第9話 指骨飾りのアングリマーラ
盗賊、アングリマーラはかつて師であったヴァードラの怒りに触れて呪われていた。
「お前はヴェーダの学生たるブラーフマナの一人でありながら、不届きにも我が妻を凌辱した。罰としてお前は百の気息(プラーナ)を得て首飾りを完成させよ。それまで決して健やかなる眠りを得ることは叶わぬであろう」
それは全くの濡れ衣であったのだが、訴えは聞き届けられることはなかった。その日より数百の夜をアングリマーラは無事に越えたことはない。当然に彼の視線は黒く病んでしまっていた。
あと、五つ。
気息(プラーナ)を奪うとは殺すことに他ならない。首飾りとは骨で作る他ない。かつてアヒンサーと呼ばれていた男はじきに徒党を組み盗賊の頭となって村々を荒らし殺して回っていた。それがアングリマーラ(指骨飾り)と呼ばれるまでになり、パセーナディー王の耳に入りいまに至る。
この五人で、最後だ。遂に。
虚な笑みを浮かべる。
カピラバストゥへと向かう道を無警戒に歩いていた修行僧らしい五人を捕らえて護摩(ホーマ)壇の前に並べる。息の根を順に止めたらアグニへの捧げ物としよう。これでようやく呪いが解ける。ヴェーダを学んだアングリマーラは高らかに護摩壇へと向かい歌い始めた。
『常に目覚まし人間の保護者、優れたる意力をもつアグニは生まれいでたり、さらに新たなる安寧のために。グリタ滴る顔をもつ・清浄なる[神]は、天を摩する高き炎もて、バラタ族のために明らけく輝き渡る』
シャン!シャン!シャン!
部下たちが丸い金器をかき鳴らす。
『祭式の旗印、最初の司令官アグニを、人々は三重の座所(祭場の三方に設けられる火炉)に点じたり。インドラ[その他の]神々と車を同じくして[来たり]、彼はバルヒス(敷草)の上に座す、祭祀のため、勝れたる賢慮に富むホートリ祭官として』
炎が高く揺らめく。その光景の端で、ミコトは音を立てぬように祭壇の裏へと回り込んでいた。誰にも気づかれませんように…
『清掃せらるることなくして、[しかも]清浄なる汝は、両親(二片の鑚木)より生まる。ヴィヴァスヴァット(最初の祭祀者)の快き詩人として、汝は立ち上がりたり。人々はグリタをもって汝を増大せしめたり、供物を捧げられたるアグニよ。煙は汝の・天に達する旗印となりぬ』
アングリマーラたちの祭式が昂りを増す。ミコトは後ろから忍び寄って五人の縄を解いていった。盗賊の一人が気付くがミコトにより口を抑えられ茂みにとりこまれる。
『アグニは直路われらの祭祀に近づき来たれ。人々は家ごとにアグニを分配す。アグニは供物を運ぶ使者となれり。アグニを選ぶ人々は、詩的霊感に富む者を選ぶなり』
五人目の縄を解いた瞬間、遂にアングリマーラ自身とミコトとの目が合う。しかしアングリマーラは歌を辞めることなく、部下たちにミコトを指差して知らせた。途端に揉み合いが始まる。アングリマーラはニヤリと悪辣な笑みを浮かべて火神への祭祀を続けた。
『最も甘美なるこの言葉は、汝のためにあれ、アグニよ。この讃歌は汝ためにあれ、心に幸福をもたらすべく。大いなる河川がインダス河を[満たす]ごとく、讃美の歌は力をもって汝を満たし、かつ増大せしむ』
あっという間に六人は再び捕まってしまった。ミコト以外の目付役五人は自分たちを救ってくれようとしたミコトの行動に対して驚くなり申し訳ない表情でいる。
『アグニよ、アンギラスの族(半神の祭官族)は汝を見いだしたり、木ごとにひそみて隠微にかくれたる[汝]を。かかる汝は、摩擦せられて、強大なる力として生まる。人々は汝を力の子と呼ぶ、アンギラス(アグニの呼称)よ』(辻直四郎 リグ・ヴェーダ讃歌 より)
アングリマーラは歌を終えて、ゆっくりとミコトの方へと歩み寄った。
「あと五つで良かったのだがな」
「いや、一つでいい」
「なんだと?」
「オマエ、眠れてないだろう」
「…それも今宵までよ」
アングリマーラか直刀を抜く。
「オマエ、本当に人を殺して燃やして、安らかに眠れると思ってるのか」
「なんだと?」
「オマエの神はそれを求めていない。逆だ。人々を助けて、許すんだ。それでのみ許される」
「…出まかせを」
直刀が振り上げられる。その瞬間、矢の雨があたりに降り注ぎアングリマーラの刀をも飛ばした。
「なんだ!?どうした!??」
「ゴータマ!」
「ヴィドゥーダバ!」
ヴィドゥーダバ率いるヴァイシャの部隊である。矢の雨に続いて騎兵が突入し、乱戦となる。辺りが混乱するなか、ミコトは躊躇わずにアングリマーラの元へとまっすぐに向かった。
「おい」
「おのれ、図ったか」
ミコトは首を横に振る。
「一緒に来いよ、俺んとこへ」
「なんだと!?」
「このままじゃしばり首だぞ。ほら!」
ミコトはアングリマーラの手を引く。引かれている方は何がなんだかわからないのだが、ミコトの方はワルと一緒に警察とかそういうのから逃げるのは得意だった。俺んとこ、と思わず言ってしまったのはスーサイドラビットのことだったが、それがこの世界にないことはうっかり忘れていた。ヴィドゥーダバは視界の端にミコトとアングリマーラを認めたが、少し微笑んだだけだった。
手を引かれていくうちに、何故かアングリマーラはかつて感じたことのない身体の軽さ、高揚感を覚える。
「お前は…いや貴方様は」
「ん?どうした?」
五人の目付役も続いていた。
ミコトにつられるままに高台へと出たアングリマーラは、何かに思い当たったかのように乱戦へと叫ぶ。「静まれ!ものども!」
観念したかのように盗賊たちは武器を投げ捨てて降伏した。
「我々の負けだ。これより我らはこの方たちに降伏する」
アングリマーラはミコトの方を向く。
「俺は、たくさん人を殺した。それでも救われるというのか」
「ああ、当然だ。誰だって救われる」
スッ…と胸の内から黒いものが抜けていくのを感じる。
丘の上のミコトと、乱戦の真ん中にいたヴィドゥーダバとの目があった。
「では、この賊徒は我が部隊に参じよ」
ミコトは破顔した。参上!って?いいねー。
「では、この頭は我と共に償いに生きよ」
生きて、良いのか。
アングリマーラを覆っていた呪いが晴れていく。ミコトは柔らかい笑顔でうなづいた。アングリマーラの顔から涙が溢れる。横で目付役たちも膝をついてミコトに首を垂れていた。
初めて得られた弟子たちだった。
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