9-2.嘘が嫌いになった理由


「響、美月。落ち着いて聞いてくれ。父さんたちな、別々の道を歩むことにしたんだ。お前たちが頑張っているときにこんな話をして申し訳ない。でもいつかは……」


 離婚の話をされたあの日、父さんはだいたいこんなことを言っていた。


 でも全部は覚えてない。

 覚えてないけど聞いてはいたっていう感覚で、ただ全体的に綺麗な言葉でまとめてるなって印象だった。


 こんなときまで父さんらしい、品の良さ。

 皮肉なことにそれが俺を更に気分悪くさせた。


 心の声を聞いているうちにわかった。父さんにはもう再婚を決めている相手がいる。

 ここで口に出さないということは、ほとぼりが冷めた頃に籍を入れる予定なんだろう。


 母さんは父さんに話の主導権を渡しているかのように時々相槌を打ったり謝ったりするくらいで、自分からはあまり喋ろうとしなかった。


 ただ聞こえてくる心の呟きから察するに、父さんとの関係はもう随分前から冷め切っていたらしい。いつも笑っていたけど本当は限界だったんだろう。

 そして頻繁に美月と俺の顔色を伺っているのがわかった。


――良かった。響は一時期不安定だったから心配だったけど最近は安定していたし元はしっかりした子だものね。高校生にもなるともう大人の視線に近くなっているし――


 勝手に安堵しているようだったが、要するに母さんも俺のことをよくわかってなかったんだ。


 俺は単に慣れただけで別にしっかりしてる訳でもなかったし大人の視線になんて到底届いてはいなかった。

 家族には言ってなかったけどクラスメイトからは無視されている。もう俺の居場所はここしかなかったというのに。


「わかった。お父さんとお母さんがそう決めたなら」


 俺の隣に座っていた美月は、父さんの話を聞き終わるまで心を乱す様子もなく冷静な声でそう答えた。


――私も妊娠のことはなかなか言い出せなかったもの。沢山迷惑かけたし偉そうに言えないわ――


 やはりあのことを負い目に感じているみたいだった。


 俺は置いてけぼりにされた気分だった。


 せめて妹と同じ気持ちだったらいくらか救われたかも知れない。独りじゃないと思えたかも知れない。

 でも大きな隠し事を涼しい顔でやってのけた妹は、もはや何処かの知らない大人の女性のようだった。


 今、この場に“子ども”は俺しかいないんだと思った。


 親権は母さんが持つことになり、俺たちはこれまで通りこの家で暮らす。三月には父さんが家を出て行くという話になった。


 俺たちのことは大切な我が子に変わりないから大事なときにはちゃんと顔を出す、などと父さんは言っていたが正直どっちでも良かった。



 嘘で塗り固めた家庭。

 そんな環境で過ごすうちに俺も嘘をつくことが多くなっていった。


 まず表情が嘘をつき始めた。多少のことでは動じなくなったし、如何なる感情が湧いてきてもそれを顔に出さなくなった。


 次に言葉。無難な返事しかしなくなった。どうせ何を言っても無駄だという諦めがあった。


 この頃にはもう実際の声と心の声の聞こえ方が違うことを理解していた。


 こんな体質になってから学校に行けなかった時期が少しだけあったけど、多分これからは問題ない。みんな受験で忙しくなるし、そもそも俺に近寄ってくるやつはもうほとんどいないだろう。


 それでいい。あんなの聞こえない方が楽だから。


 そんな開き直りで何事もなかったかのように登校していた。



 そして五月下旬のある日のこと。


 授業が終わってすぐに帰宅した俺のところにメールが届いた。

 中学時代からの友人、高島だった。


『もし大丈夫だったら会いに行ってもいい?』と書いてあった。


 母さんはパートで夜まで帰らない。美月も部活ですぐには帰ってこないしそもそも別の部屋だから特に問題はなかった。

 俺は『大丈夫だよ』と返事を送った。


 どんな気持ちで待っていたかはよく覚えてないけど、なんだかすごく久しぶりだよなと改めて思っていた。


 高島はよく俺を親友と呼んでくれた。それくらい仲が良かったんだけど、いつもベッタリくっついてるかっていったらそうでもなく、気が向いたときに会うくらいの気楽な関係だった。

 クラスもそんなに被ったことはなく、このときも別々だった。



「おう、響。突然悪いな」


 夕方、俺んちにやってきた高島は今までと変わらず気さくに話しかけてくれた。


 いつもそう、明るくていかにも人が良さそうな雰囲気。偏見に曇っていない澄んだ瞳。誰にでも分け隔てなく接することが出来る。人気者なのも納得だった。

 そのときの俺にはあまりにも眩しくて遠い存在にさえ思えてしまった。


 俺の部屋に行って麦茶を飲み、ちょっとくつろいだ後に高島はここに来た目的を話してくれた。


「お前の様子が変わったって聞いたんだ。クラスのやつらともほとんど話してないって。それで心配になってさ」


「うん……まぁ」


「すぐに気付けなくてごめんな。両親のことも大変だったよな。無理に話さなくてもいいけど少しでも気晴らしになればと思ったんだ」


「ありがとう、高島」


 俺は何を話していいかよくわからなくてうつむいてばかりだったと思う。

 ただ高島の温かい気配をそばで感じているうちに、氷のような心が少しずつ溶け始めていく感覚はあった。


 でも不穏な声は突然俺の耳に届いた。



――消えたい――


――なにもかも終わりにしたい――


――友達に会っても家族といても、やっぱり変わらない。どれだけの人に囲まれていても、いつも、いつも、虚しい。俺はもう駄目かも知れない――



 高島の、声で。



「た、高島……?」



 俺は真っ直ぐ見つめた。高島の目を。

 その奥にある揺らぎを確かめるように。


「ん? どうした、響」


 窓の外の燃えるような夕日の逆光で高島の顔は焦げたみたいに真っ黒だった。完璧な笑みを貼り付けたまま。


「あ、いや、あの……」


「ははっ、なんで響が心配そうな顔してんだよ。俺の顔になんかついてる?」


 そう訊かれて俺は言うべきかどうか迷った。

 それはやがて葛藤へと変わっていった。



 今、お前の心の声が聞こえた。


 そんなこと言えるだろうか。



 二年の頃のクラスメイトもみんな、俺のことを気味が悪いと言って去っていった。

 高島にまでそう思われたら……



「い、いや、大丈夫だ。なんでもない」


「なんだよ、俺、ずっと鼻毛でも出てたのかと思ったぜ。びっくりさせんなよな〜!」


 俺は聞こえなかったことにした。実際これは本来聞こえるはずのないものだからと。


 どんなに前向きな人間だって、なにもかもが嫌になるときくらいある。消えたくなるときくらいある。そんなおかしなことじゃないだろう。


 時間が経てば経つほど、やはり自分の気にしすぎだったように思えてきて、高島が帰る頃にはもうほとんど忘れてさえいた。

 それくらい高島と過ごす時間は楽しかったから。



「じゃあな、今日はありがとう」


「ああ。俺の方こそありがとう、高島」


「話したいことがあったら遠慮なく言えよな。また会いに来るから」


 もう薄暗くなった玄関先で高島は俺に手を振った。


 次にまた会える日。それは当然やってくるものだと思っていた。




 だけどそれから約一週間後の六月始め。



 高島は明け方の海で、冷たくなって発見されたんだ。







「信じられない。本当に事故ではないのか」


「でも晶くんが自分から海に入っていくところを見た人が警察と救急に連絡したって」


「なんでそんなこと……」


「最近、落ち込んでる様子なんて見たことなかったよな」


「前の日だって普通に過ごしてたのに」



 そんな言葉を聞いた。

 多分、お通夜に行ったときだと思う。


 家族でさえ高島の異変には気付かなかったようだ。



 遺書は見つからなかった。だから、本当のところはどうだったのか断定するのは難しいそうだ。


 でも、朝日も登りきっていない時間帯に、一人きりで、服を着たまま、六月の海に入っていく理由なんて、他に何かあるだろうか。



 あまりのショックに言葉を失くす人、咽び泣く人、その中で俺は身体に力が入らないまま、思った。

 弾けるような笑顔の遺影を見つめながら実感だけがじわじわと大きくなっていった。



 聞こえていたのに。


 あのとき、俺には聞こえていたのに。高島の心の悲鳴が。


 何もできなかった。

 言えなかった。


 俺が、俺が。

 嫌われることを恐れたばかりに。


 俺は親友を見殺しにしたんだ。



 母さんの運転する車で家に帰った後、俺はたぶん誰とも口をきかないまま自室へ行った。


 電気もつけずにぼんやりと勉強机の上を見た。


 そこにはいくつかの資料が広げたままになっていた。



 俺は思い出した。


 高島に会った後、俺は少しだけ前を向く気力を取り戻していって、中学の頃からの夢が詰まったこれを見ていたんだと。


『臨床心理学』


 その文字に触れた。初めは優しく、愛おしく。


 しかしやがては憎しみに似た熱く粘度の高い感情が突き上げてきて、ついに俺の身体は限界を迎えた。


「こんなもの……!」


 資料をぐしゃぐしゃに握り潰し、破いて、床に叩きつけた。


 大声を出したら母さんが来てしまう。そんな理性はギリギリ残っていて必死に声を押し殺していた。


 無理だと思ったのだ。

 家庭が壊れるのを止められなかった、妹の異変にも気付かなかった、親友も救えなかった、そんな俺が一体誰の役に立てるのだと。


 こんな能力、なんの意味もない。


 俺が人の痛みに寄り添う勇気さえ無い臆病者である限り。



 それからの記憶は途切れている。



 ただぼんやりと意識が戻ってきた頃、俺は雨が降りしきる夜の街を一人でずぶ濡れになりながら歩いていた。


 もう答えてくれるはずもないあいつに話しかけていた。



 なぁ、高島。

 あの日、会いに来てくれて嬉しかったよ。

 でも俺の心配をする前に、まずは自分が生き延びることを考えてほしかった。



 重い悩みを抱えていたとは思えないくらい明るい声色が蘇った。



『話したいことがあったら遠慮なく言えよな。また会いに来るから』



 だけどその日は二度と来ない。


 きっと自分の心の闇に誰かを巻き込まないように、ただ独りで。何も言わずに。


 そんな優しく悲しい嘘があると知った。


「嘘だろ……高島」


 そしてこんなときに限って嘘は調子よく影を潜め、ただひたすら残酷な現実を前に押し出してくるのだ。

「いるんだろ、高島……何処かに。なぁ……?」



 だから俺は嘘が嫌いだ。この世で一番。

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