9-1.嘘が嫌いになった理由


 六月に入って間もない日の朝。

 俺は大きめのリュックに荷物をまとめ自宅マンションを後にした。


 行先は実家だし一泊しかしないから私物はそんなに入ってない。ただ去年帰ったときに母さんからいろいろ土産を持たされたから念のため、という訳だ。両手が塞がるよりかは楽だろう。


 空はおおむね晴れていた。気温も随分高くなったと思う。

 俺の地元はここから南下したところで海に近いから多分もっと暑いだろう。


 マンション最寄り駅から大学とは反対方向の電車に乗ること五駅。この辺では最も大きな駅に辿り着く。

 そしてここからは新幹線に乗る。到着までの時間はだいたい45分。



 特に混んでる時期という訳でもないから今年も自由席にしておいた。


 売店で小さなペットボトル茶の冷たい方を一つ買った俺はちょうど空いていた窓側の席に座った。今のところ前にも後ろにも人はいない。気楽だ。

 だけどやっぱり耳は塞いでいた方が気分的に落ち着く。すぐにヘッドホンを装着した。


 いくつもの県を跨ぐほど高速とは思えないくらい新幹線の車内は静かだ。窓の外の景色は確かに速く流れているけれど振動もさほど感じさせない。凄い技術だと思う。


 そして遠くまで来たんだなと実感する。

 帰っている途中なのに、なんだか変な言い方だけど。


 空を見上げた。曇っているように見えた。

南下しているとは思えないくらい冷たげな色に。

 そのなんとも言えない物悲しさが過去の記憶を引き連れてくる。


 耳元で鳴っている音楽と気持ちが釣り合わなくなってきた。

 でも仕方ないと思った。


 向かう先があの場所なら、遅かれ早かれ向き合わなければならないんだ。





 四年前。

 高校二年生だった俺はまだ『水島みずしまひびき』という名前だった。


 そこそこ便利だけど割と田舎な街で家族四人で暮していた。


 至って平凡で派手さもなく、そこらじゅうに生活感を感じさせるものが転がってて、お世辞にもお洒落とは言えない家。だけどなんだかんだと一番落ち着ける居場所だと思っていた。


 父さんはあまり口数は多くないけど、真面目で家族のことをよく見てくれてる印象だった。

 休日には車を出して大きなショッピングモールや外食に連れて行ってくれることもあった。


 母さんはお節介でやたら涙もろいけど芯の強さを感じさせることが度々あった。

 お調子者なときもあってオジサン顔負けのギャグを飛ばしたり謎の替え歌を作ってはみんなの失笑を買っていた。


 年子の妹である美月みつきは本当に自分と血が繋がっているのか不思議に思うほど頭が良くて、物静かで如何にも優等生といった雰囲気だった。

 反抗期らしきものも特になかったから逆に心配だったくらいだ。


 そして俺は……どうだったのだろう。


 家族からは意外と繊細とか意外と考えてるとか言われたことはある。何故必ず『意外と』が付くのか腑に落ちないところだったが。


 良くも悪くも平均的だったんじゃないかと自分では思う。

 美月みたいになんでも器用にはできないけど、苦手をカバーできるくらい得意なものも持ってたし、親に対しては反抗もそれなりにした。


 学校でも割と広く浅く人と関わるタイプだったと思う。その中でも特に仲がいいやつっていうのはいたけれど。



 そんな平穏な日々がゆっくりと崩れ始めた。

 それは十一月の頃だった。


 異変が現れたのは学校にいたとき。

 帰りに遊ぶ約束をしていた友達が当日の放課後になって俺に言ったんだ。


「わりぃ! 今日、塾あるの忘れてたわ」


――彼女が会いたいって言ってるからとは言えねぇもんなぁ――


 俺にはこう聞こえたもんだから、こいつ冗談めかして開き直ってるのかなと思ってつい笑ってしまった。


「まぁ、付き合ったばかりだから仕方ないよな。俺は構わないよ」


「え?」


「彼女が待ってるんだろ?」


「え……いや、俺、そんなこと言ってない、よな?」


 今言ったじゃん。そう喉元まで出かかったけど俺は結局言えなかった。

 相手の引きつり笑いが何処か怯えたような表情に見えたからだ。


 相手は首を傾げながら去っていった。その後ろ姿を見送りながら俺も不思議に思った。


 そんなこと言ってない。確かにそうかも知れないと思ったのだ。

 よく思い返してみたら彼女の話をしているとき相手の口は動いてなかった気がする。


 周りには他にも人がいた。誰かの声と聞き間違えたか。その日はそれくらいにしか思わなかった。


 だけどその友人は、何回か会話を交わすうちにだんだん俺を避けるようになっていった。


 すぐに話し相手がいなくなった訳じゃない。

 でもあの不思議な現象は他の友人の会話でも何度か起きていたらしく、俺の返事にみんなが驚いているときがあった。


 そうしているうちに聞こえてしまったのだ。


 あいつは俺たちを監視している。

 気持ち悪いから関わらない方がいい、と。


 俺はだんだん恐ろしくなった。

 本来聞こえないはずの声が俺には聞こえている。そう理解する頃にはもう、俺に話しかける友人はほとんどいなくなっていた。



 心の声、と思しきもの。

 でもそんなはずはない。普通は。これは幻聴だ。俺はどうにかなってしまったんだ。


 期末テストの勉強も手につかず、一人思い悩む日々が続いた。


 誰かに打ち明ける勇気がどうしても出なかった。来年は受験生になるというのに精神科通いなんてことになったら。いや、最悪入院だろうか。当時の俺にはそちらの方が怖かったのだ。


 母さんは部屋にこもりがちになった俺を心配して、たまには一緒に夕飯を食べようと誘い出してくれた。


 確かにこのままだと不自然に思われる。

 家族に気付かれたくなかった俺は久しぶりに早めの食卓につくことにした。


 幸いなことに家の中で幻聴が聞こえたことはなかったから大丈夫だろうと思っていた。


 二階の自室から一階へ降りると、母さんが食事をテーブルに並べているところだった。

 美月はテレビの方を向いて突っ立ったまま携帯をいじっていた。


「お父さんはね、ちょっと遅くなるみたい。だから先に食べましょう」


 母さんがそう言いながら俺の横を通り抜けた。そのときだった。



――離婚するまでは家庭を優先するって言ったのに――



 吐き捨てるような、声が。

 俺の息を止めた。

 それは紛れもなく母さんの声だった。


 いつも明るい母さんの、聞いたことないくらい冷たい声。



 気が付くと俺は淡々と食事を口に運んでいて、でもきっと心はうわの空で、好物のハンバーグだったことは覚えてるけど味は感じなかったように思う。


 幻聴がまた聞こえたら。

 ただそれだけがうっすらと怖くて、聞こえた内容そのものは真に受けていなかった。このときまでは。


――もう連絡とれないのかな――


 今の声は、美月?

 目の前の妹の方を見ると、箸を止めてかたわらの携帯をぼーっと見ていた。眼鏡越しの瞳は心なしか悲しげな表情に見えた。



――やっぱり私が中絶したから、もう無理だよね――



「え……」



 俺はうっかり声を漏らしてしまった。


 美月は目を丸くして真っ直ぐ俺の方を見た。


「どうしたの? お兄ちゃん」


 何事もなかったような様子だった。


 だけど俺の中の動悸はどんどん速くなっていった。

 これはただの幻聴ではないかも知れない。そう思った瞬間だった。


 美月は確かに手術を受けていたのだ。

 俺は虫垂炎だと聞いていたけれど。


 なんで。いつ。どうして。相手は。


 思えば虫垂炎という割にそこまで痛がる様子がなかった。

 美月はまさか本当に?


 だとしたら母さんが言ってた離婚というのも……



「お兄ちゃん、早く食べないと冷めちゃうよ」


「どうしたの、響。なんか変よ。具合が悪いの?」



「ご、ごめん、やっぱり、俺……」



「響!?」



 呼び止める声が聞こえたけど、とてもじゃないけどその場にはいられなかった。


 部屋に入って鍵を閉め、途方に暮れてしゃがみ込んだ。


 月明かりだけの青白い部屋は、とても、静かだった。


 一人のときには聞こえない、幻聴。

 そしておそらく、事実と一致している。


「……知りたくなかった」


 至って平凡で派手さもなく決してお洒落ではない家。

 だけどありのままの自分でいられる。

 みんなもそうだと思っていた。

 でもそれは違った。

 そう思っていたのは俺だけだった。

 馬鹿みたいじゃないか、こんなの。


 当時の俺にはとても受け止められなかった。

 美月のことは心配だったけど、正直騙されていたという気持ちの方が大きかった。それくらい余裕がなかった。



 俺の疑念を裏付けるように父さんはだんだん家族と過ごす時間が減って、翌年の二月に両親は本当に離婚した。


 俺はそれまでの間、家庭が崩れていく音をただ聞いていることしか出来なかったんだ。



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 ※この物語はフィクションです。聞こえるはずのない声が聞こえるなどの症状があったら自己判断はせず専門医に相談しましょう。

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