金星とリリー・オブ・ザ・バレー

干支我亜蘭報

第1話

「発表まであと15分です」


係の人が緊張した声でそう告げた時、後ろのドアがばたんと開く音がした。ばたばたと踝まで伸びたロングジャケットをはためかせ、騒々しく入ってきた楠木を、鈴村は横目で見た。


「念願の文学賞の受賞式に遅れてくるなんて、さすがね」


楠木は少し上がった呼吸を整えるように首元のネクタイを緩めると、声の主を見てにやりと笑った。


「そっちこそ、相変わらずじゃないか。そのセットアップスーツ、エルメスか?」


「バーバリーよ」


鈴村は呆れたように言った。


「10年経っても、ブランド服の見分けすらつかないのね」


「まだ28だ。僕なんか古着で充分だよ」


楠木はジャケットのボタンを留めながら言った。古着屋で適当に選んだであろう服でも、長身で整った顔をした彼は悔しいほど自然に着こなしていた。無造作になびかせたくせっ毛は、きっと櫛すら通していないだろう。鈴村は自分の新品のスーツを落ち着きなく撫でつけた。


「こんなところで再会するなんて、皮肉ね」


楠木は、思い出すように空を見つめて聞いた。


「最後に別れたのは、どこだっけ?パリの……」


「モンマルトル。喧嘩別れだった」


鈴村が後を引き継いで言った。二人は、同時にその時のことを思い出して笑った。観光客の多いパリの絶景スポットとはいえ、階段を駆け下りながらお互いに罵り合う東洋人のカップルは相当目立ったはずだった。二人が180を超えるモデル体型だったら、なおさらのこと。


「彼女、元気なの?」


しばらくして、鈴村が聞いた。


「インディーズ映画では有名な監督の主演に選ばれたって聞いたけど。あなたも一緒にカナダに行くの?」


「……ああ」


楠木は上の空だった。鈴村には、それが肯定の「ああ」なのか、相槌の「ああ」なのか判断しかねたが、自分には関係のないことだと思い直した。


楠木は、舞台裏から覗く報道陣を眺めた。そして会場にかかる豪華なシャンデリアを見て、舞台に広げられた大きな金屏風を見た。


「緊張してるの?」


鈴村が目を瞬かせて聞いた。黄色い光に照らされた楠木の横顔が、血の気が失せているように見えたからだ。


「いや、そうじゃない」


楠木は鈴村を振り返った。


「君は?」


「もちろん緊張してるわよ」


鈴村は髪を撫でつけながら言った。


「全国放送よ?田舎のばあちゃんも見てるんだから、きちんとしないと」


そう言ってポケットから手鏡を取り出して覗きこみ始めた鈴村を、楠木は面白そうな目で見た。


「そこは暗いだろう、こっちに来いよ」


鈴村は、楠木に腕を引かれて舞台の袖ぎりぎりのところに立った。手鏡に鮮やかな光が反射して、鈴村の後ろに立つ楠木を映し出した。


鈴村はさっきの一瞬の腕の感触と、背後に寄り添うように立つ存在を忘れようとして熱心に鏡を見るフリをした。首筋に、楠木の冷たい吐息がかかりそうなほど近かった。


「ちょっと、離れてくれるかしら、髪が梳かしずらいのよ」


鈴村は必要以上に丁寧に言った。


「あっ、ごめん」


楠木はすぐ離れた。二人の間を、暖房の空気が通り抜けた。


「結構、選ぶのって時間がかかるのね」


鈴村は沈黙を埋めるように言った。楠木は困ったように眉を寄せ、一瞬躊躇ってから、口を開いた。


「君、読んだ?僕の本」


鈴村は楠木の緊張したように強張った顔を、不思議そうに見た。


「読んでないわよ。というか、今日さっきまであなたがノミネートされてることさえ知らなかったわ」


鈴村がそう言うと、楠木は肩の力が抜けたような、がっかりしたような、なんとも言い難い表情を浮かべた。


「そう言うあなたこそ、私の本は読んでくれたのかしら?」


鈴村が悪戯っぽく聞くと、楠木はバツが悪そうに自分の髪の毛をくしゃくしゃにした。


「実は、読んでない。僕も君がここに来るとは知らなかったんだ」


二人は、暗がりの中でぎこちなく笑い合った。


鈴村は、かつての二人の思い出を何か話そうとして、口を開いて、やっぱりやめた。もう終わったことをいつまでも懐かしむのは楠木にとっても良くないし、未来に向かうこの場所には相応しくないと感じたからだ。二人は向かい合ったまま、何も話さなかった。鈴村は喉が渇くのを感じた。沈黙が逆に、二人の関係を掘り返すような、霧雨のような雰囲気を醸し出していた。


「すみません、鈴村さん、ですよね……?」


おずおずと話しかけてきた女性のおかげで、危うい空気は断ち切られた。鈴村は救いを求めるような気持ちで、女性の方を振り向いた。


「ええ、そうです」


女性は、申し訳なさそうに楠木に会釈すると、鈴村を熱っぽい目で見つめた。


「こんな時にごめんなさい、大ファンなんです」


小脇に台本のような物を挟み、フェミニンな格好をしている女性を、どこかで見たことがあるような気がした。鈴村はにっこりと魅力的に微笑むと、女性に手を差し出した。


「もしかして、アナウンサーの輿さんですよね?大ファンだなんて、光栄だなぁ。僕こそ、毎朝テレビ番組観てますよ」


女性は憧れの人に優しい言葉をかけてもらい、感動して泣き出さんばかりだった。鈴村は女性の手を離したところで肩をグイッと引き寄せられるのを感じた。横目で見ると、不機嫌そうな目でそっぽを向く楠木が、鈴村の側にそびえ立っていた。


女性は隣に割り込んできた楠木を訝しげにチラリと見たが、すぐに抑えきれない好奇心で鈴村に話しかけた。


「あの、ひとつだけ。今回の作品は最愛の人に捧げたものって噂、本当何ですか?ファンの間ではすごい話題になってるんです。主人公が、その人なんですよね?」


女性はきらきらと目を輝かせて鈴村を見た。楠木が一瞬不快そうに鈴村の肩を強く掴んだのを、鈴村は無視した。


「ええ、本当ですよ。主人公には、僕の初恋の人を投影しました」


鈴村はにっこりと笑って言った。女性はますます感激した様子で鈴村にお礼を言うと、最後に応援の言葉を口にして去っていった。


「本番、5分前です!」


裏方の人が耳につけたヘッドセットに向かって、声高に言うのが聞こえた。


鈴村は、挑発するように楠木を見た。


楠木も硬い表情のまま鈴村を見た。


「初恋の人で、最愛の人?」


楠木は馬鹿にするように言葉を発した。


「君はそんな奴のために、キャリア最高傑作とも謳われる、渾身の長編を書いたのか」


「なんだ、私の新作についてよく知ってるじゃないの」


鈴村はわざと驚いたように目を見開いた。


「そういう情報だけは、嫌でも耳に入ってくる」


楠木は憎々しげに吐き捨てた。鈴村の脳内を「嫌でも」という単語が反響して、自分でも驚いたことに泣きそうになるのを感じた。


楠木は鈴村の目が一瞬潤んだのを見て、狼狽えた。


思わず腕に伸ばした楠木の手を、鈴村は避けた。


楠木の拳が空を力なく落ちた。


「ここまで来て、君を傷つけたかったわけじゃない」


楠木は呟いた。鈴村は、人生の晴れ舞台で最低最悪の気分だった。


「あんたは、いつも大事なことを見落とすのね」


鈴村が諦めたように言った。


「10年かけて、それでも伝わらないんだったら、もういいわ」


楠木はそれを聞いて、顔を上げた。


「それって、どういう……?」


「皆様、お時間です」


舞台裏に並ぶ作家を、担当局の者が呼びに来た。


先頭を切って舞台に上がろうとする楠木の袖を、鈴村は最後にそっと引いた。


そして、聞こえるか分からないくらいの小さな声で囁いた。


「私の本の主人公は、あんたよ」




「それでは、受賞作品の発表です」


金屏風の前に並ぶ二人を、カメラのフラッシュが明るく照らした。


「植木賞は、鈴村蘭丸さんの『金星』です」


おおっ、というどよめきが会場に響き渡った。


鈴村は誇らしげな顔で楠木を見た。『どうよ、これが私の渾身のラブレターよ』鈴村は心の中で勝ち誇ったように言った。楠木が今誰と恋してようが、鈴村のことをどう思っていようが、もはやどうでもよかった。初恋で、最愛の人に一生忘れないであろう傷跡を残せたのが、嬉しかった。鈴村は目を伏せた。


隣で、楠木が微笑んだのには気が付かなかった。


「続いての発表です」


拍手に満ちていた会場が、しんと静まり返った。


「江戸川賞は、楠木直己さんの『リリー・オブ・ザ・バレー(鈴蘭)』です」


会場がわっと湧き立った。この場にいたどれだけの人が気がついただろうか。この二人の作家が互いに最高傑作でバラッドを歌いあっていたことに。


鈴村は呆然とした顔で、楠木を見た。


楠木は鈴村の好きな悪戯っぽい顔で、にやりと笑った。













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