第19話 激昂ラージャン

戦に敗れたマガダの将兵は、震え上がっていた。


王都、ラージャグリハ。ラージャンというのは雷を纏い角を持つ大猿のようなモンスターのことではなく、アーリア人の族長のことを指す。現代インドでもラージャといえば王、マハーラージャといえば大王を意味する言葉だ。そのラージャが住む都なのでラージャグリハという。漢訳では王舎城と呼ばれる質実堅固なガンジス川下流の大都市である。


その宮殿において、強烈な刺激臭を伴う煙が立ち上っている。マガダ王ビンビサーラの作るカレーのにおいだった。


主要なスパイスは辣醤。王特製の混合スパイスだ。ビンビサーラはいくさに負けると決まってこの強烈な辛みを持つ特製調味料を…どう考えても入れすぎだろうという量をぶちこんで作る。あーまた入れた。壺ひっくり返しで鍋にぶちこんでら。家臣たちは顔を青くしていたが、白くなってきた。にもかかわらず、立ち上る赤い煙で赤く見える。もう煙だけで何人かむせこんでいる。


「ち、父上。もう、そのへんで…」


ビンビサーラは振り返ると即有無を言わさぬ勢いで息子のアジャータシャトルを殴り飛ばした。何事もなかったかのように大鍋をかき回し続ける。ひとなめして…うんうんとうなづいている。何がうんうんなのか。あ、むせてるよ。だろうな。


アジャータシャトルはビンビサーラに滅法嫌われていた。コーサラのヴィドゥーダバのように生まれのせいではない。毛嫌いされていた。何やら仙人の予言がどうこうらしいのだが、詳しくはビンビサーラ本人を含めて誰も話してくれない。うんうんとうなづいたんだからその辺にしとけばいいのにまたラージャがラージャグリハで辣醤を足している。うーわうーわ。もう目がしぱしぱしてきた。


しかし、また口を開いて止めようとしても殴られるだけだ。アジャータシャトルは諦めて床に目をやった。そこへコーサラの方へやっていた間諜が戻り報告をする。むせながら。


「父上、コーサラ軍の秘密がわかりました。げほっ、げほっ」


ビンビサーラの大きな鍋回しの手が止まる。いや焦げる。手はすぐ動きだした。振り返らないが、殴ることも今度はなかった。報告を続けろということだろう。


「コーサラはなんと、ヴァイシャやシャードラからも武勇に優れた者を集めて軍としたそうです」


ビンビサーラは鍋に向けていた顔を上げる。そしてお付きのものに鍋回しを渡すと、アジャータシャトルのところへと来て正対した。家臣のうちの何人かがほっとした様子を浮かべる。ビンビサーラに見えないように。


「続けろ」


父王ちょっと涙ぐんでないか?


おくびにも出さずアジャータシャトルは報告を続ける。


「は、何やら先のいくさで負けたのち、カピラバストゥのガウタマなる沙門の僧に説かれ、四姓に構わぬ精強な軍を整えたとのことです。その指揮は、ヴィドゥーダバであると。そしてその編成のため、コーサラはそのガウタマなる者の教えに恭順したそうです」


「なるほどな。奴隷の母を持つヴィドゥーダバならやってのけるか」


シュードラ階級はアーリア人の征服を受けたドラヴィダ人の階級である。これまでの常識では彼らからの反撃を受けないためにも武装を与えるなどもっての他だった。だが、十六大国でも新興のマガダは比較的そのような旧来の慣習には頓着しない方だった。


「よし、我が国もそのガウタマなる者の教えに鞍替えし、新たなる軍を整えよう。その旗印は…」


ビンビサーラはアジャータシャトルと見つめあいつつ、迷う。この王子にいま以上の剣を与えていいものか?


「この私だ」


ビンビサーラは振り返り大鍋の方へと戻ると、辣醤の壺をもうひとつぶちこんだ。家臣たちから悲鳴が上がる。違う、辣醤は悪くない。適量なら旨いんだよ適量ならさ。赤いを通り越してドス黒いじゃねーかよ。王みずからカレーをよそって給仕係に渡し、一人一人に獄激辛カレーが配られる。全員が涙を流しながら食べることになった。


マハーラージャンも泣いている。


彼は、心の底からの甘党だった。

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