第12話 仏の顔(一度目)
河を挟み、二つの軍隊が睨みあっている。
「あれは…コーサラの軍とカピラバストゥの軍です」
アッサジが声を上げた。軍馬のいななきがこちらまで聞こえてくるようだ。それぞれ千はいかない数だろうか。ミコトはこともなげに河のこちら側にいるコーサラの軍の方に歩いていく。五比丘とアングリマーラの六人も続く。
ミコトが何も言うことなく、主に褐色の肌を持つコーサラの兵士たちが左右に割れていく。馬上の指揮官はやはりヴィドゥーダバだった。
「ヴィドゥーダバ」
「ガウタマ」
「兵を引いてくれ」
「何故だ」
馬のいななき。
「君は…カピラバストゥを滅ぼすつもりだろう」
いつになく厳しい表情のヴィドゥーダバは答えない。
「何をそんなに焦っている」
ヴィドゥーダバはアングリマーラの族の件を成功させたかにみえた。しかしその頭領をとり逃してしまっている。新しい部隊の結成は認められたのだが、それ故に高い功績とは父王に認められなかった。ヴィドゥーダバはアングリマーラを睨む。しかし口には出さない。王位継承の争いで先行している兄のジェータはヴァッジ族との交易を成功させて評価を上げていた。
「焦ってなど…いない…いないが、今日のところは君の法力に免じて兵を退こう。ガウタマよ」
ガウタマは手を合わせてヴィドゥーダバに詩を唱えた。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩を伴っている。
生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。
たとえば、陶工の作った土の器が終にはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。
若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。
かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もこの子を救わず、親族もその親族を救わない」
ヴィドゥーダバはじっとミコトを見つめる。ミコトはガウタマと一つになる。
「見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。
汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と子の)両極を見極めないで、いたずらに泣き悲しむ。
迷妄にとらわれ自己を害なっている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
みずから自己を害いながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕われてしまったのだ。
見よ。他の(生きている)人々は、また自分のつくった業にしたがって死んでいく。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったまのとなる。壊れて消え去るのは、このとおりである。世のなりゆくさまを見よ」
ヴィドゥーダバはまずカピラバストゥの方角を見て怪訝な顔をしたが、次にコーサラの方角を見て眼を剥き、下馬しガウタマに礼をとった。
「たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。
だから〈尊敬さるべき人〉の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。ー譬えば風が綿を吹き払うように。
己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。
(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する」(参考文献 中村元 訳 ブッダのことば)
河の向こうの兵士たちたちを含めて場の一同が拝礼している。
ヴィドゥーダバは口を開こうとしたが、圧倒されたかのように兵を引いた。ミコトは城への歩みを戻す。カピラバストゥの兵が同行を申し出てきたが断る。澄んだ空気が七人を纏った。
「矢を抜くべし…か。ガウタマと俺では覚悟が、いや、それ以上のものが違う。しかし約束は違えぬぞ」
ヴィドゥーダバはシュラーヴァスティー城へと戻る途中で呟く。この先のことがガウタマ・ブッダには全て見えているのかもしれないと思いながら。
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