エピソード:フツウ 2

普通とは何なのか、小学五年生の清水アカリにはよくわからなかった。


親友に言われたこと。


『普通、こんな時間までベンキョーしないじゃん』


『普通、学校終わったら遊びに行くでしょ』


『普通、テレビくらい見るじゃん』


『普通ーーーー』


普通、普通、普通。

普通とは何なのか。


ママの言う普通は?


『普通、子供はママの言うことを聞きます』


『普通、これくらいのテストなら満点取れます』


『普通、ご飯を食べるときにテレビなんか見ません』


『普通ーーーー』


普通とは、何なのか。

普通の人は、どこにいるのか。


勉強して遊んで誰にでも優しくてワガママ言わないで、でも自分の意見はしっかりと言えるし家のお手伝いもするし嫌いな子とも仲良くできて自分のことは自分でできて、それでも冗談も理解できて流行もチェックしてスマホは持っていないーーーー普通の人。


ワタシは、その普通"くらい"になれて当然らしい。


普通はできる。

ワタシは普通じゃない。


普通じゃないから私立小学校の受験を失敗した。

次こそは。

中学受験こそは、落ちてはいけない。

普通なら、こんなに頑張っていれば落ちない。

普通にやっていれば落ちない。


頑張ってるよ。

ワタシは頑張ってるんだよ、ママ。


『頑張ってたら、普通はもっとできるでしょ』


普通って何?

普通の人はどこにいるの?


知ってるよ。

ママだって、ワタシの勉強を教えられないってこと。

誤魔化してるけど、わかるよ。

英会話を習わせてるけど、ママは英語を喋れないってこと。


英語でそう言ったら、

『あら、きれいな発音ね! でもパパがわからないから、家の中では英語をやめようね?』

だってさ。


ママがわかるのは、テストの点が100点かそうじゃないかだけ。

ママにわかるのは、ワタシが勉強に時間を使っているかどうかだけ。


普通の親は、子供のことをもっと見るんじゃないの?


『アカリちゃんのママ、それはちょっと普通じゃないよね~。子供にばっかり苦労させて、アカリちゃん可哀想』


でもね、メグちゃん。

メグちゃんは、普通なの?

テストでは下から数えた方が早いよね。

いつも先生に注意されてるよね。


メグちゃんが"普通"の子だったら、ママから『あの子と遊んじゃいけません』なんて言われなかったんだよ。

普通に、普通になってよ。


普通の友達が欲しい。

普通のママが欲しい。


普通の自分になりたい。


普通って、何なのかな。

何をすればいいのかな。

ワタシは何をすれば普通になれるのかな。



日の長い季節であるにも関わらず、辺りは暗くなってきていた。

こんな夜の街を一人で歩いている小学生は、清水アカリだけだった。


今日は塾の日だから、メグちゃんたちと遊べなかった。

模試の結果もそんなに良くなかった。

家に帰ったらママに怒られるのかな。

憂鬱だった。


「こんばんは、お嬢ちゃん」


突然、20歳くらいのお兄さんが前に立った。

いつからいたのだろう? 気付かなかった。


知らない人に声をかけられても、相手をしてはいけない。

ママにそう教わった。


アカリは男と目を合わせないように、やや早足ですり抜けようとした。


が、手で遮られた。


「ーーーーっ!」


怖い。

明確にワタシに狙いをつけている。

大人の男の人が。


「そんなに怖がらなくていいよ~。

清水アカリちゃんでしょ?」


何で、ワタシの名前を。


「何で、って顔をしてるね。僕はアカリちゃんのママと知り合いなんだ。こんな遅くに一人は危ないから、お迎えにきたんだよ」


本当かどうかわからない。

ママに確認したいけど、スマホでついゲームをしてしまったときに取り上げられたから、連絡できない。


確かに一人は怖い。

この人の言う通りなら、心強い。


でもこの人は本当にママと知り合いなの?


「あーっ、ほら、疑ってる。じゃあこれ見てよ、ほら」


と、男は自分のスマホを取り出して写真を見せてきた。

そこには……ママと、この男が仲良さげに並んでいる写真があった。


え?

でも、ママとどういう関係?


「友達……なの?」


「そうそう、オトモダチ」


……なんか、嫌な感じだ。

さっきから、この男には笑顔が貼り付いている。


「……結構です。一人で帰ります」


「えー、そりゃ困るなぁ。君のママに頼まれてるんだ。後で僕が怒られるじゃないか」


「結構です! どいてください!」


「おっと、気が強いんだね。いいねぇ、その方がいい」


男は、なぜか自分の胸に自分の手を突き刺した。


「っ!?」


「よっ……と」


ずるり、と手を引き抜くと、そこにはエイリアンみたいな形をした、黒い生き物が握られていた。

ものすごく気持ち悪い。


「な、なに……?」


「もっと正直に生きてみようよ、アカリちゃん」


男は、アカリの口にその生き物を……



昼山恵は、夜の街の人混みをかき分けながら、やや小走りに進んでいた。


急がないと。もう、アカリちゃんの塾は終わっている時間だ。

こんな遅くまで勉強させられて、一人で帰らなきゃならないなんて、あまりにも可哀想だ。


家をこっそり抜け出すのに時間がかかってしまった。

昼山家の防犯カメラに塀を越える恵の姿が映っていたかもしれないが、なぁに、バレないように戻ればカメラの映像を見返されることはない。


すれ違いにならないように、アカリちゃんの家の前から塾に向かう。ぐるりと遠回りすることになったこともタイムロスだ。


人気の無い住宅街。

子供一人で歩いていると、ふと不安にもなる。


でも、それはアカリちゃんも同じだ。

だからアタシが迎えに行くんだ。


と、思っていたのに。

住宅街の通り道に、アカリちゃんの姿を見つけた。


迎えの時間が遅すぎた。

これじゃこっちまで来た意味があんまりない。


「あ、アカリちゃんっ! はぁ、はぁ……もうここまで来てたんだ。ごめんね、迎えが遅くって」


「……メグちゃん? 迎えって……頼んでないけど?」


なんかいつもよりアカリちゃんが暗い。

最近はずっとうつむきがちだったけど、今日は表情が見えないほど暗い。


「うぇ? 頼まれてはいないけど。一人じゃ寂しいかなー、なんて思って」


「……"普通"はね、子供がこんな時間を歩いてちゃいけないんだよ」


ん? それはギャグなのかな?


「ははは、じゃあアカリちゃんも"普通じゃない"よね」


ぴり。


なんか突然、背筋がぞわぞわした。

なんかおかしい。


「わ……ワタシは……"普通"だよ……」


「あの、えっと、アカリちゃん……?」


「"普通"だよおおおおっっ!!」


空気の塊に殴られたような感じだった。

恵の身体は住宅のブロック塀に叩きつけられ、気がつけば地面に横たわっていた。


え? 何があった?

車にはねられたとか?


「あ、アカリ……ちゃん?」


姿を探すが、見えない。

先ほどアカリちゃんの立っていた場所に、黒いモヤみたいなものが集まって、濃くなっている。


『言わなきゃ……ママに言わなきゃ』


アカリちゃん、のはずだったもの。

それが、何かをつぶやいていた。


『普通のママになって、って……言わなきゃ』


黒いモヤの一部が抜けて、アカリちゃんの顔が少しだけ見えた。

ただ、まるで別人だった。

怒りと憎しみを持った表情で、恵とは違う方向を……自宅の方を向いていた。


アカリちゃん……いや、アカリさん?

アカリちゃんさん、とでも呼べばいいだろうか。

とにかく、アカリちゃんとは何か別のもののように感じる。


アカリちゃんさんは、スーっと自宅の方に向かって進み始めた。足で歩いている感じではない。

まるで浮いているような動き。


「ま、待ってアカリちゃんさ……!」


再び、ドン、という衝撃を感じて、恵はアカリちゃんさんと反対方向に吹き飛ばされていた。

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