2章:ロミオとジュリエット
「翔ちゃん、コロッケ今揚がったとこよ」
肉屋の軒先で女将さんがトングをカチカチ鳴らしながら言った。翔は両手いっぱいの荷物を持ち直して、ショーケースを覗いた。湯気を立てるコロッケはとても美味しそうだ。今日の夕食以外にも明日の昼にコロッケパンにするのもいい。
「じゃあ、四個ください」
「あいよ!」
女将さんが小袋にコロッケを入れてくれているのを待っていると、向かいの魚屋の陳列棚が目に入った。鮭が安い。無性にムニエルが食べたくなって、あとで買おうと目星をつけておくことにした。
この商店街で買い物を始めてまだ三ヶ月だが、気のいい人ばかりでとても気に入っている。少し足を伸ばせばスーパーもあるのだが、慣れてしまえば商店街での買い物もいいものだ。
「あとは、……」
ジャックのメモには菓子の名前ばかり書かれていて、スーパーまで行くか迷ったが近辺のドラッグストアで買うことにした。
一日家にいて、これだけ菓子を食べてゴロゴロしていても太る気配がないのは納得がいかない。おそらく糖分はすべて脳にいっているのだろう。
ひとつずつ手に取り買い物かごに入れていく。これが数日のうちにすべて消費されてしまうなんて、非経済的だ。
ジャックからは食費と報酬の一部(お小遣いだと言われた)が渡されていて、他の金がどこに消えているのかは知らない。案外ちゃんと貯金してあるのかもしれない。
おやつ代が嵩むからか食費は一般的な二人暮らしのものより多く用意されているが、それでもついつい節約に勤しんでしまうのは、翼とふたりで暮らしていた頃の名残だ。
メモのお菓子を入れ終わると自分の分の夜食も買ってアパートに帰る。
「ただいまー」
ドアを開けながら言ったが返事がない。
いつもはうるさいくらいに大袈裟に「おかえり」を言うのに珍しいなと思うと、次の瞬間悲鳴に似た大声が聞こえた。
「だーかーらー!帰れって言ってんだろ!」
困ったようなジャックの声色に(何だろう?)と思いながら靴を脱ぐ。すると、その時初めて玄関に見慣れない靴が置いてあるのに気づいた。小さな女の子用のローファーだ。
声がするジャックの部屋を開けると、髪の毛をツインテールにした少女がぴょんぴょん跳ねていた。少女に見覚えはない。
「あ!帰ってきた!! 」
涙目のジャックが少女を押しのけて、翔に抱きついた。ぞわりと鳥肌が立った。
「何するんだ、気持ち悪い」
「いいから、こいつ追い出して!」
騒ぎ立てる男を引っペがそうとすると少女と目が合う。少女はにこりと大人びた顔で笑んだ。
「えーと、どちら様かな?」
「わたし?小野寺舞、」
「知らない人!」
自己紹介をぶった斬り、ジャックがやっと翔から離れた。
「まあ、失礼だわ。わたしは仮にも依頼人でしょう?」
「受けるなんて言ってない」
翔は床に置きっぱなしだった買い物袋を持ち上げると、睨み合っているジャックと舞に声をかけた。
「よくわからないが、話は夕食でも食べながらしないか?そちらのお嬢さんの分も作ってやるから」
余分にコロッケを買っていて良かった。冷蔵庫に買ってきたものを仕舞いながら、翔は思った。
***
夕食を用意している最中もジャックと少女は言い争いを続けていた。しかし、声をかけるとすんなり食卓にやってきた。ふたりとも腹が減っているらしい。
「で?俺にもわかるように経緯を教えてくれないか?」
味噌汁を啜りながら翔が聞くと、コロッケにソースをかけていた舞が顔を上げた。
「さっき言ったとおり。わたしは『ジャック・ザ・リッパー』に依頼を持ってきたの。それをこの人が承諾してくれない」
「俺は報酬払えない依頼人には興味ありませんー」
「あなたからも言ってよ。わたし、真剣なんだから」
ジャックがぷいとそっぽを向くと、舞は翔に向かって箸を振り上げた。
「君は『ジャック・ザ・リッパー』のことを知っているのか?」
「もちろんよ。『エース』とやってた時から知ってるわ」
聞き慣れない名前が出てきた。はて、誰だろうとは思ったが、特に追求しないことにした。それよりも今は依頼の話だ。
「何で依頼を受けないんだ?」
ジャックに聞くと、早くも白米をおかわりしていた彼は嫌そうな目で見てきた。
「さっきの俺の話聞いてなかったの?報酬がないからだよ」
「こんな小さな子から金を取るのか?」
「そうよー、大人気ないわよー」
「うるっせえ!」
茶碗を乱暴にテーブルに置いて、ジャックはふたりを睨めつけた。
「こっちはそれで飯食ってんだよ。大体にして、直接押しかけてくるなんてルール違反だ」
確かに今まで直接依頼をしに来た客はいなかった。依頼はメールで、というのが『ジャック・ザ・リッパー』との暗黙の了解らしいからだ。
舞は頬を膨らませた。
「だって、おとうさんがパソコン触らせてくれないんだもの。しかたないじゃない」
「大方、自業自得なんだろ。飯食ったら帰れ」
また茶碗を空にすると、ジャックは湯呑にほうじ茶を注ぎながら言った。すると、舞が渋々といった様子で箸を置く。
「……わかったわ。報酬を払えばいいんでしょう?」
翔とジャックは舞を見た。
「は?小学生が何言ってるんだよ」
さっきまでその小学生に報酬を出せとほざいていたではないか、というツッコミは心の中に仕舞っておく。翔は舞の分も茶を用意した。
「もちろん、お金は払えないわよ。だけど、おとうさんに口利きしてあげる」
ジャックの目の色が変わったのがわかった。舞はほうじ茶を冷ますように息を吹きかけながら、「どう?」と言った。
翔にはふたりの駆け引きの事情がよくわからず、とりあえず湯呑に口をつける。
「……あとで契約書作るからな」
ジャックの声音はいつになく真剣だった。
***
舞は機嫌よく帰っていった。
外は暗くなっていたのでバス停まで送っていったが、依頼のことに関しては聞けず仕舞いだった。
「ただいまー」
「お帰りー」
奥からジャックの返事が返ってくる。明かりが漏れているので、仕事部屋にいるようだ。
コーヒーを淹れて仕事部屋に入ると、ディスプレイと睨めっこをしているジャックの横にマグカップを置いた。
「聞いていいか?」
ディスプレイから目を離して翔を見ると、ジャックは椅子の上で伸びをした。
「さっきの依頼のこと?」
「ああ。どういう意味かさっぱりでな。あの娘は何なんだ?ただの依頼人か?」
「舞は遠縁の親戚だよ。あの娘と彼女の父親には俺のことバレてんだ」
「『おとうさん』、」
「そう。俺、おじさんには嫌われててさあ。口利きしてもらえるなんて願ったり叶ったりだよ」
引き出しからチョコレートを取り出して齧り付き、椅子をくるくる回しながら、翔にベッドに腰掛けるのを促す。翔は続きを聞くために促されるままに座った。
「おじさんが何者かってのが重要でさ。俺と同じ日陰者。裏の世界の情報屋なんだ」
「情報屋?」
「そう。あの人にはこの世の中で知らないことなんてない」
ジャックが椅子を回すのをやめた。翔からは彼の表情を伺うことができなかった。
「それが知れたら、こんな仕事辞めてもいいって俺が思っていることもあの人は知ってるはずなんだ」
いつもの茶化す言い方ではない。
ジャックに何故ドロボウをやっているのか聞いたことはなかった。何か目的があるように感じたが、そこに深入りするのは躊躇われたからだ。
でも、初めて彼の考えていることが少し知れた。
「それで?あの娘の依頼って何なんだ?」
「それが、あいつ、変化球投げてきやがった」
タンッとキーをひとつ押した。ディスプレイに現れたのはひとりの少年の写真だった。
「ターゲットは人間。盗みじゃなくて、誘拐だ」
***
明朝、舞は心の中でスキップをしながら学校に向かった。
電車でふた駅のところにある私立の小学校に通う彼女には楽しみがある。
今日も前から三両目の車両に乗り込んだ。いつもどおり車内を見渡すと、文庫本を読んでいる少年を見つける。
「おはよう」
抑え気味の声で挨拶すると、少年は文庫本を閉じた。
「おはよう」
優しい笑顔に舞も笑みが溢れる。
「信行くん、今日は何を読んでいるの?」
「『ロミオとジュリエット』だよ」
「まるで私たちみたいね」と言おうとして口を噤んだ。舞と同じ制服を着た少女を見つけたからだ。
信行は舞の通う小学校の隣にある別の私立小学校の児童だ。立地条件と偏差値からふたつの小学校はライバル関係にあり、教師に煽られて児童たちもお互いを忌み嫌うようになっていた。
舞が信行と出会ったのは学校を離れた県立図書館でだった。たまたま話が合って、年も近いということで親しくなっていった。お互い、相手がライバル校の児童だとは知らなかった。
舞がそれに気づいたのは出会ってひと月ほど経った頃だった。
気まぐれでいつも登校に使っていたのとは違う車両に乗ると、偶然にも信行も乗っていたのだ。制服の彼を見たとき、舞はひどくショックを受けた。一緒に乗っていた
友人たちが声を潜めて彼の悪口を言う。「やめて」とは言えなかった。
それからふたりは電車の時間を合わせて、電車の中でだけ一緒に登校するようになった。さっきのように同じ学校の児童を見つけると、背中合わせになり、小声で会話する。
「舞ちゃん、もう行ったみたいだよ」
「本当?」
今日もバレなかった。ほっと胸をなで下ろすと、舞はまだ声を抑えたまま信行に話しかけた。
「あのね、この間の話、引き受けてもらえたよ」
信行の手をそっと握った。
「今日、決行」
顔を上げて笑んで見せた舞に、信行も黙って頷いた。
***
ジャックは運転免許証を持っていない。
ついでに言うと、勿論車も持っていないので、レンタカーを借りることになった。
いつも現場に向かうのは翔ひとりなのに、今日は何故かジャックが付いてきた。いつもとは勝手が違う計画なのが理由らしい。
レンタカーの後部座席でジャックは黙ってクマのぬいぐるみのリボンを直していた。翔はコンビニで買ってきたアンパンを食べながら時間を気にしていた。
腕時計の指し示している時間は午前十時二十分。
(あと十分)
ちらりとバックミラー越しにジャックを見ると、顔を上げた彼と目が合う。手を伸ばしてクマを翔の膝に置くと、ゆっくり口角を上げた。
「さあ、渡良瀬信行を盗むといきましょうかね」
時刻は三限が始まるところだ。信行のクラスの時間割では体育の授業である。
勿論堂々と校門からは入れない。翔は鉄柵が付けられている壁を見つめた。
触っても警報は流れないかジャックが事前に念入りに調べていたのを信じ、手を掛けられるように鉄柵を数本切る。それはあっさりと切れ、幾分拍子抜けをしながらも壁を登りきった。
「えっと、次は……」
ポケットからIDカードを取り出し、首から掛ける。ニセのカードで見た目だけは教師のように見えた。不自然ではない変装のために分厚い伊達眼鏡をかけた。
これほど大きな学校なら生徒たちも全ての教師を把握していないだろう、とはジャックの言。それが当たっていたとしても、人に会わないに越したことはない。勇気を出して、校舎に一歩踏み込んだ。
侵入者だと悟られないように堂々と歩く。
学校内の見取り図は頭に叩き込んである。目的地は五年三組、信行のクラスだ。目的の教室をそっと覗き込むと、少年がひとり窓の外を見ていた。写真で確認した渡良瀬信行本人だった。
ドアを静かに開けると、信行がこちらを見た。立ち上がり、翔に近づく。
「あなたが『ジャック・ザ・リッパー』ですか?」
聡明そうな声をした少年だ。
「そうだ。行こうか」
信行が頷く。
翔は信行がさっきまで座っていた机にクマと赤文字の紙を置いた。
今回クマの腹を引き裂いていないのは、ジャックが「小学生に見せるものにそんなことにしたら情操教育上どうか」と言い出したからだ。そんなことを気にする男だとは思っていなかったが、その意見には翔も賛成だった。
あとは誰にも見られることなく信行を校外に連れ出せば、今回の任務は粗方成功したということになる。
授業中に児童を連れて歩いている教師という設定はおかしい気がするので、ひとりの時よりもっと周りに注意を払わなければならない。
信行の方が校内をよく知っているので、彼のリードで歩いていく。
すんなりと昇降口についた。ここを出れば成功率は一気に上がる。
そう思った時だった。
「そこで何をしているんです?」
中年の女教師が声をかけてきた。びくりと翔の肩が震える。
「え、あ、えっと、見回りですが」
「見回り?今日の当番は森先生じゃなかったかしら?」
「ええ、さっき代わってほしいと言われまして」
「……そう?」
心臓がバクバクと派手に音を立てていた。
一歩、教師がこちらに歩を進めようとした、が。
ガシャン!と大きな音を響かせ、廊下の窓が割れた。
「きゃあ!何!?」
「僕、外を見てきます!」
咄嗟にそう言って、昇降口から飛び出した。
いつの間にか外に出ていた信行が、急いで急いでと手招きする。
片手には大きめの石が握られていて、先ほどのガラスは彼が割ったのだとわかった。
なかなか機転が利くではないかと翔は感心した。
「はー……、よかった……」
生きた心地がしなかった。
教師がいた方向を見ながら大きく息を吐くと、信行の背中を軽く押す。
「さ、行こう」
「はい」
入ってきた裏庭の塀から外に出る。
「信行くん!」
停めてあった車に乗り込むと、後部座席のジャックの隣には舞が座っていた。
「ご苦労さん。あと一息だ」
ジャックが労うように翔の肩を叩く。
翔はカーナビをつけて、車を発進させた。
「行き先は……、病院?」
「信行の母親の入院先だよ」
ジャックが飴を奥歯で噛み砕きながら言う。
「今回の目的は身代金とかじゃないんだ。信行を母親のところに連れて行くことが舞からの依頼」
「たかだか病院に行くだけで、何でこんな大ごとになってるんだ?」
「僕の両親は離婚しているんです」
助手席の信行が説明を引き継いだ。
「本当は母親と連絡を取ることすら禁止されているんですけど、秘密でメールしていたんです。母親に最近病気が見つかって今日は手術の日なんですが、傍についていてあげたいのに父親には反対されていて」
「電車で行こうにもバスで行こうにも見張りが付いてるらしいよ。唯一学校にいる間は見張りがいなくてさ。学校から抜け出すとは思わなかったんだろうねえ」
「それでこのタイミングでの誘拐か……」
ハンドルを右に切ると、病院の標識が出ていた。
「あの、本当に有難うございます。舞ちゃんも」
「ううん!いいの!どうせこの人元々犯罪者だし!」
「てめえ……」
ジャックが後ろから信行の頭を撫でた。
「会えて話せるうちにしっかり甘えとけ」
「……はい」
翼の顔が頭を過ぎったが、翔はそれを打ち消すように運転に集中することにした。
***
病院の駐車場に車を停めると、舞は信行の手を引いて駆け出す。
「あとは自分らでなんとかするだろ。アフターフォローまでは仕事じゃないからな」
古びたスニーカーの爪先で地面を二度叩き、ジャックが翔に背中を向けた。
「おい、歩いて帰るのか?」
「歩いても大した距離じゃねえよ」
言って、病室の方をゆっくり仰いだ。
「翼に顔見せてやれ。俺はまだこれからやることあるから」
ひらひらと手を振りながら、ジャックは振り向かず歩き去った。
「……」
ジャックが翼の見舞いに来たという話は聞かない。少なくとも翔の耳には入っていない。それでも、ジャックが翼を気にかけているのはわかる。
本当に一体どういう関係なのだろう。
釈然としないまま病院に入ろうとしたところで後ろから声がかけられた。
「ジャックはいないの?」
「……誰、」
「ねえ、ジャックいないんでしょ?ちょっと僕とお話しませんか?」
歳の頃は翔とあまり変わらなく見えた。しかし、その顔に見覚えはない。
ジャックの名前を知っているところに警戒心を抱いた。警察か。
「やだなあ、そんな目で見ないでよ」
不自然なほど明るいトーンで青年は喋り続ける。
「翼くんの病室にでも行こうか。あまり聞かれたくない話だからね」
翔の手を取り病院に踏み込もうとするが、翔はその場を動かない。
青年は不思議そうな顔をした後、「ああ」と納得したように呟いた。
「僕はジャックの元相棒です。どう?話聞く気になった?」
一瞬、何を言ったのかわからなかった。
青年はにこやかな顔のまま、翔の手を引っ張った。
「君が知りたいことを教えてあげるよ」
***
ジャックはカーテンを閉め切った自室に着くと、持っていたバッグをベッドの上に放り投げた。
メールをチェックすると新着メールに『小野寺兼嗣』の文字が見え、パソコンの前に座り直す。
「……見つけた」
誰に言うでもなく、一言、小さく零した。
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