トライアングル弁当

「見て! このエビすごい大きい!!」

 楓が大きなエビにかぶりつく。

 大きな身を小さな口で頑張って頬張る。

 特定の人から見たら需要がありそうな絵面になってしまっている。

 入学祝いのランチは大きなエビの乗った海鮮丼が食べられるお店に来ていた。

「そうだな、大きいな」

 俺は楓のリアクションに適当に返事を返し、味噌汁をはしでぐるぐるとかき混ぜている。

「日真、何かあった?」

「どうしてだ?」

「十分ちょっとは味噌汁をかき混ぜてるんだけど」

 そう言われて初めて、ずっと味噌汁を混ぜていたことに気がついた。

「そろそろ混ざったかな」

「いや、混ぜすぎでしょ」

 自分でもかなり混乱しているのは理解している。

 まさか、入学初日にあんなことになるなんて。


「好きです! 私と付き合ってください!!」

 自分がそんなことを言われる日が来るとは夢にも思わなかった。

 自分で言った経験はあるが、言われるなんて・・・

 嬉しいか嬉しくないかでいったらもちろん嬉しい。

 だけど、俺は彼女のことを全然知らない。

「えーっと、雪瀬さん?」

「はい!」

「それは冗談とかではなくて、本気でいってます?」

「当たり前です!!」

 彼女の真剣な眼差しは真っ直ぐにこちらを見つめている。

 さて、どうしたものか。

 もちろん好意はめちゃくちゃ嬉しいが、俺は彼女の名前がぐらいしか知らない。というか、名前も数時間前に知ったレベルだ。そんな彼女がどうして俺に告白なんて。知らないことを考えたところで答えは出るはずもなく・・・

「あの、雪瀬さん。 俺たちまだお互いをよく知らないというか、なんというか・・・・・・」

 我ながらなんと情けないことを言ったのかと後で死ぬほど後悔した。

 もっと男らしくスパッと言えたらどんなにいいか。

 おそらく彼女の中では、人生でもトップに入るぐらい勇気を出した行動だったと思う。真剣な眼差しからそれは伝わってきた。

「私じゃダメですか?」

 俺を下から見上げ、首を傾げながら上目遣いで聞いてくる。

 ちょ!! それは反則だ、99%の男子はそれにときめいてしまうだろう。

 俺も例外ではなく、心臓の鼓動が一気に加速していくのを感じた。

「その、ダメとかじゃなくて・・・もう少し互いを知ってからとかでダメかな? 友達とかから・・・」

 男らしさのかけらもない答えはのちに、俺の心の傷というかトラウマというか黒歴史的なものになってしまうのだが、この時の俺はこの返答が限界だった。

「わかった、じゃあ夏休み前までには答えを聞かせてほしい」


 これが、校舎裏であったとても短くとても濃い出来事である。


「おーい、日真ー。聞いてるー?」

 楓がぼーっとしている俺の顔の前で手を振っている。

「おお、なんだ楓?」

「どうしちゃったの? さっきからおかしいよ」

「そうか?」

「ほら、そのワサビの量」

 楓が俺の手元に目線を落としたので、つられて見ると俺の海鮮丼の上にはまさに山盛りとなっているワサビが乗っていた。

「うぉ! 誰だよこんなにワサビ乗せた奴!!」

「自分でやったんでしょ!」

「まじ?」

「まじまじ」

 どうやら、ワサビを少し乗せようと思ったタイミングで、先ほどの思考に入っていったらしく、その間ひたすらワサビを盛っていたらしい。

「そんなにワサビ好きだっけ?」

「さすがにここまでは好きじゃない」

「やっぱり、なんかあったんでしょ」

「いや、別に何もないよ」

 楓の言い方もあって、浮気した男が彼女に浮気を問い詰められてる気分になってきたぞ。別に浮気もしてないし、彼女でもないのだが。

「そう。ならいいけど、何かあったら相談ぐらいしてね」

「おう、ありがとな」

 なんて良いかのじ・・・じゃなくて、友人なんだ!

 ひとまず俺は落ち着くために温かいお茶をすすった。

「そうだ、雪瀬さんの手伝いはどうだったの?」

「ぶっふぇ?!」

 心を読まれたのかと思い、思わずお茶が気管に入ってしまった。

「ちょっと、大丈夫?」

 俺は咳き込みながらも、手で大丈夫と合図を送った。

「どうだったって?」

「何したのかなって思っただけ」

「なんか物運んだだけだった」

 告白されたとは、言いにくいので適当にごまかす。

「ふーん」

「なんだよ」

「なんでも」

 楓は残っていた自分の海鮮丼を食べ始めた。

 何かいいたそうな雰囲気だが突っ込んでも答えてくれなさそうなので、突っ込まないでおく。

 俺もワサビが乗りまくっているが気合で食べ始める。

 正直、味としては美味しさが感じられないほどのワサビだっが、ワサビのツンとくる刺激がまとまらない思考を少しだけクリアにしてくれた気がした。

 その日の夜は悶々としながら過ごした。

 ずっと頭の中には雪瀬のことが浮かんでいた。

 彼女のことはよく知らないし、結論を出すのも数ヶ月後でいいと言われた。

 だけど、あんな美少女が俺のことを好きになってくれてる。と考えているだけで彼女のことが好きになってしまいそうだ。

 二択のようで答えのない問いはひたすら俺の頭の中を駆け巡っていた。

 


 次の日の朝、俺は寝不足だった。

 昨日のことを考えていたら気づいたら朝になっていた。ほぼ徹夜状態である。

「おはよ」

「おはよ・・・って、すごい眠そうだけど大丈夫?」

 キッチンで料理をしている楓は心配そうに俺を見てきた。

「少し、寝不足で、ほぁぁ」

 大きなあくびをしながら、朝食が準備されているテーブルへ座った。

「あれ、いつもとおかずが違うような」

 ここ毎日出ていた目玉焼きとウインナーのおかずではなく、煮物と焼き魚のおかずだ。そして、毎日パンとスープを食べていたが、今日は白米と味噌汁だ。

 これぞ、ザ・和食と言った献立になっている。

「今日からお弁当を作ったから、そのあまりが朝ごはんね。 そして珍しく和食にしてみました!」

 両手をピンと伸ばし朝食を見せびらかすようにする。

 楓にしてはテンションが高い献立の紹介についドキッとしてしまう。

 あざといというか、本人は自然体なのだろうけど。

「うまそうだな、いただきます」

 湯気がのぼる熱々の味噌汁をゆっくりと体に流し込んでいく。

「くぅぅぅぅっっっ!! 染みるぅぅぅ」

 まだ朝は寒く、冷えた体にじんわりと染み渡っていく味噌汁は最高だ。

 楓の手作りということもあり、それだけで涙が出そう。

「いただきます」

 準備が一区切りしたらしく、楓も朝食を食べ始めた。

 焼き魚を器用にほぐし、小さな口に運んでいく。

 その動作は、楓の整った顔立ちも合わさり芸術作品のように見えてしまう。

「前から思ってたんだけど、楓って食べ方とか綺麗だよな」

「そんなこと言われると緊張して食べにくくなるじゃん」

「ふふ、ごめん」

 それにしても、楓の作るご飯はうまい。

 実家で母さんが作るご飯ももちろん美味しいのだが、楓の作るご飯は特別美味しく感じてしまう。

 さすが、米農家の子供!! 俺もだけど。

「こんなにうまいと、弁当も楽しみだな」

「入っているのは似たようなものだけどね」

 高校生にもなって、昼ごはんの弁当を楽しみに学校に行くとは思わなかった。

 一つ高校生活の楽しみが増えた。


 そして、その日の昼休みにそれは起こった。




「あのぉ雪瀬さん?」

「どうしたの? 井晴くん」

「どうしてここに?」

「ここにいてはダメ?」

「そういうことじゃ・・・」

 高校生の昼休み。

 それは、各々が好きな友人と固まり昼食をとったりおしゃべりをしたりする。

 俺は楓以外に知り合いはいないので楓と二人で昼食を取るため、楓の近くの席を借りて机をくっつけ昼食の準備をしていた。

 するとそこへ、一人の美少女がやってきた。

「私も、一緒してもいい?」

 入学初日から、高嶺の花として窓際の一番後ろに君臨していた雪瀬 椿が乱入してきた。

 いやです、と突っぱねるわけにもいかず了承したのは良いが、非常に気まずい時間が流れる。

 昨日の件もあり俺はどう接して良いかわからないでいた。

「私は二人と仲良くなりたいのよ、昨日のの件もあってね」

 うぐっ!

 楓に気づかれないように手伝いの件と行っているが、もちろん告白のことだろう。そして、俺に自分自身を知ってもらい告白を了承へと近づけるために近づいてきたはず。

 その行動が嫌なわけではないが、あまりに大胆すぎるというか、肝が座っている。

 クラスの美少女二人(何度でもいうが、楓は男だが)が集まれば自然とみんなの視線が集まる。そして、その二人に挟まれているイケメンでもなければなんの特徴もない俺への視線はとても痛い。特に男連中からの視線が痛い。

「一体何者なんだあいつは・・・」

「誰の許可をとってあの二人と・・・」

 そんな会話が周りから聞こえてくる。

 逆に聞きたいが、誰の許可をとったらこの二人と弁当を食べて良いんだよ!

 心の中でツッコミを入れながらも、この状況が理解できていないのは俺も一緒だ。

「それじゃあ、これをどうぞ雨戸くん」

 雪瀬はバックから弁当箱を取り出し俺の前に置いた。

「えーっと? これは?」

「雨戸くんのお弁当よ」

「へ?」

「作ってきたの。どうぞ、食べて」

「ん?」

 俺なんか約束しましたっけ?

 そんな記憶はありませんが。

「遠慮しないで」

「はい」

 雪瀬さんの笑顔がなんか怖いです!!

 俺の力では逆らえません!!

 そして、男連中の視線が痛すぎます!!

「それじゃ、いただきまー・・・」

 蓋を開けようとして、少し中身が見え俺は急いで蓋を閉めた。

「どうしたの?」

「いえ、なんでも」

 なんか、L O V E の文字が見えた気がしたんですけど。

 えっと、この弁当を教室のど真ん中で食べるのはちょっと・・・

「あっ! そうだ、俺には楓が作ってくれた弁当があるからそっちを先に食べるよ」

 昼は楓の弁当を食べ、後で放課後にでも雪瀬の弁当を食べれば良いじゃないか。

作った?」 

 その瞬間、クラスの温度が三度ほど下がった気がした。

 後から聞いた話だが、実際には四度下がっていたらしい。

「雪瀬さん・・・?」

 ただならぬオーラを纏い始めた雪瀬を見た俺は、できるだけ穏便にそのオーラを止める努力をしようとはした。できるとは言ってない。

「何かしら? 雨戸くん。 さあ、早く作ったお弁当を食べて」

 明らかに井晴くんがを強調している雪瀬。

 笑顔で笑っているはずが、目が全く笑っていない。

 俺は何かとんでもない地雷を踏んだのかもしれない。

「そ、そうだな。いただきま・・・」

お弁当は食べるのね」

 うっ!

 俺のいただきますを遮るように言ってくる。

 めちゃくちゃ食いにくいんだが?

 何これどうすれば良いの?

「そうね、食べてくれれば良いわ」

 雪瀬はどうしても今すぐに食べて欲しいらしい。

 でも、さすがにLOVE弁当は食いにくいしな・・・

 そんなことを思っていると、まさかの反撃者が現れた。

「雪瀬さん。日真は弁当が食べたいみたい」

 そう言いながら楓は笑顔で雪瀬の方を向いた。

「どうして、あなたにそんなことがわかるの?」

 明らかに嫌な表情を浮かべながら楓を睨みつける。

「今までずっと一緒に育ってきたし、暮らしてるからね」

「同じ家?」

「ひぇ!」

 なぜか楓が雪瀬に食ってかかる。

 周辺の空気が凍りついた。

 先ほどまで俺に痛い視線を向けていた奴らも、危機を感じたのかゆっくりと俺たちから離れ教室を出ていくものもいる。

 つまり、俺はこのブリザードが吹き荒れる極寒の地に一人取り残されたのだ。

「同じ家に住んでいるってどういうこと?」

「そのままの意味ですが何か?」

 二人が俺を挟んで言葉の殴り合いを始めた。

 なぜか二人とも笑顔なのが逆に怖い。

 真ん中にいる俺は流れ弾をくらい、サンドバック状態になっていた。

「日真は、昨日知り合った雪瀬さんよりもずっと一緒にいる弁当を食べたいって言ってるの」

「そんなことないわ! ねぇ雨戸くん、お弁当の方がいいよね?」

弁当がいいよね?」

 俺は美少女二人に問い詰められていた。

 普段なら嬉しいが、今の状況はまずい・・・

 どちらかを選べばどちらかが悲しんでしまう。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・

「ど、どっちもうまそうだなぁ」

 二人の顔色を伺いながらそう答えてみる。

「「はっきりして!!」」

 息のあったお叱りを受けてしまった。

 こんな時はっきりと決められたらいいのだが、優柔不断で情けない俺は答えを出せずにあたふたしていた。

「雪瀬さんの弁当もうまそうだしなぁ・・だけど、楓の弁当もいつものように美味しいんだろうなぁ・・・」

 二人に媚を売るように、へらへらそんなことを言っていたが、どちらも笑ってもくれない。

「すみません・・・決められないですぅ・・・」

 怖すぎて小さな声で謝ることしかできなかった。

「そうだ、いいこと思いついたわ」

 雪瀬が急に満面の笑みを浮かべこちらをみてくる。

 とても整った顔立ちで笑顔も素敵だが、この状況だと体の芯から震え上がらせる悪魔の笑顔になっている。

「井晴くん、私と勝負をしましょう」

「勝負?」

「えぇ、一週間お互い雨戸くんの弁当を作ってきましょう。そして、一週間後にどっちがいいか雨戸くんに決めてもらいましょう。まさか、負けるのが怖くて逃げたりはしないよね?」

 雪瀬さんってこんなに攻撃的な人だったの?

 楓これはあきらかに挑発だ! 

 こんなにわかりやすい挑発に絶対に乗ってはいけない!!!

「わかった。一週間で決着をつけよう」

 あかぁぁぁぁぁぁんん!!!!

 俺の心の叫びも届かず謎の勝負をする流れになってしまった。

「それじゃあ、雨戸くん」

「はい、日真」

 二人から弁当を向けられる。

「「二つ食べてね」」

「は、はい」

 その日、残り少なかった休み時間で俺は弁当二人前をかき込んだ。

 そして、教師までも震え上がらせるほど冷え切った空気のまま午後の授業を乗り切った。


 学校から帰ると、楓はすぐに明日の弁当の準備を始めた。

 気合が入りすぎではないかと思ったが、とてもそんなことを言える雰囲気ではなかった。

 だけど、気になることはたくさんある、夕食の時にいくつか聞いてみることにした。

「今日はなんであんなに雪瀬に突っ掛かったんだ?」

 普段なら人見知りで他の人に積極的に話すことはないが、今日はやけに冗舌に話していた。

「さあ」

 いつもは優しい楓がなんか冷たい。

 俺と目を合わせることもなく、ただただご飯を口に運んでは咀嚼している。

「別に勝負しなくてもいいのに・・・」

 何気なく言った言葉が、楓のスイッチを押してしまったらしい。

 一気に空気が重くなったように感じた。

 教室での空気が極寒の地のブリザードだったなら、今の空気は地獄。

 昔話や伝承に出てくる地獄のイメージが一番近い。

 楓の怒りの許容量が満杯になり、楓が怒っているとすぐに気づいた。

 なぜなら、一度地獄を経験済みのためだ。

 普段温厚な楓が怒ることはまずない。数年に一度あるかないかの特殊なケースだ。

 中学2年の時に俺が楓の大事にしていた写真たてを壊したことがあった。その時俺はすぐには謝らずヘラヘラしていた。すると、次の日の学校は地獄と化した。

 楓が本気で怒るときは決して声を荒げたりはしない。

 ただ静かになり、笑わなくなる。声からは感情が消え、受け答えが淡白になる。そして、一番の問題は周りの空気を重くし、なんとも言えない負の空間を作り出すのだ。

 その時は1時間目から地獄としか言えない空気が漂い、授業開始十分で教師が逃げ出した。特に用事もないくせに自習にすると言い出し、教室から出て行ったのだ。ちなみに、俺が心からの謝罪を行うまでの一週間、学校は地獄のままだった。

 現在、家のキッチン周辺の空気がその時と同じようなものになっている。

 なお、高校生へと成長した楓が作り出す地獄の空間はさらにきつくなっていた。息を吸ってもいつもの半分しか酸素が取り込まれない気がする。

「日真、雪瀬さんに告白されたんでしょ」

 感情の消えた声で俺を問いただしてくる。

「あぁ昨日の放課後に」

 隠しても無駄で、隠すことによってさらに悪化させると思い、全てを正直に話すことにした。

「なんで言ってくれなかったの? 昨日ぼくが何かあったか聞いたのに」

 俺の目ではなく、どこか虚空の一点を見つめ、淡々と質問してくる。

「なんか言いにくかったんだよ」

 誰かに告白されたなんて、同性に言ったら自慢にしか聞こえない時だってある。まして、あそこまで完璧な美少女だったら尚更だ。

 言いにくかった理由はそれだけではないのだが・・・

「ぼくにも言いにくいの?」

 顔をあげ俺の方を向きながら聞いてくるが、焦点は俺ではなくどこか別の場所にある気がする。

 怖すぎる・・・。

「楓にもというか、楓だからというか・・・」

 友達という関係だったら相談できたかもしれないが、楓はもっと近い関係に感じていて、だからこそ相談はできなくて。

「そう」

 心を突き破るような冷たい返事をして、楓は立ち上がった。

「ご馳走様」

 夕飯の食器をさっさと片付けると何も話さずに部屋へと帰っていった。

「すぅーーはぁーー」

 楓が離れたことにより元に戻った空間で思いっきり深呼吸した。

 一体なんだったんだ? なぜ、楓が本気で怒っているのかわからない。

 前にこの状態になった時は、俺に十割非があった。だから、心からの謝罪で解決することができた。

 しかし、今は何に怒っているのか正直よくわからない。

 俺が昨日相談しなかっただけで、あそこまで怒るとは到底考えられない。

 何か別の理由があるはずだが、いくら考えてもわからなかった。

「今日も眠れなさそうだ」

 俺はキリキリと痛む胃を押さえながら、食器の後片付けを始めた。




楓の苦悩①


 楓は夕食の食器を片付けた後、直接自分の部屋には戻らずにお風呂へと向かった。

 さっと服を脱ぎ洗濯カゴへ投げ入れると洗い場を素通りし、ひのきの露天風呂へ浸かった。

 普段はとても几帳面で綺麗好きなので体を洗わずに浴槽に浸かることはない。

「ふぅ〜」

 先ほどまでの重い雰囲気はどこへ行ったのか、とてもリラックスした様子で足を伸ばしている。

 足の爪先から徐々に上に向かって、体の機能を確かめるように動かす。

 最後に首をゆっくりと回し、固まった首回りの筋肉をほぐしていく。

「日真ったらなんで気付かないかな」

 誰かに聞かせるわけでもない愚痴をこぼす。

 それを受け止めるかのように、眼前に広がる大きな夜の海は波の音を響かせている。

「ぼくが日真のことを好きってこと気付いてないでしょ!」

 拳を強く握ると思い切りお湯を叩いた。

 どこにも向けられない怒りをお湯にぶつける。

「あの日、日真が気絶しなければ・・・ぼくの気持ちも・・・」

 あの夏の一日を思い出し、恥ずかしくなったのか顔の半分をお湯に沈める。

「もう! 日真なんて嫌い!!」

 今度はお湯を両手で叩くと、同時に勢いよく立ち上がった。

 海が運んでくる風は、まだ冷たかったがお湯で暖まった体にはちょうどよかった。

「それにしても、あの雪瀬とかいう女、許せない・・・」

 暗くなった海にとある美少女を思い浮かべ、睨み付けた。

 海の上には、蒼く綺麗な満月が浮かんでいる。

「ぼくの日真に近づいたこと必ず後悔させてやるから」

 空高くに見える月に手を重ねると、力強く握り潰した。

 


 

 


 

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