争であり、古ウパニシャッドの時代からその後の仏教においてもまたインドの六派哲学においても、ギリシャを経て近代哲学においても延々と続けられていくものである。古ウパニシャッドにおいては聖仙ウッダーラカ・アールニが実有論者と言われており、その弟子とされるヤージュニャ・ヴァルキアが虚無論者とされていた。仏教においては説一切有部が実有論を唱え、中観派が虚無論に属するとされた。(諸説あり)また、近代哲学においては唯物論が実有論であり、観念論が虚無論に近いといえよう。この両派、四人のカッサパの論議は延々と続いた。それを聞いているもうひとりのカッサパのとなりにひとりの僧が腰をかける。気づけば周りには多くの聴衆が増えていた。
「貴方はどう思われますか」
名を持たないカッサパは隣に座った僧にぼそりと尋ねた。
(男だったらタイマンはれよ…って訳にはいかねーか)
「すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたはその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でも計ることができない」
名もなきカッサパは目をむく。
「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。
忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は〈道の人〉ではない。
罵らず、害わず、戒律に関してはおのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。ーこれがもろもろのブッダの教えである」(参考文献 中村元 訳 ブッダの真理のことば・感興のことば)
ミコトはすんなりとガウタマと同調し、カッサパたちに説いた。ただプーラナのみは背を向けて去り、残る四人のカッサパはガウタマに帰依することとなった。
「自ら仏に帰依したてまつる」
「自ら法に帰依したてまつる」
「自ら僧に帰依したてまつる」
3人はそう唱えた。残るはただ拝礼するのみの名もなきカッサパ。彼がガウタマ入滅の後に後継者として仏教団を率いることとなる。
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