第18話 ヴァーラーナシーの戦い(その2)
ヴィドゥーダバは馬から飛び降り、地に伏せ、音を聞く。
ほんの一瞬の静寂。日月の部隊は令されることもなく漠動をピタリと止めていた。寸の間もなくヴィドゥーダバはまた馬へと飛び乗ると、目の前に迫ったカーシー国の城都ヴァーラーナシーから真左の方向へと馬首を向けて走り出した。様々な肌色を持つ日月の部隊も躊躇わずに続く。歓声と怒号が上がり、その方向で林に伏せていたマガダ国の別働隊と正面衝突する。不意を打ちヴァーラーナシーにとりかかったヴィドゥーダバらの側面を叩く手筈だったマガダの部隊は逆に手の内を読まれて浮き足立っているようにも見えた。だがまだ戦いはわからない。
「んぬぉああああああああ!!!!!」
言葉にもならない咆哮を上げヴィドゥーダバは味方を奮い立たせる。斬る。突く。ぶつかる。叫ぶ。暴れる。今は止まるな。そう本能が叫んでいた。
「「ぉあああああ!!!」」「「おう!おう!おう!おう!」」
味方が呼応して叫びを上げる。獣だ。獣となれ。掴め。叫べ。喰らいつくせ!
ヴァーラーナシーから兵が出てくる前にこの伏兵を敗走させねば。言葉にまとめればそうなる。そんな間があれば押し込むことに意識を回せ!ヴィドゥーダバの視界の端にマガダの隊長とおぼしき冠飾りが見えた。次の瞬間にはその横顔に躍りかかっている。
「だらッ!!」
曲刀をねじり込ませる。その隊長は驚きながらも馬をひねり同時に身体もそらし見事にかわした。チッ!間合いを詰める。貴様か!アジャータシャトル!ここで死ね!
伏兵を率いていたマガダの王子、アジャータシャトルも瞬時の判断で矛を捨て、間合いに応じてタルワールと呼ばれる長刀を抜き振った。距離を取らねば!そのまま無闇に振り回す。わずかに生まれた距離に、アジャータシャトルはヴィドゥーダバから目を離さないままに瞬時戦況を見て取った。左翼が崩れている。持たない。鍔迫り合う。勝勢は去った。退くべし。鍔迫り合う。そのまま、叫ぶ他ないか!「退けい!」マガダの特戦隊の汚名!やむなし!ヴィドゥーダバの相手は親衛隊が引き受けてくれた。アジャータシャトルは先ほど投げ捨てたザグナルを拾い振るいながら林へと引いていった。おのれ、おのれ!!
ヴィドゥーダバは迷った。追撃する!ここでアジャータシャトルを討ち取る!と胸の中が叫ぶ。しかし堪えた。堪えて、再び馬首をヴァーラーナシーへと向き直す。見ると城の門は空いており、堀にマガダの部隊が挟み撃ちにすべく隊列を出そうとしている所だった。好機!アジャータシャトルが再び部隊を整えて反転する前に押し込む!!ヴィドゥーダバは戦闘をきってヴァーラーナシーのマガダの部隊に飛びかかった。敵が混乱しているのがよくわかる。好機、好機!ヴィドゥーダバは高らかに歌い始める。
「怯懦、意気沮喪を、敵の間に鳴り響かせ、陣太鼓よ。相互の憎悪、昏迷、恐怖を、われらは敵の間に置く。彼らを打ち倒せ、陣太鼓よ」
できるだけ大きな声を上げ、戦煙を上げる。戦闘正面にいる父王パセーナディーの主力に見えるように。その前にいるマガダの軍が慌てるように。
「山羊・羊が大いに恐れて、狼より逃げ去るごとく、正にかく汝は、陣太鼓よ、敵に向かいて叫べ。恐怖に陥れよ、はたまたその意図を昏迷いせしめよ」
ヴィドゥーダバは功をせいてガウタマのカピラバストゥに部隊を向けたことを悔やんでいた。その負を戦に向ける。晴らす。
「鳥たちが日にけに鷲を恐れて、震えおののくごとく、獅子の雄叫びを[恐れて]ごとく、正にかく汝は、陣太鼓よ、敵に向かいて叫べ。恐怖に陥れよ。はたまたその意図を昏迷せしめよ」
ヴィドゥーダバらは城門を閉じさせることなく突破した。勝った。カーシーはこれで奪回できる。ジェータめ。みたか!あのチビ!
「すべての神々は、敵を陣太鼓により、また羚羊の毛皮[潔斎の用具]により、恐怖に陥らしめたり、合戦[の勝敗]を支配する」
ヴィドゥーダバはヴェーダの呪法を歌い続ける。敵は崩れつつあった。
「インドラが足音もて、影もろともに戯るるとき、それにより隊伍ごとにかしこに進みきたるわれらが敵を、恐怖に陥らしめよ」
正面の門を制圧し、開門する。パセーナディーの主力と向かい合っていたマガダの軍も撤退を始めたようだ。ええい、父王よ、なぜ追い討たぬ。
「弓弦の響、陣太鼓をして[あらゆる]方処に向かいて叫ばしめよ、敵の軍隊が敗北して、隊伍ごとに逃げ行くところの」
そのままヴァーラーナシーの正門で誇らしげにヴィドゥーダバはパセーナディーを待つ。気配は読む。敵の主力も、城の残兵も、アジャータシャトルの伏兵も、こちらの勢いに、否!我が日月の部隊の勢いに呑まれている!
「アーディティア(「太陽神」)よ、[敵の]視力を奪い取れ。マリーチ(「光線」)よ、追いかけよ。足枷をして伴わなしめよ、[彼らの]腕力の抜け去りしとき」
前後の味方がヴィドゥーダバと声を合わせ始めた。パセーナディーの軍が城に近づく。
「汝ら、プリシュニを母とするかの強力なるマルト神群は、インドラを伴侶として、敵を粉砕せよ。王なるソーマ、王なるヴァルナ、マハーデーヴァ([大神]、後にはシヴァ神の呼称)、はたムリティウ([死神])も、インドラも。
パセーナディーが城門へと着く。王と王子は礼を交わし、城内へと入った。歓声が上がる。もはや敵の残兵はいなかった。ガウタマの献策の通り、コーサラは威名を蘇らせた。ヴィドゥーダバは戦勝を得るためのヴェーダを唱えきる。
「神々のこれらの軍隊は、太鼓を旗印とし、心を合わせ、われらの敵を征服せんことを、スヴァーハー」
(参考文献 辻直四郎 訳 アタルヴァ ・ヴェーダ讃歌)
パセーナディーは誇らしげにヴァーラーナシーの玉座に座る。
この時父王は国を挙げてガウタマの宗教に入信することを決め、息子はいずれこの惰弱な父を除くことを決意していたのだった。
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