切り裂きジャックを待ちながら
伊東かやの
1章:ジャック・ザ・リッパー
警報が鳴ってから五分。
俄かに賑やかになったビル。その屋上に翔はいた。
冷たい風に身を震わせ、入口を使われていない廃材で封鎖した。警備員か警察かどちらが先に到着するかは分からないが、これで少しは時間稼ぎになるだろう。
先ほど社長室から拝借した書類を懐に入れ直し、物陰にしゃがみこんでヘッドセットをオンにした。
すぐに場違いに能天気な声が聞こえてくる。
『今回も捕まらなかったな。偉い偉い』
声の主―ジャックはお道化て笑う。
自宅待機のご身分のこの男は緊張感もまるでなく、いつものようにこの状況を楽し
んでいる。
「まだわからないだろ。早くナビしろ」
急かすように言うと、「余裕ねえな」とため息を吐かれる。
当たり前である。こっちは生身で警察と鬼ごっこをしているのだ。現場にいるのといないのとはまるで違う。
翔が文句を言おうと口を開くと同時に、インカムの奥でジャックがキーボードを叩く音がした。それは規則正しく響く。こちらの要求通りに彼の仕事をしているのだ。
暫し、翔は黙った。
マイク越しの声しか伝わってこないが、ジャックが楽し気に口を歪めたのが分かった。
『じゃあ、いっちょ逃げますか』
***
古沢刑事が駆け付けた時には粗方検分が済んだところだった。
チッと舌打ちをすると、被害を受けた社長室の金庫に大股で近づく。慌てて周りの調査員が道を開ける。
金庫の上にはクマのぬいぐるみが置かれていた。どこにでも売っているようなテディ・ベア。売り物と違うのは、クマの腹部がナイフで切り裂かれ、そこから綿があふれ出しているというところだろう。実に悪趣味だ。
クマの横に赤い文字が書かれた紙が貼り付けてある。初めて見たときは血文字かと思ったが、鑑識の結果、ただの赤の絵の具だと判明した。おそらく、今回もそれで間違いないだろう。
この奇妙な窃盗現場に初めて出くわしたのは、半年前だった。この王林署に配属されて早々の事件。盗まれたのは地元大手のIT会社の機密データだった。社長のデスクの上に乗せられた腸を引っ張り出されたクマのぬいぐるみと今日と同じ言葉の書かれた一枚の紙。
犯人からの宣戦布告だ。
腹が立つのは警察を馬鹿にするように、それから犯行が繰り返される度にクマと紙が残されることだ。
彼(彼女かもしれない)は同一犯だということを誇示したいのか。それに何の利点がある。
血文字を模した赤い文字はいつも通りの言葉を綴っている。
【Jack the Ripper 】
イギリスの殺人鬼を意味するその名前。
古沢は紙を手に取ると、禁煙パイポを奥歯で噛んだ。
「切り裂きジャックめ……」
***
「ごっ苦労さまー!いやー、やっぱり才能あるんじゃね?」
部屋に帰り着くと、パソコンの前に座っていたジャックが労いの言葉を掛ける。
翔は彼の頭の上に書類の入った封筒を乗せると、冷蔵庫から開封前の炭酸水のペットボトルを取り出した。
『仕事』後に無事帰ってこられたことへの祝杯のつもりだ。
ジャックは封筒の中身を確認している。翔は指示を受けて盗む実働部隊。実際に間違いなく目的を果たしたかは自分には分からない。
「プリンありますよー」
書類から目を離さずジャックが言ったので、名前を書いていない方のプリンを手に取る。いつもは三個セットの安いプリンだが、今日はカラメルソースが別添付しているタイプの少し高めのプリンだった。
「コンビニ行ってきたのか?」
「別にお前が働いてるときに行ってきたわけじゃねーよ」
当たり前だ。
引きこもりのジャックは、徒歩一分のコンビニ(このアパートの一階に店を構えている)にすら出向くことを面倒くさがる。買い物は基本的に翔の仕事で、自分の好きなものはネットで買っているらしい。便利な世の中になったものだ。
そんな彼が自分のためにプリンを買ってきてくれたのかと思うと、少し嬉しい。
翔がプラスチックのスプーンで濃厚プリンを堪能していると、確認が終わったのか、書類をまた封筒に戻してベッドに放り投げた。
「あとは報告して終わり!いやあ、翔が盗みを手伝ってくれるようになって、怪盗も楽になったなあ。流石、持つべきものは相棒だな」
「好きでやってるわけじゃないぞ」
釘を刺すと、ジャックは分かってるという表情をして背もたれに深く背を預けた。
ギシリと椅子が軋む。
「でも、お前は拒めない」
翔は黙ってジャックを見た。伸びた人差し指がまっすぐ翔を指す。
「なあ、『お兄ちゃん』?」
***
怪盗『ジャック・ザ・リッパー』。
その名前が警察内で広まった半年前。
模倣犯を防ぐためにその手口は報道機関に流されてなかったが、情報はどこから漏れるものかわからない。一部ではテディ・ベアと赤文字の置き手紙は知られるところとなっていた。
翔も以前は善良な一市民だった。高校生の時に両親を亡くし、大学に進学せず自分と弟が食っていくためにバイトを掛け持ちする毎日。
なのに、あの夜に全てが変わってしまった。
あの時のジャックの笑みは今も忘れない。
今でも本当は相棒なんかとは思われてないのではないか、そんな気がする。
(でも、今はジャックに協力するしかない……)
道途中で買った花束を丸椅子の上に乗せる。花瓶のまだ綺麗な花を取り出し、新しい花に変えた。毎日、同じことを繰り返す。
病室のベッドの上ではたったひとりの弟の翼が眠っていた。
包み紙をごみ箱に捨てると、今度は丸椅子に自分が腰かけた。窓から見える木の葉はほとんど落ちてしまっていた。
翼が意識を失ってから、もう半年、まだ半年。
盗みなど本望ではないが、ジャックが与えてくれる仕事のおかげで翼の入院費を払い続けられる。実際のところ、彼に拾われなければ今頃どうなっていたか。
それだけのために彼の傍にいるわけではないが。
『知りたいんだろ?』
笑って言った。
『知りたいなら、』
(そのために、俺はあいつと一緒にいるんだから)
翼がこうなってしまった理由を、ジャックは知っているのだ。
『教えてやるよ、俺の用事が終わったらな』
ここに来ると、いつも頭に靄がかかったようになる。真実を知っていいのか、それ
が分からなくなる。
(買い物して帰らなきゃ)
無理やり頭を晴らせて、今日も重い腰を上げた。
***
ジャックの家に転がり込んでから、家事は翔の担当だった。
食事を作り、掃除をし、洗濯機を回し、洗濯物を干す。ジャックは何もしない上に手がかかるので、世のお母さんたちはこんなに大変なのかとうんざりする。
元々両親を高校で亡くし翼とふたりで暮らしていたから、家事はする方ではあったのだが、分担していたため、こんなに大変なものだとは思っていなかった。
引きこもりニートのジャックに小言を言えば、「お前は母親か」と文句を言われる。
家事の分担のことだけでなく、もう少し健康的な生活をした方がいいのではないかと少し心配もしているのだ。まったく、自分はどこまでも兄気質だ。
放っておけば、一日中カーテンを引いた暗い部屋でパソコンと向き合っているので、無理やり陽の光を浴びさせるのも翔の役目だった。
病院から帰ると、ジャックがベッドの上で丸くなって眠っていた。今日もカーテンは閉め切られたままだ。
まず買い物袋をキッチンに置き、カーテンを開ける。もう日が暮れるが、夕陽でも浴びないよりはマシだろう。入ってきた夕陽の光にベッドの上のジャックが眩しそうに身じろぎした。やがて、目を擦りながら上体を起こす。
「あー……、帰ったのか。お帰り」
「今日は鍋でいいだろう?」
「えー、昨日はおでんだったのに?」
ふああ、と眠たそうに欠伸をして、まだベッドの上で微睡んでいる。そういえば、昨夜から眠っていないようだった。
『ジャック・ザ・リッパー』の仕事は基本的に依頼制だ。闇の世界の噂で知った依頼主からの注文で盗品が決まる。
依頼を受けるところから最終的に依頼主に盗品を渡し報酬を得るところまで、窓口はジャックが担当している。翔が関わるのは実際に盗みに入るところだけだ。ルートや手口を考えるのも全てジャックだった。
そういう意味では家事が翔の担当であるように、仕事はジャックの担当であると言
えた。
翔が加わるまでは全部ジャックひとりでやっていたのかと思うと、よく死ななかったな、という忙殺ぶりだ。
「寝るなら、まだ飯の支度しないけど」
「んー……、起きる……」
「なら、顔洗って来い」
「ふあい」
おとなしく洗面所に向かうジャックを見送って、食事の準備を始めた。
「キムチ鍋にしてね。締めは雑炊ね」
顔を洗ったらすっきりしたのか、そんな注文が入る。初めからそのつもりだ。
男ふたりきりの鍋が終了したころ、ジャックの仕事部屋からメールの受信音がした。
雑炊に後ろ髪引かれながら、ジャックが部屋に入る。
時間といい、受信音といい、十中八九仕事の依頼だろう。昨夜仕事をしたばかりなのにハードだな、と思う。
暫くして、部屋からジャックが出てきた。何も言わずに麦茶をコップに注いで、一気に呷る。
目が爛々としていた。仕事モードに入っている。
「なあ、今回のクマは何色にしようか?」
楽し気にそう言った。
***
ジャックは夜も部屋の明かりをつけない。
パソコンのディスプレイの光だけが灯る部屋で、ジャックと翔は向かい合っていた。
「今回の獲物は柚野木不動産の経理部長の横領の証拠データ。依頼人は同不動産会社の社員・Aさん」
「匿名にするんなら、俺に情報くれなくても良くないか?」
「同じ会社の平社員ってのが面白いじゃん」
普段は指示をするだけだが、時々戯れに依頼情報を話してくれる。翔としては知らなくても一向に構わないのだが、ジャックは「面白い」と思ったときに誰かに話したいだけらしい。
気づくと、ジャックがにやにやと笑いながらこっちを見ていた。
「……なんだよ」
「嬉しいんじゃありません?下剋上とか好きそうじゃん」
「下剋上って……」
「多分、この人、部長を告発する気なんじゃない?正義の味方ですよ」
それが『面白い』理由らしい。
翔は「うーん」と首を捻った。
「そうなんだけど、なんか引っ掛かる」
ジャックはふひひと笑うとパソコンに向き直った。
「今回は警備が手薄なところだし、そんな大層な作戦はなしな。鍵は俺が開けるから、あとはお前に頼んだ」
縦横無尽にキーボードを這った指が、軽快にエンターキーを押した。
***
『柚野木不動産』と書かれた大きなビル。
丑三つ時を過ぎれば、ビル内にも周辺にも人がいなくなり、ひっそりと静まり返っている。
ごくりと唾を飲み込むと、重い扉を思い切り押す。
ちゃんとジャックがロックを解除出来ているようだ。扉は難なく開いた。
ジャックのことを信用していないわけではないが、この瞬間は何度経験しても胆が冷える。
(経理部……)
スマホにナビをしてもらいながら、経理部の前にたどり着いた。この扉もすんなり開いて、肩透かしを食らう。
まあ、いい。とにかく、早く済ませてしまおう。
USBメモリを取り出すと、部長のデスクのパソコンを起動させる。ここから暫くはジャックの仕事だ。
翔は色んな文字列が流れていくディスプレイを眺めていた。
やがて、青い画面のまま動かなくなった。
次の指示を仰ぐためマイクセットを付けると、ジャックが言う。
『予想はしてたけど、このパソコンの中には入ってないな』
「ってことは、」
『どこかにバックアップを取っているはずだ』
もし、本人が持ち帰っていたりしたら見つけられない。
「そこまでだ!ジャック・ザ・リッパー!」
いきなり部屋の明かりが点いた。
翔は驚いて顔を上げる。
古沢がひとり、そこに立っていた。
「ちょ、ジャック、まずい」
濃い髭を蓄えた顔がにやりと歪む。
『あー、そういうこと?』
「何が!?」
翔がジャックに大声で突っ込むと、音声がぷつりと音を立てて切れた。
思わず身体が固まってしまった。
目の前には警察。このままでは現行犯逮捕。
チッと舌打ちすると、翔は古沢に向かって走り出した。
「あとで、覚えとけよっ!」
「なっ、」
迷わずに思い切り体当たりをすると古沢がよろけて、ドアとのスペースが空く。素早く部屋から出ると、体勢を立て直した古沢が大柄な体に似合わない俊敏な動きで、翔を捕まえようと手を伸ばす。しかし、その手は空を切った。
「逃がすか!」
翔が駆け抜けた廊下を古沢も走って追いかける。とにかく、今は何とか古沢を撒かなくてはならない。
曲がり角を曲がってすぐの掃除用具入れの中に身を隠すと、古沢は確かめもせずに前を通り過ぎた。ほっと胸を撫で下ろす。
(他にも警察がいるはず)
どうするべきか悩んでいると、耳元のイヤホンから再びジャックの声がした。
『ごめん、捕まった?』
「まだ捕まってない!この裏切り者!」
『ひっどーい。俺なりに考えてのことだったのにー。まあ、いいや。とりあえず、も
う一度経理部に戻ろう』
「は?だって、警察が……」
『大丈夫。あのおっさんひとりだよ』
自信満々にジャックが言い切る。
『こっちからは全部見えてるから。警備カメラを乗っ取れば一目瞭然だ』
「……信じるからな?」
『是非』
用心深く辺りを見回しながら、今来た道を帰る。ドアが開けっぱなしの経理部に辿り着いた。
立ち上げたままの部長のパソコンの前に立つ。
『これは仮説でしかないんだけど』
ジャックに言われるまま、翔は部長のデスクの一番上の引き出しに手を掛けた。鍵が掛かっている。
袖口から針金を取り出すと、鍵穴に差し込む。いつの間にか簡単な鍵なら難なく開けてしまえるようになった。
『木を隠すなら森の中。データを隠すなら、データの中ってこと』
引き出しの中にはUSBメモリが数多仕舞われていた。ここで選別をする余裕もないのでそれを全部リュックに移し替える。
「本当にこの中にあるのか?」
『仮説だって言っただろ。俺はかなり自信あるけどね』
「……依頼人が可哀想だな」
『この商売、運も必要なんだぜ?』
しかし、確かに彼が言うなら間違いはないのかもしれない、と思わせられる。こういうことに関しての勘が鋭いことは、一緒に仕事をしてきて嫌というほど思い知らされている。
いつも通りにテディベアを取り出すと、ナイフで腹を裂く。部長のデスクにクマと紙を置いた。
「これで、」
『任務完了。』
廊下に慌ただしい足音が響いた。古沢が帰ってきたのだ。
翔は窓を開けて飛び降りた。下の自転車置き場の屋根に身体を転がすと、窓から身を乗り出す古沢を確認して走り去る。
「くそっ!」
古沢の悔しそうな声が闇夜に乗った。
***
「お疲れ。今日も無事終わ、」
最後まで言わせず、リュックをジャックの顔面めがけて投げつけた。それは勢いよくヒットし、彼は「いたた」と言いながらリュックからたくさんのUSBメモリを取り出す。
「これでこの中になかったら、ジャック・ザ・リッパーの評判が落ちるんじゃないのか?」
聞くと、ジャックは何をつまらないことをとでも言いたげな表情を見せた。
「俺があるって言ったらあるに決まってるだろ」
ジャックがメモリをパソコンに差して作業を始めたので、翔は炭酸水を持ってきてベッドの上に腰かけた。ペットボトルからひと口飲むと、シュワシュワという刺激が口の中に広がる。
「しかし、今日はもうダメかと思ったぞ」
カタカタとキーボードを叩いていたジャックが、ディスプレイから目を離さずに「なんで?」と言う。
「警察と鉢合わせたのは初めてだったろう?」
「ああ、あれね」
ぽいっと数個のUSBメモリを後ろに投げ、リュックの中から新たに片手いっぱいメモリを掴む。今度は貼ってあるシールを読んではそれを除けるように投げる。
「あんまり優秀そうなのじゃなくて良かっただろ」
「なんで、俺たちが今日盗みに入るのが分かったんだろう」
ジャックの動きが止まり、何の変哲もない黄色いシールの貼ってあるものをパソコンに差し込んだ。
「ビンゴ。」
言うと、椅子ごとこちらに振り向き、にっと歯を見せて笑う。
「それについては心当たりがある。明日の夕食はファミレスだ」
「は?」
翔には返事をせず、メールソフトを起動させると、文章を打ち込み始めた。すぐにメールの受信音が鳴る。ジャックはふむふむと頷きながらそのメールを削除した。
「チーズハンバーグが食いたいなあ」
ぐーっと大きく背伸びをしてから肩を鳴らす。椅子から立ち上がるとまっすぐ部屋から出て行くので、翔は慌ててその後を追った。
「説明しろよ」
「まとめてでいいだろ、面倒くさいから」
テーブルの上の煙草を掴むと「吸ってくる」とベランダに出て行く。
時計を見るともう丑三つ時を回っていた。警察との鬼ごっこを思い出し、どっと疲労を感じる。心底捕まらなくて良かった。
「……寝るか」
独り言ちて、自分の部屋の扉を閉めた。
***
その男が現れたのは、約束の時間のちょうど十分前だった。
上品なスーツを着た、年の頃は四十半ばくらいのサラリーマンだ。
ファミレスに入ってくるなり辺りを見回すので、彼が翔とジャックが待つ依頼人に相違なさそうだった。目が合って、こちらに近づいてくる。
「勝木さん?」
ジャックが聞くと、頷きながら向かいに座った。
「それで、例のものは?」
急くように小さな声で言う勝木にジャックは手で制す。
「渡す前に二、三聞きたいことがあります」
勝木はまた辺りを見回す。
「何ですか?」
ジャックはナイフでハンバーグを切りながら、視線だけ上に上げた。
「まず、何で僕に嘘の情報を流したんですかね?」
「嘘?」
「貴方、事前に言いましたよね?データは部長のパソコンの中にあるって」
翔は思わず勝木を見た。彼は少し焦って、額をハンカチで拭いた。
「違ったんですか?じゃあ、部長が直前に隠し場所を変えたのかもしれませんね」
「……成程」
言いながらハンバーグをひと口放り込む。それを飲み込むと、ジャックはフォークで勝木を指した。
「じゃあ、次。何で僕に依頼したことを警察に連絡したんですか?」
勝木は今度こそ俯いた。
「私は、そんなこと……」
「正確には少し違うか。あの刑事さんのお友達なんですかね?警察に連絡したなら、たったひとりで来るわけないですもんね。貴方はあの刑事にだけ話した。で、あの刑事はひとりで乗り込んだ。僕たちを捕まえられたら大手柄。逃したとしても他に人はいないんだから、その晩、現場にいなかったふりをすればいい」
「あ、あの、違うんです」
「言い訳はいりません。貴方は僕を裏切った。よって、データは貴方に渡しません」
ジャックはメロンソーダのストローを吸うと、立ち上がる。
「ど、どうするつもり、ですか?」
「信頼関係がなければ成り立たない仕事なんですよ。そっちがその気なら、こちらにだって考えがあります。このデータ、大々的に公表させていただきます」
「な、」
言葉を失った勝木の耳元でジャックが囁いた。
「遅かれ早かれこうなるはずだったんですから」
「お、まえ、俺だってお前のことを警察に突き出してもいいんだぞ!?」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける。客の視線がこちらに向いた。
ジャックはやれやれと言わんばかりに肩を竦めて、小声で続ける。
「悪いけど、俺は尻尾は出さねえよ。犯罪者になるのは、おひとりでどうぞ」
勝木の肩をぽんっと叩いてテーブルの上の伝票を手にすると、そのままそれを翔に渡す。
怒りで口をぱくぱくさせている勝木を気にしつつ、翔も席から立ち上がった。
レジで代金を払うと、先に店を出ていたジャックが煙草に火を点けていた。
「ゴチになります」
「奢りじゃねえよ」
ぺこりと頭を下げられたので、その頭を軽く叩く。
はーっと白い煙を吐くと、ジャージ姿のジャックは両手をポケットに入れたまま咥え煙草で歩き出した。
「おい、さっきの、」
「警察来たら、何て言い訳しようね?」
「説明しろって」
ジト目でそう言う翔を見ると、付いて来いと顎で示す。
アパートに向かうジャックの隣を歩くと、彼は程なくして話し始めた。
「刑事の話は分かった?」
「あ、ああ。あの刑事があの夜に俺と会ったのは、勝木さんが盗みに入る日をバラしたからだろう?ひとりで来てた理由も分かった。だけど、何で勝木さんはそんなことをしたんだ?わざわざお前に依頼してきたのは何だったんだ?」
「初めから罠だった、のかとも思ったけど。交換条件だったんだろうな、刑事との」
「交換条件?」
「うん、情報流す代わりにもみ消してもらう予定だったんだろ」
「部長の横領を?部長を助けたかったってことか?」
ジャックはポケットからあの黄色いシールの付いたUSBメモリを取り出した。
「これの中身は勝木の横領の証拠。横領してたのはあいつだよ、部長じゃない。むしろ部長はその証拠を掴んでたんだろうな。パソコンからデータを消したのはあの刑事だけど、USBに移し替えてそれを引き出しに隠してくれたことには感謝しかない。
それも警備カメラにちゃんと映ってたんだな。あの時、録画を遡ってみて良かった」
「おい、本当に勝木が警察に俺たちのこと言ったらどうするんだよ」
「足がつくようなことはしてないし、こっちだってこのデータで奴を社会的に殺すことができるし?黙ってるのとどっちがマシかは人次第?警察にバラせば報復に横領をバラされるって分かってんだろ」
携帯灰皿に煙草を押し付けると「コンビニ寄ろう」と言いながら、先を歩き出す。
「賭けだなあ……」
翔が溜息とともに吐き出すと、ジャックはにんまり笑って振り返った。
「今更。そういえば、お前の勘当たったな。下剋上じゃなかった、残念」
コンビニに足を踏み入れると、店員の元気いい「いらっしゃいませー」の声に迎えられた。
***
数日経っても、アパートに警察が来る気配はなかった。
人質の価値は高いのか、勝木はきっちり依頼料を振り込んでいた。前金以外は踏み倒されることは覚悟していたので嬉しい誤算だった。
今日もジャックは昼間からごろごろとソファの上を転がっていた。それを横目で見ながら、翔はスーパーのチラシを眺めている。今日は鮭が安い。
「おい、コーヒー飲むか?」
立ったついでにジャックに声を掛けると、クッションに顔を埋めたまま「うん」と返事が返ってくる。
お湯を沸かしてインスタントコーヒーを溶かすと、たっぷり牛乳を注いでテーブルに置く。ここまでは取りに来てもらおう。
面倒くさそうに立ち上がりマグカップを手にすると、ジャックは翔の向かいの席に腰を掛けた。チラシを見ている翔をじっと見つめる。
「?何?」
「いや、翼に似てるなと思って」
突然翼の名前が出てきたので、翔は訝し気に目の前の男を見た。ジャックと目が合うが、彼は目を逸らさない。
「翼もコーヒーには牛乳たくさん混ぜてた」
ジャックがそう続ける。
翔は自分のマグカップをテーブルに置いた。
「そろそろ、翼のこと教えてくれないか?」
「んー?まだまだ」
ぐいとコーヒーを呷ると「ごちそうさま」と言って、またソファに寝転がる。
「約束だろ?俺の用事はまだ終わってない」
「だから、その用事って……」
すぐに寝息が聞こえてきたので、翔はまたひとつ溜息を吐いた。
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