3章:あの夜に、
「翼くん、まだ目を覚まさないんだって?」
青年はベッド脇の丸椅子に腰掛け、ベッドに横たわる翼の顔を覗き込んだ。
「……」
「あ、僕のことは『エース』って呼んで」
警戒を解かない翔は黙ったままエースと名乗った青年を見つめる。
どこまで信用して良いのか、それを見極めたいが、エースの飄々とした態度は裏が見えない。
ジャックのことを知っているということは怪盗業のことも知っているということだろう。脅迫か、と身構える。
エースは途中の自販機で購入した缶コーヒーのプルタブを開け一口煽ると、隣の丸椅子に座るよう翔に促した。
「疲れるでしょう?ゆっくり話そうよ」
友好的なその態度が却って怪しくも見える。
このまま黙っていても埒があかないので、翔は椅子に座るとエースに向き直った。
「俺の知りたいことを教えてくれるってどういうことだ?」
「そのまんまの意味だよ」
プルタブを爪で引っ掛けながらにこりと笑った。
「君に接触しないようにジャックからは言われてたんだけど、いつまで経っても進展がなさそうだから、もどかしくって」
「ジャックが?」
んー、と言いながら首を傾げたエースは、指先で長方形を描いた。
「そもそも、ジャックって『切り裂きジャック』のことじゃなかったんだよ。僕と同じ。トランプのジャック、トランプのエース。今のジャックの名前の意味は翼くんが言い出したことなんだよね」
「やっぱりジャックと翼は知り合いなのか?」
翔の問いにエースは口角を上げる。心底楽しそうに続けた。
「『あの夜』のこと、聞かせてあげる」
***
自らをトランプのカードに準えて名乗りだしたのはジャックが先だった。なので、相棒のエースもそれに倣った。その方がコンビらしいだろうと言ったのはエースだった。
盗みの対象は大体エースが決めていた。アンテナを立てて、そこに引っかかったものを気の向くまま手に入れる。
結果でなく過程を楽しみたかったのが、彼らが盗みを始めた動機だった。
情報収集力やコンピュータに長けているジャックと身軽なエースとで、自然と役割分担ができてきたが、現場の空気も知っていたいというジャックの要望でふたりで現場に行くことが多かった。
その夜も恙無く盗みは決行された。
いつもどおり現場にトランプのカードを残すことで『怪盗』を名乗る『遊び』なのだと暗に示す。自分たちに右往左往させられる警察を見るのもまた一興だった。
「いやー、爽快だね。見事にダミートラップに引っかかってくれたじゃない」
ビルの屋上から、自分たちを捕まえようと奮闘している警察を見下ろし、エースはカラカラと笑った。
ジャックも満足げに笑むと、手元のパソコンを閉じて「さて、」と言った。
「エース、そろそろ退散するぞ」
「もう大丈夫なの?」
「俺の言うことに間違いねえよ」
エースが立ち上がり、方向を屋上の入口に転換した。ジャックがそれに続こうと足を引くと、エースが顔を引きつらせた。
「……嘘つき」
何のことかわからず振り返ると、入口にひとりの少年が立っている。
きょとんと丸くした少年の瞳は、まっすぐ彼らを捉えていた。
「見つかったじゃない。どうするの、ジャック?」
「……どうしよう?」
人を傷つけることはしたくない。それがふたりのモットーだった。
しかし、突如訪れたピンチにどうするべきか決めかねていた。入口を通ること以外で屋上から脱出できないか、頭をフル回転させる。
少年が無言で携帯電話を取り出した。
仕方なくエースが地面を蹴って少年に飛びつこうとした瞬間だった。
「メールアドレス教えてください」
「「……へ?」」
足が空を蹴って、思わずその場に倒れこむ。
慌ててジャックが引き起こすと、次に携帯電話のシャッター音がした。少年が写真を撮ったのだ。
「ほら、教えてくれないと警察に写真渡しますよ。早く、メールアドレス」
夜の割に鮮明に写っている写真をちらつかせながら少年が催促する。
ふたりが意図が全く読めず呆けていると、少年が「あ、」と言い、鞄の中からノートを取り出して投げて寄越した。
「それに書いてくださいね。嘘だった場合、この写真が警察行きです」
混乱したまま、ジャックはノートにメールアドレスを走り書く。とりあえず、携帯電話のアドレスを書いておいた。
「ちょっと、ジャック!」
「どういうことかわかんないんだから仕方ねえだろ!」
ジャックがノートを地面に置くと、少年は入口から横に移動した。どうぞ、と手で合図されたので、警戒しつつ、入口からビル内に入る。
少年はノートを拾い上げ、振り返るとふたりに向かってヒラヒラと手を振った。
「何だ、あれ……?」
「さあ……?」
そのアドレス宛にメールが来たのは次の日のことだった。
「絶対返信しないほうがいいよ!罠かも知れないし」
エースは断固としてそう主張する。ジャックもそう思うが、すでに写真はあっちの手の中だ。
「どっちにしろ警察に情報流されんだろ」
「だって、怪しすぎるもん……」
メールにはこう書いてあった。
『怪盗さんへ。俺と友達になってください。』
メール画面を開いたまま、天井を仰ぎ見る。
返信しなければ嘘のアドレスだとみなされ、警察に駆け込まれるだろう。だからといって、こんな怪しいメールに返信するのも馬鹿馬鹿しい。
悩みに悩んだジャックは長い溜息を吐いて、携帯電話を手に取った。
「僕知らないからね」
「俺だって」
紙飛行機が飛んでいくアニメーションが流れたあと、画面には『送信完了』の文字が映った。
◆◆◆
少年の名前は藤堂翼と言った。
歳は十六。美大を目指す高校二年生。家族は大学生の兄がひとり。両親とは死別。
初めて喫茶店に呼び出された時にそう聞かされた。
「で、何が目的だ?」
延々と続く世間話を遮るように聞くと、翼はきょとんとした目をした。
首を軽く傾げて、ストローでアイスコーヒーを混ぜる。
「こうやって話をする友達が欲しかったんですよ。いけませんか?」
「友達なら学校で作っとけよ」
こともなげにそう言う翼にジャックが悪態をつく。翼は舌を出した。
「本当のこと言うと、面白そうだなって思って。ねえ、怪盗さんの名前は?」
ジャックも同じようにストローをグラスの中で回した。
「ジャック」
「ジャック?って、切り裂きジャック?」
「違う。トランプのジャック」
言うと、「切り裂きジャックの方がカッコイイのに」と笑われた。
「もうひとりの人は?」
「あいつはエース」
名前は仮のものだし、バレたって特に支障はない。本名は勿論教える気はなかった。
「ねえ、お願いがあるんですけど」
何を思いついたのか、翼がぱっと顔を輝かせた。
嫌な予感しかしない。
ジャックは黙ったままでいたが、お構いなしに翼は手を叩いた。
「ジャックをモデルに絵を描きたいです!」
「嫌だよ!」
思いのほか大きな声が出てしまった。一瞬、喫茶店内が静かになった。こちらを伺う客たちに軽く頭を下げ、声を落として抗議する。
「何で俺がモデルなんか……」
「えー、いいんですよ?警察に言っても……」
「だーっ!! 何なんだよ、お前!」
悔しさにテーブルを叩くフリをして、ジャックは渋々首を縦に振った。
◆◆◆
それから一週間後にジャックはアパートの一室に呼び出された。
友人たちと共同で借りているアトリエだと説明されたそこは年季の入った建物で、住むには少し躊躇するほどのものだった。
中に入ると、油絵具の匂いが鼻につく。
キャンパスや立体物が無造作に置かれていたが、翼がそれらを大雑把にどかしスペースを作った。
「さ、どうぞ」
「お邪魔シマス……」
彼は荷物の中から水筒と紙コップを取り出し、中に入っていたコーヒーを注いだ。
「これ、兄が淹れたコーヒーです。美味しいですよ」
促されるままに口をつけると、確かにインスタントのコーヒーより美味しかった。
気が付くと、翼がクロッキー帳を開いていた。鉛筆を紙の上で滑らし、何重にも線を重ねている。
「……ポーズとかとったほうがいいか?」
聞くと、真剣な顔のまま首を振る。
「自然にしてて」
ジャックは居心地悪くたじろいだが、仕方なしにもう一度紙コップからコーヒーを流し込む。
それから一週間に二、三度翼から声が掛かって、クロッキー大会が行なわれた。
一ヶ月経った頃、頃合が来たのかクロッキー帳からスケッチブックになり、そしてキャンパスへと描く対象が変わっていった。
絵画も盗みの対象ではあるが、ジャックには絵の善し悪しはわからない。どちらかというとエースの得意分野である。しかし、この部屋で見る翼の作品は素晴らしいと思う。モデルが終わると、微調整を繰り返している翼を横目に、彼のスケッチブック
や完成した作品を眺めていた。
「なあ、お前画家になりたいの?」
「え?」
何気なく投げた言葉に、弾かれるように翼が顔を上げた。
目が合うと、その顔に情けない笑顔が浮かんだ。
「そりゃなれるならなりたいですけど、俺みたいな凡人には無理ですよ」
「はー?じゃあ、何で美大行くんだ?」
「それは」そこで一旦言葉が切られた。「夢の供養のためです」
「供養、」
「画家になりたい気持ちにケリをつけたくて。せめて四年間たくさん絵を勉強して、
満足して辞めたいんです」
納得がいくようないかないような答えに、ジャックはうんと唸る。
「それに確実に給料がもらえるように美術教師になるつもりなんですよね。絵には携わっていけるように」
「へえ」
将来のことを堅実に考えるとそれは正しい選択のように思えた。確かに画家になっても必ずしも稼げるわけじゃない。好きな絵には関われるのなら、それは彼にとって幸せなのかもしれない。
「兄ちゃんは何て言ってんの?」
「兄貴は俺のしたいようにさせてくれてるから。恩返しのためにもあまり博打は打てないですよ」
ジャックは机に顔を乗せて、右手でスケッチブックをぱらぱらと捲る。やがて最終ページを閉じると、ぱっと顔を上げた。
「じゃあさ、お前の絵を俺たちが盗んでやろうか?怪盗に狙われた絵なんて箔が付くぜ」
翼はそれを聞くと、きょとんと目を丸くした。間を置いて、「はは」と笑いを漏らす。
「それはいいかもしれませんね」
***
エースの話がそこで途切れた。
翔が続きを促すように彼を見ると、エースは空き缶にカリと爪を立てた。
「続きはあいつに話してもらおうか」
病室の入口に向かって言葉を投げかける。いつの間にかジャックがそこにいた。
「勝手に翔に接触すんなよ」
機嫌が悪そうに病室に入ってくると、ベッドの上にクリップで纏められた書類をぽんと置く。翔がそれが何かを疑問に思っている一方、エースが笑顔でそれを手にする。
「いやいや、小野寺さんに情報を貰えたって風の噂で聞いてね。そろそろかなあって」
「地獄耳」
翔がふたりの会話をぽかんとして聞いていると、ジャックが翔の隣に腰を下ろす。
「まあ、いいや。俺の用事も終わるのはもうすぐだ。……続き、話そうか」
ベッドの上の翼に優しい視線を投げて、ジャックはポツリポツリと話を始めた。
***
違和感を感じたのはそれからすぐのことだった。
誰かに見られている。そんな感覚。
自慢じゃないが敵を作る機会はかなり多い方だ。仕事で買った恨みかと思っていた。しかし、視線を感じるのは決まって翼のアトリエにいる時だった。
「……なあ」
ジャックが口を開くと、鉛筆をキャンパスに滑らせていた翼が手を止めた。
「はい?」
「……いや、なんでもねえや」
視線なんて自分の思い過ごしかも知れない。翼が見られているとも限らない。
そう思い直し、ジャックは禁煙パイポを咥えた。アトリエにお邪魔するときには煙草は吸わないようにしているのだが、それでは口寂しいので気を紛らわそうと買ってきたものだ。
余計な心配をかけないようにと思ってのことを後悔するのは、ほんの一日後のことである。
◆◆◆
『下書きが終わりました。今日から色を置いていきます』
メールの文面だけ読んでも、彼がわくわくしているのが見て取れた。どうやらそれが一番好きな作業らしい。
ふっと笑うと、エースが気持ち悪そうにこっちを見た。
「何だよ?」
「別に。今から翼くんとこ行くのかなーと思って。もう外暗いよ?」
履きつぶしたスニーカーに足を入れながら、ジャックは「ん」と短く答えた。
「ちょっと気になることがあって」
下駄箱の上に置いている灰皿に煙草を押し付けて、そのまま外に出た。
やはり、あの視線が気にかかった。何だか無性に嫌な予感がする。
意味があるのかないのかはわからないが、アトリエを確認して安心したかった。
大丈夫だ、きっと何もない。
自分に言い聞かせて、ジャックは電車に乗り込んだ。
◆◆◆
古びたアパートを目の端に捉えると、目的の部屋に明かりがついていることに気づく。
(あいつ、作業してんのかな)
部屋のドアノブに手を掛けた。中から何か言い争うような大声が響く。一方の声が翼であることを確認して、ジャックは急くままにドアを開けた。
「つば……、」
ジャックの目に飛び込んだのは、翼が知らない男に鈍器で頭を殴られる、ちょうどその瞬間だった。
殴った男は呆然と倒れている翼を見つめていた。
男が持っていたのはアトリエの隅に置いてあった、翼の友達の制作したオブジェである。そのオブジェに血がついているのを見て、慌てて翼に駆け寄った。
「翼!おい、翼っ!」
頭から大量に出血している。救急車を呼ばなくては。思って携帯電話を取り出すが、手が震えてボタンを何度も押し間違える。
ガタンと音がして、男の方を振り返った。小脇にキャンパスとスケッチブックを抱え、部屋から逃げようとしている。
「待てよ!」
男を捕まえようとすると逆に突き飛ばされて、柱に頭を強打する。
「……っ!」
遠のく意識の中で懸命に手を伸ばすが、それは空振って終わってしまった。
◆◆◆
白い天井。
意識を取り戻したジャックが体を起こすと、後頭部がズキリと痛む。手当をされている。辺りを見渡すと、どうやら病室のようだった。
近所の住民の通報か、病院に運ばれてきたのだろう。
「あ、目が覚めた?」
暢気な声を出したのはエースだった。当然のようにベッド脇の椅子に腰掛けていた。
「ジャックの様子がおかしかったから、心配になってアトリエまで行ってみたんだ。……行ってよかったよ」
「……翼は?」
声が掠れていた。エースに差し出されたペットボトルのお茶を呷ると、ジャックはもう一度言った。
「翼は無事なのか?」
「命に別条はないそうなんだけど……」
歯切れ悪く言うエースの言葉を遮って、ベッドを降りる。多少頭は痛いが、他は異常がないように思った。
そのまま病室から出ると、後ろからエースも付いてくる。彼は特に止める素振りも見せず、「二○三号室だって」と情報すら与えてくれる。
入口から顔を覗かせる。二○三号室は静まり返っていた。病室の中には付き添いだろうか、青年がひとり、黙ってベッドの上の翼を見つめていた。
「あれがお兄さんらしいよ」
耳元でエースの声がした。
かける言葉が見つからず、ジャックは暫くその場に立っていた。
何で、翼がこんな目に遭っているのか。それはあの逃げた男を引っ張り出せばわかるのか。そうだ、あいつを見つけなければ。
「……エース、頼みがあんだけど」
その言葉を待っていたかのように、エースは頷いた。
◆◆◆
その夜だった。
今日も熱帯夜が続く予報がされていて、その通り蒸し暑い。
翔が病院の屋上に続く扉のドアノブを捻ると、そこはすんなりと回った。こういうところは普通きちんと施錠をしてあるはずなのに。
翼の入院の手続きに席を外している間に、病室に置かれた花瓶の下にメモが挟まっていた。差出人は不明だが、そこには「夜に病院の屋上に来るように」と丁寧な字で書いてあった。
後ろ手でドアを閉めると、柵の方にひとり、男が立っているのが目に入った。あのメモを置いた犯人だろうか。中肉中背で特にこれといった特徴もないように見えた。
暗闇の中目を凝らすと、男――ジャックは黙って煙草に火を点けた。
「はじめまして、おにいちゃん」
すうっと煙を吐くと、ジャックは手を広げる。
ようやく目が慣れてきた。表情が見て取れる。その顔は――笑っている。
「突然ですが、俺と泥棒をやってみない?」
「……は?」
「OKしてくれるなら、あんたの弟の入院費も賄えるくらいの報酬は出すよ。今やってるバイトより断然稼げる」
怪しさは満点だが、その申し出は正直かなり惹かれた。
しかし、犯罪だ。相手にするのも馬鹿らしい。
「話がそれだけなら帰るぞ」
翔が踵を返そうとしたとき、
「知りたいんだろ?」
ジャックが笑って言った。
「翼が何でああなったのか」
あの時、翼と男の間に何があったのか。
「知りたいなら、」
翔は足を止めてジャックを見た。ジャックは自嘲に満ちた表情で言葉を紡ぐ。
「教えてやるよ、俺の用事が終わったらな」
今はまだ、話せる材料もないことを悟らせないように。ジャックは一世一代のハッタリを吐いた。
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