9-3.嘘が嫌いになった理由


 太陽の光が燦々と降り注ぐ、夏。


 俺は立ったまま自転車を漕いでいた。抜けるような広い広い青空を時折見上げながら。


 緩やかな下りの坂道。

 そうだ、このまま行くと海に出る。

 ずっとずっと真っ直ぐ。優しい波の音に導かれるようにして加速した。


 自転車を止めて顔を上げると、いつの間にか俺の隣に高島がいた。


 俺と同じようなTシャツにハーフパンツ、足元はサンダル。

 泳ぎに来た訳ではないんだろうけど波打ち際でちょっと水遊びするくらいなら出来そうな格好だ。


 見事に被ったな。そう思っていたら高島はちょっぴり照れくさそうに笑った。

 俺もつられて笑ったと思う。



 俺たちはどちらからともなく歩き出して柔らかな砂浜を踏み締めていった。


 ちら、と振り返ると二人分の足跡が出来ていた。


「夏なのに人がいないよな」


 俺はそう話しかけた。

 高島は確かに隣にいる。だけど返事はない。


「ここは観光地でもあるのに、こんなにガラガラなんて珍しいよな?」


 もう少し、疑問形に近い声色で。


 だけど高島は答えるどころか少しずつ歩調を速め、俺を置いていこうとするのだ。


「なぁ、高島っ!」


 思わず俺は前へ回り込んで高島の両肩を掴んだ。

 日差しが強いせいか顔が陰になって表情がよくわからない。


「なんか変だよな? ここ。こんなに晴れてるのに、寒いし」


 そう訊いてはみたけれど続きは何も言えなかった。言葉に出来ない不安がつのった。


 なんでもいい。声を聞かせてほしい。そんな気持ちで待ち続けた。



 やがて高島はゆっくり顔を上げた。


 でも声は返って来なかった。


 眉を寄せ、目を潤ませ、困ったような笑顔を浮かべ、唇だけを動かした。



 “ごめん”



 そう言っているのがわかってしまって、俺は身体の芯が凍りつくような感覚を覚えた。


「な、なんで謝るんだよ、高島が」


 そうだよ、謝るべきは俺の方。



 親友の悲鳴を聞いておきながら手を差し伸べなかった俺なんだ。



 突如、砂浜はぐにゃりと歪み俺の両足は何かに引っ張られるようにして沈み始めた。


 割れた青空の向こうは暗闇。水色の鋭利な破片が無情なほど美しく煌きながら降り注ぐ。


 そんな中で高島だけが変わらぬ位置にいた。消え入りそうな笑みを浮かべたまま。


「嘘だ……嘘だ……!」


 俺がどんなに叫んでも。手を伸ばしても。

 壊れていく時は、世界は、待ってくれない。


 穏やかだった波の音は今や荒れ狂うように。


 深い深い砂の中へ、そしてやがては闇の中へ。

 なす術もなく飲み込まれていく最中(さなか)で俺は理解した。



 ああ、これはあいつと辿り着きたかった季節なんだ。





「……す」


「……はい、救急です。あ、あの、頭を打ってると思います……血がっ……」


「私の息子です。名前はみず、いえ、夜野響。十七歳で……えっ、ここの住所ですか? ええと……」



 聞き覚えのある声がだんだんハッキリしてくる。父さんか……?


 目を開くと辺りは真っ暗。冷たい雫がぽつりと頬を打った。


 今、俺の目の前にあるのは、たぶん夜空。雨はもうほとんど止んでいるようでチラチラ星が輝いてる。砕けた夏空の残骸みたいだ。


 波の音がここでも聞こえる。


 俺はどうやら本当に海を目指していたらしい。


「響!? 良かった、お母さんがわかる? ねえ、来て! 響が目を覚ましたわ!」


「お兄ちゃん! 大丈夫!?」


「本当か! 待ってろ、響。いま救急車を呼んでるからな」


 父さんの持っていた灯りが眩しくて一度手で遮った。

 それからゆっくり半身を起こしてみた。


「俺は……」


 よく見ると家族以外にも何人かの人が集まり、遠巻きにこちらを見ているのがわかった。


「待って、お兄ちゃん。無理して動かないで。たぶん歩道橋の階段から落ちたんだと思うの。頭も怪我してる。他に痛いところは?」


 冷静な美月は落ち着いた口調で俺に状況を説明してくれた。


 頭? 俺はなんだか実感がわかないまま前髪のあたり弄った。

 もう一度目の前に持ってきてみた手のひらは赤黒く湿っていて、そこでやっと背筋がぞっとした。


 きっと傷だらけなんだろうと想像がついた。


 だけど痛みはというとさっぱり。

 ただ水分を含んだ服の重さや全身じっとりと湿った気持ち悪さははっきりとしていた。


「響、何も覚えてないの? どうして、一人でこんなところに……」


 母さんの震える声が近付いてきた。そっと俺の頬に触れた手も小刻みに震えていた。


 俺は一度頷こうとした。だけどすぐにかぶりを振った。


 記憶は断片的だけど、確かな答えは持っていたから。



「あいつが……何処かにいると思ったから」



 やっとそう言ったとき、俺は母さんの腕の中へ強く引き込まれた。

 罪悪感に満ちた母さんの苦しそうな声が次々と俺の耳の中へ注ぎ込まれた。両方の声が。


「ごめんね、響。お母さん何もわかってなかったわ」


――この子にまで何かあったら私は生きていけない――


「もっと話を聞いてあげれば良かった。辛い思いもさせてしまった」


――私たちが離婚なんてしたからこの子は心の拠り所を失くしたんだわ――


「ねえ、もっと本音を言ってくれていいから、もう一人でいなくなったりしないで」


 温かな手が何度も俺の背中をさすってくれていた。幼い頃から知る懐かしい匂い。そのあまりの心地良さに微睡みそうになり、涙が出そうになって。


 だけどそれに反して煮えたぎる感情が湧いてきてついに俺を突き動かした。


「きゃっ!」


 尻もちをついた母さんが驚いた顔で俺を見上げていた。


「そうだよ。あんたらのせいだ」


 自分の喉から出た恨めしげな声に自分で鳥肌が立った。でも止められなかった。


「俺が何も反論しないから納得したと思ったのか。もう受け入れられる年齢だって本気で思ってんのか。なに大騒ぎしてんの。帰る場所を壊したのはあんたらだろ。もう一人でいなくなるなだと? 勝手なこと言うんじゃねぇよ」


「響、違うんだ! 母さんは悪くない。あれは父さんのせいで……」


「黙ってろよッ!!」


 たがが外れてしまったらもう遠慮なんて出来なくて、ありったけの軽蔑を込めて父さんを睨んだ。


 俺を宥めようとするみんなの声。腫れ物に触るかのような。それが気持ち悪くてたまらなかった。


 俺の知っていること、全部ここでぶちまけてやろうか。父さんあんたも! 母さんあんたも! 美月あんたも! みんな俺を騙しやがって。鈍感な俺はさぞ扱いやすかっただろうなぁ!


 内側で暴れ回る感情にガタガタ身体が揺さぶられた。


 なのにそんな俺の衝動を食い止めたのはなんだったんだろう。



「高校生は大人なんかじゃない! 落ち着いて聞ける訳ないだろあんな話!!」



 何もかも壊してやりたかったのに。それさえできずに。

 結局、ただの泣きじゃくる子どもになってしまったのは何故だろう。


 俺は再び柔らかな感触に包まれた。今度は美月の腕の中だった。


「お願い、お兄ちゃん……今はやめて。傷に障るわ」


 美月は涙声になっていた。

 母さんは細い声でひたすらごめんなさい、ごめんなさいと繰り返していた。

 父さんの声は聞こえなかった。


 救急車のサイレンの音が近付いてくる頃、俺の意識は再び朦朧もうろうとし始めた。


 赤く点滅する景色が滲んでいった。



 今更。


 もう声に出す力もなく、だけど胸の内で吐き捨てた。


 遅いんだよ、今更、こんな美しい家族の絆みたいなものを見せつけられたって、もう俺たちは元には戻れやしない。


 俺の信じていた世界はもう何処にもないんだ。



 病院でひと通り検査してもらった結果、幸いなことに脳に損傷はないとわかった。


 俺の能力も実は脳の異常のせいなんじゃないだろうか。ついでに見つかったりしないだろうかなんて淡い期待をしたけれど、本当に、至って普通の脳だったのだ。素直に喜べなかった。


 身体は至るところを打撲していて、特に右足首は捻挫もしていた。

 全治三週間。俺が松葉杖生活を送ったのはこのときだ。知ってる人に会いたくなかったからあまり近所を歩くことはなかったけど。


 再び学校に登校するようになると、今まで俺と目を合わせようともしなかったクラスメイトたちが何人が話しかけてくれた。


 俺はこのとき同情される痛みを知った。


 皮肉なことに高島の死によって俺は再び孤独ではなくなったのだ。

 こんな形で救われたくはなかった。


 どれほどの優しさを周りから受けても痛みが消えることはない。きっとこの先も。


 俺は生涯この罪と共に生きていくんだ。


 覚悟なんてものとは程遠いけれど、ただそれだけは確信した。





「……き、響、着いたわよ」



 隣から軽く肩を揺すられて俺は瞼を開いた。

 運転席の母さんが俺の顔を覗き込んでいた。


 空想と夢の中間くらいにいたような感じがする。ここまでの道のりだってなんとなく覚えてはいる。


 腕の中に視線を落とした。

 スターチスの花、これを自分で選んだことだってちゃんと覚えてる。

『途絶えぬ記憶』という花言葉があるとつい最近知った。


 車から降りるとその先は俺一人で歩いた。


 一昨年、俺からそう頼んだ。あいつのところに行くときは10分くらい二人きりにしてほしいと。だから母さんは後で来る。



 高島家の墓にはすでにいつくかの花が供えてあった。


 あいつとは親同士も仲が良かったから、家に行って線香をあげても不自然ではないだろう。


 だけどそれは無理だ。

 本当のことを知る俺は、知っていながら目を逸らした俺は、もうあいつの親に顔向けできない。


 例え世界中の誰もが俺を許したって、俺だけは俺を許せないだろう。



 わかってるんだ、本当は。


 俺がこんな生き方をしていることを高島が喜ぶはずがないって。むしろ悲しませるだけだって、何度も何度も、自分に言い聞かせた。


 それでも……それでも。

 簡単じゃないんだ。



 ふとほのかな眩しさを感じて顔を上げた。ちょうど花を供えた頃。


 天気予報ではもうそろそろにわか雨が降ってもおかしくなかった。

 だけど墓の向こうに広がるグレーの雲の隙間からは何本かの細い光が地上に降り注いでいた。


 視界が霞む。暖かいのに何故か身体が震えて。



「……逢いたい」



 俺は呟いていた。



 誰に……?


 そう思ったのはしばらく後のこと。


 誰に会いにきたのかは明白なはずだ。

 それなのに何故そんな疑問をいだくのか、俺は自分がよくわからなかった。

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