ビー玉
ドタバタと子供の足音が響き渡り、甲高い笑い声が壁を貫通して耳に刺さる。ここの所毎日そうだ。
苛立ちは遂に頂点を越えて、彼は目の前の原稿用紙にくしゃりと皺を作った。そのままの気持ちで勢いよく立ち上がり、狭い部屋を出て隣の部屋の扉を乱暴に叩いた。
「……なんすか?」
顔を出した如何にも柄の悪そうな男の眉間の皺を見て、彼は今日こそ言おうと用意してきた言葉を飲み込んでしまった。
「その……も、もう少し……静かにして欲しいなっ……て……」
想定していた言葉よりかなり柔らかいもので抗議してみたが、不機嫌そうに一つ舌打ちを返されただけだった。
バタンと無情に閉まったドアの前で苛立ちをコンクリートの床にぶつけて、同時に小指を柵の端に打ち付け痛みで声にならない悲鳴を上げる羽目になった。
「そう落ち込むなよ渡部~」
酒が入って力の加減を忘れたのか、江藤はバシバシと容赦無い力で彼の肩を叩く。
渡部龍郎はしがない小説家だった。
若かりし頃に書いた小説が新人賞を受賞して以来、ずるずるとこの仕事を続けて来たのだが、今は大したヒットも飛ばせない作家の一人と成り下がっていた。
共に酒を飲んでいるかつて同じ学舎で学んだ江藤と服部は、それぞれ大手企業の役職付きや不動産会社の経営で成功している。三十代も後半に差し掛かって、自らの人生と彼等の格差に内心絶望しながら、今日も住まいに持った不満を順風満帆な二人にぶちまけて嘆いていた。
「本当……なんでいつも言えないかな……」
「相手おっかないんだろ? なら仕方ないって」
「最近は何するかわからん奴が多いからな、下手に刺激すると後が怖いぞ」
服部は江藤の様に肩を叩きはしなかったが、慰めの酒を注いでくれた。それを一気に煽って、渡部は机に額を押し付けた。
「そんなに不満ならいっそ引っ越してみたらどうだ? お前にならいい物件紹介するよ」
「金が無いんだよ……」
「……んあ、そうだ! 渡部お前さぁ、ここらから少し離れても支障無いか?」
急に何か思い出したのか、江藤は少し呂律が回らなくなってきた口と、身振り手振りを大きくして懸命に説明を始めた。
「俺の親戚がぁ、管理に困ってる家持ってんだよぉ……俺も時々掃除に行くんだけど面倒で面倒で! あ、でも比較的最近に改装したからガスも電気もあるんだぞ? 水もちゃんと出る!」
「話がとっちらかってるんだが……つまり渡部にその家貸してもいいって事か?」
ずり落ちかけている江藤の眼鏡を直してやりながら、服部は酔っぱらいの説明をまとめてくれようと努力してくれた。
江藤の話を大体まとめると、二十三区外になるのだが、親戚が空き家を所有していてその管理に困っているので、誰かに住んでもらった方が有難いから家主を募集中なのだという話だった。
「家賃とかもさ、管理してくれれば要らないから……住まない?」
隣人の騒音に悩んでいる渡部にとっては願ったり叶ったりな話だ。小説以外にも仕事は時々しているが、それも日雇い派遣に近い縛られないものだった。しかも少し場所が離れると言っても電車やバスが一本もないような場所でもなさそうだ。
かなり酔っている江藤がその話を覚えているか不安だったが、その日は解散して後日連絡を取ってみると快諾してくれた。むしろ助かったよと礼まで言われて、決心が決まる。
そして二週間後、晴れて渡部はこの狭く苛立ちしか溜まらない部屋から抜け出す事が出来たのだった。
【サンプルここまで】
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