第4話 はつこい
隣町の仕事にありつけた僕は、電車で通うことになった。
この街でゆいいつの変化は、隣町まで電車が通うようになった事だろう。いや、もう一つあった。隣に住む、ジグニーの鼻ピアスが無くなっていた。
夕方、仕事から帰ってくると、玄関脇のポーチに腰掛けているジグニーをよく見かけた。赤ワインを片手に、くつろいでいる姿はすっかり中年のおばさんだ。鼻ピアスも、紫の頭の面影もない。
彼女の母親はどうしたのだろう? 僕が物心ついた時には、すでに父親はいなかったはずだ。居間で本を読んでいた父に聞いてみた。
「父さん、隣の家の母親はどうしたんだい?」
父は老眼鏡を外すと、少し険しい顔をして答えた。
「お前が大学一年の時に、亡くなったのを覚えてないのか?」
そうだっけ? 覚えがない。
「電話で連絡したろう。試験があるから帰れないと言ってたじゃないか」
まったく覚えていない。ただ、試験というのは適当に嘘をついた可能性が高い。それほど熱心に勉強をした覚えもないからだ。
子供の頃は、よくジグニーと遊んだ。でも、ハイスクールに通う頃には、学年が一つ下のジグニーとはあまり話をしていない。彼女が大学に行かなかったのは、母親のこともあったのだろうか?
「彼女は、ずっと一人?」
「さあ、どうだかなあ」
父は昔を思い出そうと窓の外を見つめる。
「男が来ていた時もあった気がするが、あまり会話をする機会も無くてなあ」
自分の部屋に帰って、窓からジグニーの家をのぞいた。ここからは見えないが、ポーチに明かりが点いているので、まだ飲んでいるのかもしれない。
そういえば、以前に話をした。クッキー箱は無くしたと言っていた。結婚できなかったとすれば、それも関係あるのではないか?
それから、数日、ジグニーの無くしたというクッキー箱の事を考えていた。無くなるものだろうか?
どのクッキー箱にも、個人識別情報がインプットされている。落とし物で警察に届けられれば、まず間違いなく帰ってくる。
頭が痛くなってきた。彼女のクッキー箱を最後に見た記憶は、僕のクッキー箱を開けようと企んだ時だ。
……これは、僕のせいではないのか?
仕事が終わり、家に着くとすぐに父を探した。裏庭の畑で作業をしていた父を見つけ、たずねた。
「昔、僕とジグニーがクッキー箱を開けようとした時のこと覚えてる?」
「ああ、そんな事もあったな」
父はスコップの手を止めて、車庫を指差した。
「あそこに隠れてな、びっくりしたもんだ」
「父さん、あの時、ジグニーのクッキー箱も取り上げたかい?」
父は首を振った。
「お前のクッキー箱は取り上げたが、ジグニーのは彼女が持って帰ったはずだ。いくら隣人とは言え、他人の娘の箱は取り上げんよ」
なるほど、それはそうだ。もしかしたら? と思ったが違ったようだ。
「それがどうかしたのか?」
父はいぶかしげな顔をして聞いてきた。
「いや、彼女は、子供のころにクッキー箱を無くしたそうなんだ」
「なんとな。昔、お前たちは森でよく遊んでいた。もしそこでだとしたら……」
父さんが振り返ると同時に、僕も振り返って森を見た。僕らの家の裏には、広大な森がある。この中で落としたとしたら、見つからないだろう。
「クッキー箱は嫌いじゃなかったのか?」
父に唐突に言われ、面食らった。
「ああ、大学の時のこと? もう、忘れたいよ。若気の至りだ」
本当に忘れたい。今から思えば大勢が集まって、大声で言うほどの事じゃない。クッキーを使うも使わないも、人それぞれ勝手にやればいい話だ。
僕はあらためて、父に向き直った。
「父さん、大学を無駄にして申し訳ない。いや、それより、父さん達が買ってくれた銀のクッキー箱を無駄にしたこと、本当に後悔している」
いつか、謝らなければいけない事だった。父の優しい性格なら、笑って許してくれる。怒られても、もちろんいい。そう思っていたが、父はキョトンとしていた。
「……お前、机の引き出し見てないのか?」
何を言い出したのか、今度は僕がキョトンとなった。
「……まさか!」
僕は走って部屋に戻った。
本棚の本やおもちゃは捨てたが、机の中は大学へ入学する際にカラにした記憶があったので見ていない。
青い机の引き出しを開けた。
……僕のクッキー箱だ。
表面は黒く焦げているが、形は壊れていない。そうか、焼けずに残っていたのか。
その日の夜は、まったく眠れなかった。
ベッドに寝たまま、黒くなった銀のクッキー箱を見つめる。クッキー箱は自分みたいだった。子供の頃はピカピカだった物が、今では薄汚れてしまっている。
けっきょく、このクッキー箱を開けることは、僕の人生に無かった。今思えば、僕は自分のクッキーに興味があっただけだ。相手のクッキー箱を見たいと思ったことはない。
喉が乾いて、下に降りると両親は二人揃って深夜番組を見ていた。
二人が眺めるスクリーンの上にしつらえた棚を見た。僕が生まれた時の写真と、二人のクッキー箱が飾られてある。この二人のような恋愛はできなかった。それは自分のせいなんだな、と今さらわかった。
もはや、自分のクッキーに興味はないが、有効活用できる方法は見つけた。
仕事が終わり、家の前まで帰ると、隣のポーチにジグニーを見つけた。いつもは軽く手を振って終わりだが、今日の僕は、ポーチに上がっていった。
「やあ、ジグニー」
「どうした? グラント」
彼女のぶっきらぼうな呼び方が懐かしく、思わず笑えた。幼いころに長く過ごしたので、話し出せば、まるで子供のような気分にもどる。
ポーチには、一人がけのソファーとテーブルがあり、テーブルにはワインの入ったグラスがあった。
「これ、君が使えないかと思って」
僕はそう言い、鞄からクッキー箱を出して、テーブルに置いた。
「残ってたのか?」
ジグニーが驚いて箱を手に取る。
「君はクッキーを無くしたと言ってただろ?」
ジグニーがうなずく。
「調べた所、個人識別情報は書き換えができるらしいんだ。」
「アタシが無くしたクッキーを、なんでグラントので代わりにするんだい?」
確かに、そう思うだろう。僕は言いにくかったが、自分のせいかもしれない事を伝えた。
「いや……どうも君のクッキー箱を最後に見た記憶が、二人で悪ふざけして開けようとした時なんだ。あれは僕が言い出しただろ?」
ジグニーは首を振った。
「無くしたのは、あの時じゃないよ」
違うのか? でも、無くした時がいつなのかは覚えてないと言う。僕を気遣っているのだろうか?
「ジグニー、君はまだ結婚もしてないだろ? そしてまだ40だ。この先、チャンスがあるかもしれないだろ」
ジグニーが苦笑いした。
「アタシにそんなチャンスは無いよ。今まで無かったように」
「そんな事はない。今まで無かったのは、クッキー箱が無かったからじゃないのか?」
ジグニーは自分を低く見過ぎだ。彼氏だっていたのを僕は憶えている。
「それは違う」
ジグニーがため息をついた。
「彼氏はいたさ。何人もね。ただ、結婚は考えられないんだ」
「クッキー箱が無いから?」
「そうじゃないよ。アタシに好きな人がいたから」
ジグニーが言う意味が解らなかった。彼氏は好きな人じゃないのか?
「ずっと好きな人がいたんだ。胸の奥にね。付き合う程度ならいいけど、そんな女と結婚したら相手が気の毒だろう?」
僕は首をひねった。
「どういう事だ? まったく解らないよ。なら、その男と付き合えばいいだろう!」
「そういうわけにも、いかなくてね」
「誰なんだ、僕のしってるやつか?」
ジグニーは腕を組んで、横を向いた。怒ってるようだ。
「森の剣士だよ」
「はあ? 森の剣士って……」
ハッとして、言葉を失った。
子供の頃、よくジグニーと森で遊んでいた。僕は、腰に木の棒を差し「森の剣士と呼んでくれ!」とよく言っていた。
「ジグニー」
呼んでも、ジグニーはそっぽを向いたまま、動かなかった。
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