第5話 おもいで

 二人とも、無言が続き、僕は家に帰った。


 自分の部屋に帰るが、頭が混乱していた。ジグニーが、僕のこと? それなら、いつでも言うチャンスはあっただろう。言えばいいのに。


 言えばいいのに? そうなのだろうか? 若い頃にジグニーに告白されたら、僕はどうしただろう?


 次の日も、その次の日も、ジグニーはポーチにいなかった。


 僕は彼女のことばかり考えていて、会社に行く途中、とんだへまをした。電車の中でボーっとしていたら、痴漢に間違えられた。目の前に座っていた若い女性の胸をじっと見ていたというのだ。


 その女性の彼氏に捕まり、駅の警備室に連れて行かれた。ただし、警備員は事情を聞くと、困った顔をして言った。


「うーん、さわってもないので、痴漢と言えるかどうか・・・」


 僕は、ボーっとしていただけだと言った。


 最終的には警備員になだめられ、その女性と彼氏は出ていった。


 部屋にもう一人、かなり年配の警備員がいて、二人が去っていってから笑った。


「ほほほ、あんなに胸の谷間が見える服を来ていて、見るなと言うほうがおかしいわい」


 僕は、その年配の警備員のほうを向いた。


「それがですね、実は、見てたと言えば見てた、見てないと言えば見てないんです」

「ほう?」


 年配の警備員が不思議そうな顔をする。


「僕の隣の家に女性がいまして、僕と同じぐらいの中年なんですがね。その女性は今も昔も胸はぺったんこなんです。それを思い出してました」


 年配の警備員は、今度は驚いた顔をした。


「ほう、若くて大きい胸を見ながら、中年の小さい胸を思い出してた、というわけですか」


 言われてみれば、そういうことだ。


「かなり惚れ込んどりますなぁ」

「……そうか、そうですね」


 僕はジグニーが好きなのか。そう思うと、妙にすっきりした。


 ジグニーに、僕の気持ちを伝えるべきなのか、迷った。付き合って欲しい、というような気持ちはない。30年以上、彼女の気持ちに気づかなかった僕である。今さら何かを期待するのも、違うだろうと思った。


 家の前まで帰ると、隣の家でジグニーがポーチではなく降りて待っていた。


「少し、話がしたいんだ」


 ジグニーはそう言って、僕をポーチに誘った。今日はソファーの他に、イスが一つ用意されていた。ジグニーは僕にソファーを勧め、自分はイスのほうに座る。


「これ、返しておくよ」


 ジグニーはそう言って、テーブルの上に銀のクッキー箱を置いた。驚くことに黒く焦げ付いた跡はない。ピカピカだ。


「これは……」

「銀はね、変色しやすいんだ。少し時間はかかったけど磨いてやると直ったよ」


 まったく信じられないほど、綺麗になっていた。ジグニーは「少し磨いた」と言っていたが、ここまで磨くのにどれほどの時間と労力がかかったのだろう。


「この前、自分のせいかもしれない、と言ってただろう。それは本当に間違いで、あの日、アタシは家に自分のクッキー箱は持って帰ったんだ。それは覚えている」


 そうなのか。ではどこで? と思って、銀の箱からジグにーに目を移すと、ジグニーが続けて言った。


「あの後さ、また、あんたが言い出すんじゃないかと思って、いつも持って歩いてたんだ。そりゃ、そんな事してたら、いつか無くすよ。だから、あんたのせいじゃない」


 僕は言葉に詰まった。銀のクッキー箱を見つめた。それは、ある意味、僕のせいと言えないか? いや、僕のせいだと思いたい。


「ジグニー……」


 僕が言いかけたのを、ジグニーがさえぎった。


「アタシが好きだったからって、それも気にしなくていんだ。これは貰えない、それを言いたかっただけなんだ」


 そう言って、ジグニーも、銀のクッキー箱に目を落とした。しばらくの間、じっとクッキー箱を見ていた。


「僕は」


 言いかけて、止まった。これほど言いづらい言葉だったのか、と心のなかで唸っていた。ジグニーが立ち上がりかけた。


「好きなんだ」


 あわてて言った。


「え?」

「僕はジグニーのことが好きなんだ」


 立ち上があろうとしていたジグニーは、ゆっくりイスに座り直した。


 ジグニーのベッドで目を覚ました時、一瞬、どこか解らなかった。かなり深く眠ってしまったらしい。隣りに寝ているジグニーを見て、安心した。


 ポーチでしばらくの間、何かしどろもどろに話したが、あまり覚えていない。


 いや、あの、うん、といった言葉とも言えないような会話をした気がする。


 その後、ジグニーの家に入って、ワインを少し飲んだ。少し安心して、昔の話をした。二人で話をしだすと、子供の頃の色々な事を思い出した。僕が忘れていた事もあるし、ジグニーが覚えていない事もあった。


 ジグニーの料理も食べた。思ったより美味しくて、びっくりした。


「母親が病気がちだっから、ハイスクールの時から作ってるからね」


 ジグニーはそう言った。知ってることは多いが、知らないことも多い。


 ジグニーのことが好きだ、そう解っても、付き合いとか結婚したいとは思わなかった。でも、話をしていると、僕たちは一度は結ばれるべきなんじゃないか? という思いが膨らんできた。


「一度でいい、いつか、君を抱かせてくれないか?」


 思わず、そう言ってしまった。するとジグニーが抱きついてきて、驚いた。


 儀式のような行為になるかもしれない。そう思ったが、まったく違った。


 僕らは、どちらも上手とは言えない二人だったが、夢中になった。僕の想いをぶつけ、ジグニーが身体いっぱいに受け止める。どれだけ近づいても、もっと近くに寄りたかった。その思いは、ジグニーの中に果てる瞬間、一つになった。


 これまでの行為は何だったのか? と思うほど、ジグニーとの交わりは違った。これが恋なのか! という思いもある。あのジグニーを抱いた! という違和感も交錯する。


 背中を向けて寝ているジグニーに目をやる。布団から出ている肩がつややかだった。これほどジグニーが可愛く見えるのも、不思議だった。


 でもそうだ、木登りで上を登っていたジグニーが振り返った時、後ろから日が差した。あの時、笑顔を見て、なんて可愛いんだ! と思ったっけ。


 木登り!


 僕は、がばっと起き上がった。ジグニーが僕の音で目を覚ました。


「グラント?」

「千年杉、覚えてるかい?」


 ジグニーは思い出そうするが、覚えてないようだった。


「二人で、あの下にありったけの宝物を埋めた!」


 あっ! とジグニーも思い出したようだ。


「あの時、君はリュックの中の物を全部入れた。もし、クッキー箱が紛れていたら……」


 ジグニーも起き上がり、僕を見つめた。僕らは互いを見つめたまま、ふたりして口をぽかんと開けて固まった。

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