中編 覚醒とビート

 バチコォンッ、と乾いた音が響き渡る。視界が無理やり横に逸らされると同時に、世界が毒々しく塗り替わるような錯覚を覚えた。少年は数歩よろけ、親とはぐれた子供のように周囲を見回す。その脳を甲高い電子音が貫き、彼はびくりと身をすくませた。

『深刻なエラーが発生しました、深刻なエラーが発生しました』

 通知音を最後に、脳が焼き切れるような感覚。身をよじってそれに耐え、ふらふらと数歩よろける。何度か深呼吸を繰り返し……キッ、と少年はキサラを睨んだ。大股で彼に近づき、ベストとYシャツに包まれた胸倉を掴み上げる。

「お前、僕に何したんだ……」

「お前たちに埋め込まれてる脳内チップあるだろ? アレを無効化したんだ」

「え……?」

 呆然と目を見開く少年に、キサラは片腕と片翼をそれぞれに広げた。指先と風切り羽の先にそれぞれ、青白い電流が流れる。生まれて初めて鏡を見る赤子のようにそれを見つめる少年に、キサラは道化のように告げる。

「言ったろ? オレたちは。オレたちは〈感情を司る者アフェクトゥス〉。世界の守護者にして管理者、他生物よりも上位に位置する存在……っていうと、ちょっとおこがましいけどな。人知を超えた力とかも、色々と使えるわけなんだよ」

「……信じられないよ……そんなことって、ありえるの?」

「ありえるありえる。現に今、お前の脳内チップ、無効化してみただろ? 信じられないっていうなら、、見てみろよ」

「下……?」

 呆然と背後のフェンスに視線を向け、ごくり、と喉を鳴らす。そのままフェンスに歩み寄り、少年は見開いた瞳で下界を見下ろした。刹那、視界いっぱいに広がったのは――。


「……ひっ……!」

 ――それはまるで死者の行進。生命力を感じさせない、ベルトコンベアで運ばれているかのような人間たち。思わず数歩下がり、誤射で味方を失ってしまったかのように膝を突いた。今までなんとも思っていなかった事実が、途端に重石のようにずしりとのしかかってくる。恐怖、そう、恐怖感。視界が滲む、呼吸が徐々に速くなっていく。

「どーした? えーっと……何て呼んだらいい?」

 その隣にキサラが歩み寄り、すっと腰を落とした。少年は親に先立たれた幼子のように細かく震えながら、か細い声を漏らす。

「知らないよ……僕たちに、名前なんてない……ねえ、どういうこと? 人間は、人間はどうして、こんなにもおぞましいの? どうして、こんなに……!」

 黒い瞳に、徐々に涙が溜まっていく。キサラは人間のものであるままの腕で、少年の背中を力強く擦った。少年の呼吸が速くなっていく。泣きそうに何度もせぐりあげながら、少年は胸を押さえて叫ぶ、ただ叫ぶ。

「嫌だよ、嫌だよ、こんな世界……なんで今まで、違和感の一つも覚えなかったんだろう……こんな、みんな無理やり同じにさせられるなんて……おかしいよ……みんな同じ顔で、同じ言葉を話して、違いの欠片もないなんて……そんなの、変だよ……。何より、その中にだなんて……!」

「……そうだろ。それこそが正常な感覚なんだよ」

 静かに、しかし力強く、キサラは少年の背をさする。その口元がどこか憎々しげに歪み、コンロに火を点けるかのように静かな、しかし膨大な熱を孕んだ言葉が吐き出された。

「〈感情を司る者アフェクトゥス〉の最高司令官は言ってた……人間っていうのは感情に振り回されて、感情をぶつけ合って、わかり合うのが本来の姿なんだって。でも、感情を失って、情動ビートを発することもなく、脳内チップと政府AIの言われるがままになってしまった人間なんて……そんなの、本来の人間の姿じゃない。人間は本来、もっと素晴らしいもののはずなんだ……強い情動ビートで世界を満たして、この世界を輝かしいものとして保たせてくれるんだから……」

 その声は青い炎のように熱く、それでいて極地の氷のように冷静で。愚者のように何度も頷きながら、少年は顔を覆った。その肩が細かく震え、嗚咽のような声が途切れ途切れに漏れる。その背を何度も擦りながら……キサラは、何かを警戒するように顔を上げた。


 ウィン、ウィン、とサイレンの音が響く。気付くと二人は洗練された形のロボットに包囲されていた。球形のカメラ兼スピーカーに正四面体の胴体が組み合わされ、両脇に小型の銃を浮かせている軍事ロボット。それらが出張っているということは――と、少年の体温が急激に下がっていく。先程とはまた別の感覚にカタカタと細かく震えだす少年を、守るようにキサラは立ち上がった。そんな彼を無視し、軍事ロボットのスピーカーから機械的な声が流れ出す。

『J-13-05 2120-1052。J-13-05 2120-1052。脳波に異常を検出しました。至急、同行を願います』

 じわじわと包囲網が狭まっていく。少年の呼吸が速くなっていく。親機と思われるロボットのカメラが左右を眺め、ふとキサラに向けられた。アラートのような甲高いサイレンと共に、緑色のランプが赤く点灯する。それはまるで、犯罪者を睨む独裁者の視線のように。

『危険生物発見。危険生物発見。速やかに排除を開始します。ならびにJ-13-05 2120-1052は危険生物の影響を受けた可能性大。排除が完了次第、速やかに特殊療養所へ送致します』

「チッ……やるしかないか……!」

「待って!」

 甲高い声にキサラが立ち止まると、彼を守るように少年が立ち塞がっていた。その瞳には未だに涙が浮かんでいたけれど、その脚は生まれたての子鹿のように震えているけれど、それでも彼は声を張り上げる。まるで、子を守ろうとする母熊のように。

「この人を……キサラを殺すのはやめて! この人は僕を助けてくれたんだ……本当の世界っていうものを知らせてくれたんだ。一度失くした感情を、奪われた感情を、思い出させてくれたんだ!」

「おまえ……」

 見開かれたキサラの白金の瞳が、揺れる。少年の声は弓のように真っ直ぐで、しかし強風に揺れる細枝のように折れそうで。瞳は未だ揺れていて、脚は震えたままだけれど、それでもその背筋は竹串を通したように真っ直ぐだった。彼は自分より強い相手に吠え立てる犬のように、喉も裂けよと絶叫した。

「だから、お願いだよ……キサラを、キサラを、殺さないでッ!」


 軍事ロボットのランプが、じわりと赤く輝く。正四面体の左右で、白い小型銃がゆっくりともたげられる。抑揚のない、しかし高圧的な電子音声が流れ出した。それはまるで死神が鎌を振り下ろすように、ギロチンの刃を落とすように。

『――危険生物の影響により、J-13-05 2120-1052の精神に異常が発生した可能性大。国家反逆罪の適用も視野に入れなければなりません。J-13-05 2120-1052、同行を願います』

「……ッ!」

 無慈悲な電子音に、少年は思わず唇を噛む。言葉など通じなかった。話など、聞いてもらえなかった。いや、少し考えればわかったのかもしれない。こんなディストピア、こんな独裁国家。感情を奪って人間の尊厳を踏みにじるような国が、子供一人の話に耳を傾けてくれるだなんて、そんな考え、甘いにも程がある。加減を忘れて噛みしめた唇から、細く血が流れた。ぎゅっと目を閉じ、子供のように耳を塞ぐ。


 ――刹那、閉ざされた鼓膜を、雷鳴のような轟音が貫いた。

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