いちばんの親友

北瀬多気

いちばんの親友

 足が思うように進まなくてイライラした。重たい紙袋が歩くたびガサガサとやかましい音をたてる。道行く人は私の顔を見ると、引きつった表情や可哀想なものを見るような目をした。

 走って帰りたいけど、パーティドレスはレンタルだから無茶をするわけにもいかない。上品に見えるようにと丈が長いものを選んだ自分を呪いたくなる。おまけにこの、無駄に高いヒール。これがいけない。一歩進むごとにかかととつま先に鈍い衝撃が走った。この痛みのせいで、周りの何もかもが自分の敵に思えてくる。通販サイトのレビューは足が痛くなりにくいと絶賛していたが、披露宴が始まる頃にはすでに違和感があった。家に帰ったら最低評価をつけたあと即処分してやる。

 こんなことなら、駅を出たときタクシーを拾えばよかった……と後悔したところで、目の前のスクランブル交差点が赤信号になった。


『……で叶える、理想のウェディング。人生で最高の思い出をあなたに……』


 向かいのビルのモニターに、ブライダル関連の広告が映る。幸せそうに寄り添う新郎新婦のモデル。今日見たあの子も、あんなふうに幸せいっぱいの笑顔を浮かべていた。


「恭子ちゃんは中学のころからの付き合いで、私のいちばんの親友でした」


 盛大な拍手と眩しいフラッシュ。それらすべてに笑顔で応えながら、彼女は私の名前を嬉しそうに呼んだ。新婦が私に視線を送ると、招待客の目が一斉にこちらを向く。私が微笑み返してやったら、あの子は心底ほっとしたように瞳を潤ませた。

 学生時代の思い出を語ったあと、自然な流れで両親への感謝に続く。後半はほとんど聞いていなかった。窓口業務で身につけた笑顔をはりつけながら、腹の中で暴れ回る怒りを抑えるのに必死で、お約束通りの感謝の手紙なんかどうでもよかった。出された料理も味がしない、最悪の気分。それでも、同席の友人たちがデザートを食べているのに、自分だけ一つ前の牛フィレ肉を残したままなのは嫌だったから、仕方なく口に運んだ。


 信号が青になる。

 慣れないヒールが固い音を鳴らして進む。街はオレンジと紫が混じった空に覆われていた。昼でも夜でもない、はっきりしない変な色。なんだか気味が悪い。

 横断歩道の途中、これから飲みに行くらしいサラリーマン数人とすれ違う。彼らのひとりが、私のドレス姿を見て意味ありげな視線をよこした。私のほうは何も気付いていないふりをして渡りきる。自分からわざわざ口にしないけど、私の顔立ちはそれなりに整っているほうだ。男たちの目が自然と誘われるくらい、胸もある。小さい頃は、恭子ちゃんは将来モデルさんになるかしらね、と近所のおばさんによく言われた。でも今の私は銀行で受付をやっている一般人だし、そもそもモデルの仕事に興味はなかった。

 私がなりたかったのは不特定多数の視線を集めるモデルなんかじゃなくて、世界でただ一人に、骨まで焼き尽くされるほどの熱量をもった視線を浴びる、唯一無二の存在だった。


「別れてほしいの」


 切り出されたのは、高校を卒業する少し前だった。別々の大学にいくから寂しくなるね、なんて話していたばかりだったのに。カップをソーサーに置いたら、ガシャン、と予想外に派手な音がした。近くのテーブルで食事中の客に軽く睨まれる。別れてほしいの。駄目押しのように繰り返された。

 あの子は窓の外を走る車を見ながら、ほかに好きな人ができたと言った。その人に昨日告白されたばかりだとも。

 優しくて、一緒にいると楽しくて、すごく頼りになる人なの……あ、男の人だよ、と小さく付け加える。

 なんで、とか、結局男がよかったのね、とかいう言葉は全部のみ込んだ。代わりに、なんの感情ものらない「そう。わかった」だけが出てきた。もっと食い下がってくることを予想していたのか、あの子はそれを聞いて初めて表情を柔らかくした。私がほんの僅かの未練もなく別れ話を受け入れたと思い込んでいる笑顔。

 つまりはそれが彼女の本音だったのだ。本気だったのは私だけ。おとなしくて、男の子と話すだけで顔が真っ赤になる、何かあるたび私を頼ってきた可愛いあの子はどこにもいなかった。いつも縋るように腕に巻きついてきたくせに。些細な言い合いの直後ですら、私がいないと一日だって生きていけないような顔で、涙を流して。恭子ちゃんが私の特別だよ、いちばん大好きだよ……あのときの熱を帯びた瞳は、本当に目の前の彼女のものだったんだろうか。何もかもわからなくなった。私が狂いそうなほど強く求めたあの目は、ただの妄想だったのか。

 あの子にとっては私との関係なんか、オトモダチの延長でしかなかったのだ。

 苦い失望が毒となって体を巡る。私の気も知らないで浮かれる彼女に、思ってもいない祝福の言葉を吐いた。


「おめでとう。卒業しても、お互い頑張ろうね」


 アパートに帰ってすぐ、忌々しいパンプスを脱ぎ捨てた。案の定靴擦れしていたようで、踵がストッキングの上からでもわかるほど赤くなっていた。いちばん出っ張った部分は伝線してしまっている。靴もストッキングも、もう捨てないと。

 電気をつけて、誰もいない部屋の真ん中に紙袋を置いた。やっと下ろせたという安堵からか、たちまち肩が痛みを訴えた。肩も、足も、全部痛かった。その場にへたり込むと、カーテンの隙間から差し込んでいたオレンジの光があっというまに消えて、とても静かな夜になる。

 あの子はなぜ招待状をよこしたのだろう。彼女のなかでは、とっくにただの友人に戻っていたから? じゃあ、私はなぜ出席しますと答えたのか。式の何日も前から、美容室やエステの予約をして、あれでもないこれでもないとドレスをいくつも試着しては、鏡の前でポーズをとってみせて。高い金を払って必死に着飾った。なんのために? 幸せな花嫁になるあの子に、私と同じ欲望を期待していたとでも?

 全部壊していれば楽になれたのだろうかと、背後から暗い感情がささやいた。私が新婦の元恋人であることも、二人でどんなことをしていたのかも、あの幸福に満ちた祝いの場で全部ぶちまけていたら……。

 目の奥に痛みが走った。部屋の中はひんやりしているのに、真夏の炎天下にいるみたいに頭がくらくらする。


「恭子ちゃんは、私のいちばんの親友でした」


 小柄で華奢な見た目通りの可愛らしい声が、マイクを通して私の名を会場に響かせた。鍵のかかった宝物入れから、大事な中身をそっと取り出してみせるように。それがあの子にとってどんな意味を持つのか、私はそれをどう受けとめればいいのか、今は何も考えられなかった。

 意味もなく周囲を見回すと、視界の隅に紙袋が見えた。重たくて、途中で何度も置いて帰ろうかと思った紙袋。私は四つん這いになって、のろのろと紙袋へ手を伸ばした。大きい箱が二つと、小さい箱が一つ入っていて、甘いお菓子のにおいがする。帰り際に手渡されたマカロンのにおいだ。淡いブルーのリボンでラッピングされた小箱の中に、カラフルな一口サイズのマカロンが並んでいる。

 箱はあと二つ。一つは引き菓子の定番バウムクーヘン。甘いものは得意じゃないのに、結婚ってどうしてこんなに甘ったるいものばかり寄越すのだろう。腹の中に閉じ込めたままの怒りが再び暴れそうになる。

 まとめてゴミ箱に捨てようかと考えて、やめた。マカロンも、入れ物も、包装紙も、みんなあの子の気配をまとっていたから。新郎は穏やかで優しそうな人物に見えたけど、少女らしいデザインを好むタイプには見えなかった。こういうのは全部あの子の趣味だ。捨てられたくせに、私のほうは捨てられない。惨めな気持ちで最後の箱を開けた。

 中身は透明なペアグラスだった。箱正面のロゴは誰でも知っているようなハイブランドのもの。やたら重いと感じたのはこれのせいか。ブランド名を見た途端、私の手はぐっと緊張感を増してグラスに触れた。

 グラスの側面で、二匹の小さな蝶が戯れている。蝶というモチーフが花嫁の顔をしつこいくらい思いださせた。私の知らない男の横で、自分が世界でいちばん幸せだと言わんばかりの笑顔をみせるあの子。無邪気に遊ぶ二匹の蝶と新郎新婦のシルエットが重なる。悔しいけどお似合いだった。二人で寄り添っている姿こそが、彼らの人生における最適解だと思えた。最初から私の入る余地なんて……。


 ……もう、考えるのはよそう。

 私は一度目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。これ以上あの子に何かを期待するのはやめよう。私が彼女を憎もうと、私も彼女も救われない。何より、彼女の幸福を壊したくなかった。私のほうは本気で愛していたから。

 世界中のどんな宝物より欲しかったあの子の愛は、奪ったところで私の手におさまってはくれない。そうやって納得して、もう、本当に諦めよう。

 グラスを箱に戻そうとして、おやっ、と瞬きした。底のほうにも模様がある。

 それは写真のようにくっきりとした美しい花だった。でもその花を見て、私は吹き出しそうになった。暴れるタイミングをうかがっていた怒りがあっさりしぼんでいく。

 底に咲いていたのはアネモネという花だ。可愛らしい花だけど、結婚という二文字にふさわしいかどうかは微妙な花だろう。花言葉に、あまり明るくない意味のものが多いから。少女趣味なあの子が、花言葉なんていかにも女の子が好きそうな知識を身につけていないはずがないだろうに。どうしてこの花を? しかも、ペアグラスのうち片方は、底がほんのりと赤いのだ。


「私だって、いちばんだったのよ……。いちばん、愛していた、の……」


 私は底が赤いほうのグラスを持ち上げ、そっと口づけた。いちばんの親友。そう言って笑ったあの子が、私だけに宛てたメッセージ。最後くらい、そんなふうに都合よく受け取っても許される気がした。

 今夜は赤いアネモネのグラスを使おう。何を注ぐか考えるだけで笑みがこぼれた。どんな飲み物でも、一口目はきっと、永遠に手に入らないものの味がするだろう。

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いちばんの親友 北瀬多気 @kuma3bear

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