夕闇に光るポリッシュを

塩化+

曖昧な好きを手放して、嘘でも良いから一番嫌いになりたいんだ。

 獏。

 人の悪夢を食べるとまことしやかに囁かれた伝説上の生き物。現実に見た人は多分いない。居たとしても当然生きてやしないだろう。歴史はもう二千年以上積み重なっているんだから。

 古代の中国はとっても肥沃で、今やすっかり涸れ細った黄河だとか長江の近くに、迷信のモチーフになったであろうマレーバクが生態系を作っていただとか、かの国における象徴的な動物である、ジャイアントパンダを指していただとか諸説あるけれど、細かな理屈なんて結局は後世の人々の邪推でしかないのは確かじゃないだろうか。

 判別のつかないことに首を傾げたって時間の無駄、それなら想像できる範囲を絞りたい。楽しいこと、面白いこと、うん、ピンときた。彼らの食事の瞬間を想像した方が絶対楽しい。長い舌をぴろぴろと震わせながら、淡雪みたいなソフトクリームを舐めとるように食べるのだろうか。はたまたカエルのように目にも止まらぬスピードで、伸ばしたと思った瞬間に呑み込んでしまうのだろうか。現代では絶対にありえないことだからこそ、想像はどんどん生まれてくる。

 楽しいかわりに終わらない、そんな空想に耽っていると、なんだか無性に寂しくなる。絶対に当てはまる答えに辿り着けない切ない感覚は、自分の痒い所に手が届かないようなもどかしさに近くて。

 だから私は考える。こうだったらいいな、こんなやつだったら嬉しいのになって思う、伝説に漂う獏の正体を。動物である必要なんて無い。人かも知れない、物かも知れない。空想に住んでる気ままな存在に、手前勝手なカタチを授けるんだ、そうすれば違うことに気持ちを動かせるだろうと信じて。紡いでいく、願いと言う透明な糸で編まれた、私だけの存在を。

 誰でもいいの、お願いどうか、私の希望になって下さい。私の生きるこの世の全てが悪夢だとは言わないけれど、いつかに思い描いた夢を差し出せば二度と悪夢を見なくていいのなら、きっと何かが変わるだろうから。絶望しているわけでは無いけれど、今までの何かが変わっていくだろうから。例えそれがパン屑くらいの広さだとしても、少しでも明るい場所に生きていたいから。

 出来上がりは遠い未来になりそうだから、唯一無二の想いを強く込めた手元のぬいぐるみが喋り出すまでゆっくり待とう。そうだなあ、出来上がったらこうやって言おうかな。

 どうか私の膿んだ悪夢を食べてくれますように。宗教なんて関係ないや、今の気分はキリスト教。胸元で十字を切ってから手を合わせて祈りを捧ごう。倦怠感に支配された、"あの世界"に立ち向かうにはそれぐらいは必要だと思った。

 オートクチュールの商品が届くまで暇だ。さてどうしようと周りを見渡す。ああ、何もない。だったらもう寝るしかやることが無い。仕方なく何時の間にか床に敷かれていた布団に寝転がる。途端口が大きく開いて、ふわふわ浮いてる味のない空間を吸い込んだ。欠伸が出るってことは丁度眠気が来たらしい、相変わらずどうしようもない体だ。微睡んでいく意識に従って目を瞑り、小声でおやすみと語り掛けて眠った。

 自分だけの居場所である、この狭いねぐらの隙間に根差した、とこしえの暗黒に向かって。



 私は堕落していると他人事のように思う。曲がりなりにも十九年と数か月を生きてきて、最近何故だか再認識してしまった。

 惰弱な自分を変える切っ掛けになるかと思い、これまでの私とは似つかわしくないほどに珍しく一念発起して、頑張って入ったそれなりに偏差値の高い大学。それだって今ではすっかり日常の一部と化した。平日と休日を繰り返す毎日、じっくり進行していく講義と教鞭を執る講師たち。そして必死にどんぐりの背並べを誇り合う生徒。そして、劇的さ皆無でなんにも始まらず変わらない私の存在。

 つまらない、変わらない。

 もう、もう慣れ切った。

 新鮮でおいしいビュッフェだって、味わい尽くせばみんな一緒だ。日替わりメニューとかの多少のスパイスなども、あっても案外代わり映えしない。だってそうだろう、物珍しさが持続するのは最初の一口を食べるまで。結局最後には自分の好物に流れていく。

「ん……ああ……」

 夏に差し掛かった不愉快ないつもの朝。相変わらずの倦怠感が全身を苛んでいた。寝室とリビングを分ける薄いドアの向こうからは、生活音と共に誰かの気配がしている。おかしいな、私の家に誰か居ただろうか。私は独り暮らしじゃなかったろうか。眠気の覚め切らない頭で意識せずに自分が寝ている逆側をまさぐる。傍らにいたはずの誰かは居らず、若干の温もりだけが残っていた。

「はあ……」

 寝室であるこの部屋には私以外誰も居ない。およそ生物らしきものは背の高い観葉植物くらいで、他には机やパソコン、ラグマットなどの無機物だけ。

「全部夢ならいいのに」

 二度寝のポジショニングについている体で目蓋を開けるのはとても難儀なことだ。身じろぎすら怠く感じる体では込み上げてくる欠伸を噛み殺すことも出来ない。大きく口を開けて酸素を取り込んだ。相変わらずの無味にうんざりする。

 鼻孔をくすぐる香ばしい匂いに何かが焼ける小気味よい音。あどけなくてかわいらしいリズミカルな鼻歌。かちんかちん、食器同士がぶつかって鳴っている。察するに、扉の向こうにはカルテットかクインテットの楽団がいるらしい。朝だって言うのに良くもまあそんなに動けるものだ、天と地がひっくり返ったとしても、私には到底真似できないだろう。

 しばらくすると調理の音らしきものは止んだ。スリッパのぱたぱた鳴る独特の響きを伴って、誰かがベッドの置かれた寝室へ近づいてくる。こんこんこん、いつも通りノックは三回。開け放たれるドアの向こうには、同居人が立っていることだろう。ベッドの上でもぞもぞと動き、暑くて蹴飛ばした毛布を頭から被る。朝食が並んでいるだろうリビングの方は見たくなかった。

 日常にするにはまだ、慣れない。

「おねえちゃん、朝ご飯できたよー、起きてー?」

 毎回おもむろにベッドへと歩み寄って来て、ゆさゆさと優しく揺り起こしてくれる。面倒臭くないのだろうかとひそかに思うのだが、声色から察するにどうやらそうでも無いらしい。もう三か月以上こうされているから、寝ているか起きているかの判別なんて多分容易だ。狸寝入りなどはとうにバレているだろうし、重い腰を上げずに反応しなければ。

「……ううん、ごめんまだ、無理」

 途切れ途切れで呟くと、ベッドの近くに佇む彼女の呆れを僅かに含んだ湿っぽい吐息が室内に満ちていく。落胆させたくて子供みたいな行動をしている訳では決してない。

「そっか、わかった。じゃあラップしとくね。冷めたらレンジでチンして食べてね」

「うん……」

「んじゃ、そろそろ時間だから行ってくるねおねえちゃん!」

 離れていく手の温もりと柔らかい透き通った声。生返事をひとつ渡すと、寂しげな溜息で返された。ゆっくりと足音が私から遠ざかっていく。やがて金属の擦れ合う無機質な開閉音が鳴り、部屋から人の気配は消え去った。

「あの子も大変ねえ……」

 被っていた毛布を外すと、ブラインドの隙間から流れてくる風が頬を撫でる。風鈴が無くても感触で分かる。今日も同じように穏やかで、だからこそ劇的な変化など訪れるべくも無いと腑に落ちてしまう。手で以って物理的に目を覆って、澱のように溜まり始めていたやるせない感情を枕の隅へと吐き出した。

「そんな風にされたってさ、どうすりゃいいのよ……」

 言葉にすることで爆発する前に体外へと放出してしまおうとしたのだが、様々な感傷が邪魔して上手くいかない。苛立ちを慰めようと心の赴くままにシーツを握れば、彼らは瞬く間にしわくちゃになって、己が身の苦痛を訴える。いたい、いたいよ、苦しいよお、口ずさむように呻き出す。

 あーあ、馬鹿みたい。

 みっともなくもがいちゃってさ。人間に勝てるはずないのに。

 虚しい苛立ちを放ったけれど、それでも全てを嘲弄できるわけじゃないと分かっているから、なおのこと面倒臭さが増幅される。並列で稼働する思考が、声の存在は私の分身でもあるんだって教えてくる。がらんどうだからこそ、姿形のない他のものたちの声が聞こえてくるんだと根底の私が知っている。私はひびが入って水が抜けてしまう透明な瓶。人の営みを彩るための大切なやり取りですら、つまらないと思ったならベッドから離れられなくなる異常者だ。

「今年は何日ぐらいでまともに動けるようになるかなあ……」

 一年に一度、私はどうしようもなく動けなくなる。正確には自宅から一歩でも離れた途端、酷い立ち眩みと息苦しさが全身を支配する。しかも自宅から出なくとも軽い倦怠感と頭痛、微熱があるからより始末に負えない。だが不思議と自分のベッドの上だと和らぐため、この不調に見舞われたときには日がな一日を布団に包まって生活している。

 何時からかは覚えていない、最初は小学五年生とかだったろうか。切っ掛けすらもあやふやだけど、長きに亘ってこの病気とも言えない病気と付き合って来たのは確かだ。幸いなことにお医者さんや学校の先生、数少ない友達もみんなそれなりに理解のある人たちだったから、社会生活に関しては然程苦労はしなかった。それに長くて一週間、短くて二日。他人に移らないインフルエンザだと考えればそれほど辛くもない。

 だから苦しさを感じるのは別にあるのだ。謎の病魔が襲うたびに満たされていないのを実感してしまうこと。熟れていない果物を齧ったあの感触。ああ、私って本当に駄目な子だなあって、そう思ってしまう。こんな病気になってしまったのもそうだけど、それよりも諦めたような家族の表情の方が、言いようのない痛みを引き起こす。彼らが心の隅に仕舞おうとした感情を拾ってしまうせいで、より一層解消できない自責の念が降り積もっていく。

「あー……やめやめ。考えない考えない」

 押し寄せる病んだ想像を振り払おうと、布団に体を預けながら、虚空へ手を差し伸ばして空気を掴もうと努力した。目一杯手の平を開いたけれど何も手に入らない。文字通り空を切った指先はやる気を失って柔らかいマットレスへ一目散に下降する。吸収し切れなかった衝撃が周りに伝播していき、微弱な振動は私の体を二秒揺らす。繰り返してきた退屈な一日に辟易しつつ、惰眠を貪るためにまた目蓋を閉じた。

「起きたくないな……」

 食事の準備が出来ているのだと分かっていても、甘く滴る樹液の如き欲には勝てなくて。毛布に包まれながら水底みなそこへ意識は沈んでいく。



 色の無い空と雪の無い地表が物悲しい、寒風吹き荒ぶ冬の終わり。桜の蕾があくびでもするかのようにゆっくりと開き始めたころ、独り暮らしのこの住まいに一滴のインクが落とされた。

 適当にスマホを弄ってゲームで遊んでいたとき、突如画面が遷移した。ディスプレイ上に映し出された文字列に心底から溜息を吐く。嫌悪感が手伝って、半ば無意識にうちに切断のボタンに指が乗る。しかし出ないと後々面倒になるのも間違いない。仕方なく通話ボタンをタッチし、耳を近づけなくてもギリギリ聞こえるだろう絶妙な距離にスマホを移動させた。

「もしもし」

陸深むつみ、元気だった? すぐ終わるんだけどちょっといい?」

 出なければよかっただろうか。瞑目した後、静かに息を吐く。

「……手早くね。何?」

菜々瀬ななせがね、あの中学校受かったのよお!」

「へえ、そうなんだ。あのってどこの?」

「あなたの住んでるところからすぐ近くの名門一貫校よ!」

 親からの電話なんて大抵はろくでもない物だと知っていた。それでも落胆を隠し切れない。期待なんてしていなかったのに、裏切られた心地になる。

「……ふうん。で、本題は?」

「ああ、そうね、手早くですもんね。それでね、せっかく親族が、しかもお姉ちゃんが東京にいるんだから、それに二人ならお母さんたちも安心するし、どうせだからあなたが借りているマンションに住まわせたいの。構わないかしら?」

 断るとも思っていない傲慢さが鼻につく、うんざりする、刺激より嫌悪が先に立つ。これから先の生活を想像すると頭が痛くなる。こめかみを強く揉みながら出掛かった溜め息を噛み殺す。

 親は、勝手だ。ひらひらした服の裾を強く握り、激しい苛立ちを抑え込んだ。

「へえ、良かったね。でもさ、そうやって前置き言ってるけどさあ」

 喋るうちに怒りのヘドロが胃の中に溜まっていくのを感じる。これではいけないと思っていても結局コントロール出来なくて、最後にはいつものようにえずいてしまった。

「拒否権無いでしょ、私に」

「そんなつっけんどんにしなくてもいいでしょう? 悪いことを教えてるわけじゃないし、何よりこれはあなたにとっても良いことなんだから!」

 棘を隠さない私を甘ったるく宥めようとする母に嘆息せざるを得ない。この人はいつもそうだ、私の事など二の次で、自分の考えが正しいのだと信じて疑わない。人類は皆すべからく明るいべきだと強制してくることにも疲れる。思想の差異において、私が異端なのか家族がおかしいのかは不明だが。

「はあ……それで、何時いつ来るのこっちに」

「そうねえ――」

 学校の始まる二週間前ぐらいには、環境への適応が……必要な部分だけを切り取って、後は聞き流す。それにしても、菜々瀬はどうしてこっちに来ようなんて考えたのだろう。

「……まさかね」

「あら、何か言った?」

 いやいやまさか。幾ら何でも有り得ない。不埒な思考がよぎった頭をぶんぶん振って、携帯をぎゅっと握り締める。

「ううん、続けて」

 乗り気でないにも程があるが、親からの支援を受けつつ大学に通っている以上、選択の余地など子には一切存在しない。しかも菜々瀬が進学する学校は私の借りた住まいからほど近く、まさにうってつけの立地なのだ。更に、一人増えても生活できるそこそこの大きさの部屋で、かつ血の濃い関係である『姉妹』だなんて条件が重なれば、突っ撥ねる理由を捻り出したところで、駄々を捏ねる子供と同じくらい無意味なのは考えたくない私でも分かった。

 多少の生活費アップと引き換えに安息の地を失うのは痛い。けれど仕方ない。嫌いな実家のパーセンテージが増えるだけ。うん、だから仕方ない。

「じゃ、近くなったら教えて。こっちにだって準備期間の一つや二つは欲しいし」

「ええ、そうね。あらっ、どうしたの……ああ、うん、分かったわ、聞いてみるわね」

 電話越しに聞こえる声色の変化に察した。

「ねえ、菜々が代わりたいって、もう少し時間あるかしら?」

 首筋が強張っていくのが分かった、代わられる前に捲し立てる。

「ごめん、今ちょっと忙しくて、また今度で。うん、ごめんねって言っておいて。それじゃ、はい、じゃあね」

 詮索される前に素早く電話を切って、罪悪感から逃げるようにソファーへと飛び込んだ。床を跳ね転がっていく携帯は私の感情そのものだ。溜め息は吐きたくない、背中に重たいものがのし掛かる。

 エスカレーター式の超有名校への入学は、近代における順風満帆な人生のレールに乗ったと言っても過言ではない。誇りにするべきなのだろう、本来なら。

おも……」

 無力なはずの空気たちが、確かな質量を持って深く圧し掛かる。ずきり、胸がしくしく痛む。ブラの締め付けなんかじゃあない。私の血肉の奥深くに眠ったものが呻いている。

「私は……添え物かあ……」

 両親にとっての一番は菜々瀬。年齢、才覚、人望。彼女は期待されるために産まれて来た、天上に光り輝く星そのもの。

 けれど、私は違う。いつだって私は添え物で、なのにいつも中途半端で、ちゃんとした副菜にもなれていない。誰かを頼らなきゃ生きるのが辛い私と、一人で十二分に生きていけるほどの器量を持った菜々瀬じゃ、月とすっぽんですら比較対象に出来ない。

 生きる舞台が違うんだ。用意されたステージのランクが。

 小学生と見紛うくらいに華奢で小柄で繊細で、壊してはならない完璧さを持ち合わせていて、煌びやかで色鮮やかで見目麗しい世界に生きる彼女が真に求める物は何か。昨日の晩御飯を思い出すより簡単で生々しい触感は、脳と心の小さな隙間に鬱陶しくまとわりついてくる。知っているからこそ見据えたくない。軽々しく受け入れてはいけないその本質。想像に難くない"それ"。偏見を抱きつつも少しずつ世間は様々なものに寛容になってきている。だがそれでも、私が抱き締めた一房の言葉を、答えとして無造作に投げつけるのは違うのだ。

 抱え続けて来たもやもやの正体は嫉妬なんだろうか、羨望なんだろうか。どれも近い所を走っているけどずっと平行線で、交わるところには無い気がするし、何よりも。

「私は……」

 陸深という存在証明のある『私』でなく、無機質で不特定な『あなた』に置き換えられてしまうのは、やっぱり慣れないし、やけに苦しかった。



「――ちゃん、おねえちゃん、……また寝てるのかなあ?」

「ん……ああ、寝落ちてた……」

 ゆさゆさと揺り起こされて最初に目に入ったのは、タブレットで再生していたロマンス映画で、とっくの間にチャプター画面に戻っていた。特典映像すら通りすぎているなんて、菜々瀬が帰って来ているなんて一体どれくらい寝ていたのか。ぐっと腕を伸ばし、体の緊張をほぐすついでにイヤホンを外して、横目でちらりと窓を見やる。ブラインドから差し込むビビッドな夕陽は、一日の終わりの訪れを指し示していた。

「……起こしに来たってことはもうご飯とか?」

「う、ううん、特に理由はないよ。何となく、なにしてるのかな~って。それに流石に晩ご飯にはまだ早いと思うよ?」

 ちらりと壁掛け時計を見る。時刻は五時半を回ったところだった。

「そうね、夕方だもんね」

「ん~、もしかしてお腹すいた?」

「あーそうかも。十時くらいに朝昼兼用で食べちゃったから」

「もー、体調悪いときはちゃんと生活リズムよくしなきゃだめなんだよ? まあいいや、んじゃあちょっと早いけどご飯作ろっかな。今日は何のご飯がいい?」

「そうだなあ……じゃあオムライスで。ご飯も残ってるだろうし」

「うん、わかった! まっててね!」

「わかった、ありがとね」

 生活を送る上でのありふれたフレーズと味気の無い相槌を返しただけなのに、毎度ぱあっと花咲くみたいに顔を綻ばせるのが不思議で仕方ない。だからだろうか、ぱたぱたと春風みたいにスリッパの音を鳴らしてキッチンへと歩き去っていく菜々瀬を、何の気なしに見つめてしまった。

 それほどまとめていない毛先を軽く散らした、目にかからない程度の素朴なセミロングとショートのあいのこみたいな黒髪。子供っぽさの残るやや伸びた後ろ髪は、華の飾りがあしらわれたヘアゴムによって短いポニーテールに結ばれている。しみやそばかすの無い透き通る肌。鳶色の瞳は垂れ目がちで、大きすぎない整った鼻梁とよく調和している。芸能人のように人を惹きつけ離さない魅力ではなく、傍にいるだけで安らげて幸せになる、そんな雰囲気が菜々瀬にはあった。

 素朴であどけない少女という印象。芋っぽいと言えなくもないが、意外とのんびりしている気性がそうさせているのだろう。身内からの贔屓目を抜きにしても、彼女の整った容姿は磨けば想像以上に光り輝くのだろう。

 良い子、なのだと思う。

 多分、掛け値なしに。

 冷たい私には、確証なんて一切、持てないけれど。

 部屋のドアが閉まるのだけはちゃんと確認して、天井を見上げながら私は大きく溜め息を吐いた。シーツはまたぐしゃりと歪む。いたい、いたいよ、やめてよう。うるさい、黙って、耳障りな声で喋らないで。

 やきもきするんだ、ルームシェアによって格段に安くなった住まいが姉妹仲の良さを無条件に首肯しているようで。苛立ちを拳に込めて枕にぶつけても、ぼすんとくぐもった羽毛の音がするだけで、痛みも無いし気だって晴れない。

 うつぶせになり悶々としながら枕を凹ませていれば、こんこんこん、規則的な音が響き、やがてゆっくりとドアは開かれていく。なんだ、急に。すぐさま寝転がって仰向けになり、何でもない様を演出した。心の気分の悪さを気取られたくないからって、こうまで怯える必要があるのだろうか。

 呆れるくらいに滑稽だけれど、この生活は永久じゃないから。虚勢を張り続けていればいつかきっと、先の見えない暗闇からだって抜け出せる。醜い自己暗示に縋りながら私は、明日の風景をも妄想している。

 いつか、笑えなくなりそうだ。

「んんと、どうしたの?」

「ねえねえ、もういっこ、お願いしてもいい?」

「法外な要求じゃなきゃ別にいいけど」

「えへへ、やったあ! あのね、おねえちゃん、後で勉強教えて欲しいな!」

「うーん、自信ないけどねぇ。まあいいか、じゃあ明日はハンバーグね」

「やった! じゃあらためまして、ご飯を作ります!」

 可憐な少女が花畑をスキップするかのようなドアの閉まる音に、たちまち自嘲が増幅されていく。内心で口汚く痛罵しているときだけがささやかな癒しの時間だ。

 交換条件を持ちかけてあしらおうとしても、常に彼女は私の想像の上を行く。二人きりで密に会話せざるを得ない状況を想像すると気が重い。いつしか怒りは収まり、私の全身は倦怠感に包まれていた。



 日々の過ごし方はある程度決まっていて、飲み物を取ってきたりトイレに行ったりする以外は大体ベッドの上でおおよその時間を過ごすことになる。今日で三日目、未だ回復の兆しは見えない。どうやら今回は比較的長いようだ。去年、一昨年は大体二、三日で快方に向かっていた。環境の変化によって悪化することもあるから……今年は多分、きっとあの子のせいなのだろう。

 臥せっている間に発生するだろう面倒事には、あらかじめ対策を講じている。大学の単位に関しては代返を頼むことで対処し、バイトも都合の付きやすいものを選んでいる為、長期の休みでもあと腐れが起きないようにしている。インスタント食品や飲料のストックなどを欠かさないことも肝要だ。自分が楽になる為の重要なポイントは、関係性の構築に時間を惜しまないことだ。培ってきた時間は必要な時に放出する。堕落に消費するのは如何ともし難いが、これまでに選び抜いてきた全てに感謝できるのもこの時だけだ。

 停滞した私のベッドの中には、惨めさと甘えがたくさん詰まっている。けれどそれは、決して悪いばかりではない。選ぶことを後悔しなかった私の全部のお陰で不安なんて感じずに、朝から夜まで一つも変わらずに穏やかに寝転べているのだから。

 マイナス方向の経験が蓄積されていくに連れ、誰かに責任を擦り付けているときが一番自分の存在を感じられるのではないかと思うようになった。これはきっと一時の気の迷いなんかじゃない。病に臥せっていれば身内や友人は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。普段じゃ考えられないくらいに、不必要なくらいに。

「おねえちゃーん、もうすぐご飯出来るよー。適当なところでやめちゃってね」

「あーはいはい、おっけー」

 今日は熱も高くなく、頭痛もそれなり。多少ベッドから離れたところで肉体はちゃんと機能する。暇つぶしを兼ねたテレビゲームも四六時中やっていれば飽きが来る。丁度いいタイミングだと思い、セーブをして電源を落としチャンネルを切り替えた。

「ふ、ああ……」

 退屈さからか、欠伸が宙に浮かんだ。晩ご飯が出来上がるまでリビングに設えたソファーに体を預けつつ、眠たげな様子の目蓋を擦りながら、ぼんやりとニュースを眺める。報じられているのは気が滅入る話題ばかりだったから、番組表も見ず適当にチャンネルを変えた。リモコンのボタンを押下すればぱっと画面が明滅して、子供向けのアニメ番組が映し出された。さっきと同じようにぼんやり見つめていると、台詞と同期して画面上を飛び回る、すっきりした感情を放つ主人公の姿に口端が緩んでくる。

「ふふ……」

「どうかした?」

「いや、懐かしいなって思って」

「すっかり長寿番組だもんねー」

「そうだったっけ、続き物じゃないと思ってた。途中で見るのやめちゃったからかな」

 適当に相槌を打ちながら、アニメの主人公の台詞に耳を傾ける。『俺は俺の歩く道を行く!』、敵に向かって大言壮語を叫ぶ彼に想起するものがあった。

 私の歩く道は一体何色なんだろう。

「おねえちゃん」

「ん?」

「となり、いい?」

 特に断る理由も無かった。中央に陣取っていた重たい腰を上げて、二人掛けのソファーの片側を譲る。

「お好きにどうぞ」

「えへへ、ありがと」

「……アニメとか結構好きなの?」

「うーん、そうだなぁ……普通かな?」

「普通ねぇ、まあそんなもんよね」

 ときどき二言、三言を交わしつつ、アニメを横目で流し見ながら時間を過ごす。アニメも終盤に差し掛かったとき、菜々瀬が神妙な面持ちでこちらを向いた。

「そう言えば前から聞きたかったことがあるの。……聞いてもいい?」

「別に良いけど、何?」

「おねえちゃんって彼氏、いるの?」

 いつかそう来るんじゃないかと思っていた。いつも身構えていたから特に慌てることもなく、テレビから目線を外さずにしれっとした顔で言った。

「ああ、もう別れたわ」

 ひたすらにポップな歌詞のエンディングテーマが物悲しく聞こえる。そう、別れた。既に遠い過去の話。一年だったか半年だったか定かじゃないんだから、私にとってはもう遥か昔のこと。

「どうして?」

「どうして……だろうねぇ。分かんないのよね、私も」

 真剣な顔で問われても困ってしまう。記憶の海を泳いでも泳いでも本当に辿り着けない、味わったはずの実感を思い出せないのだから。食い下がる菜々瀬に上手く説明できなくて、曖昧な言葉で濁した。

「なんか、違ったの。なんかが、ね」

 感覚の話なんだ。満たされない自分を変えたくて私は今まで色々な方策を練ってきた。男性との『お付き合い』もそのうちの一つだった。

 それなりの回数告白されて、付き合って、好きになろうとして、やることやって、キスをして、そして別れてきた。それでも男と女というだけの結びつきじゃ結局満たされなかった。満足が何処にあるかを関係に求めてきたけれど、まだ何も私は得られていない。勿論、そこまでを伝える気は無いけれど。

「そう、なんだ」

「ロマンスを期待してたわけじゃないけれど、どうもピンと来る人が居なくてねえ。未だに菜々瀬の姉ちゃんは独り身なの」

 適当にリモコンを弄りながら、嘲るように呟いた。

「あんまりいい女じゃないのよ、多分ね」

 実際そう、思う。喋る言葉がとろんと潤んでいくのがその証拠だ。自らの欠点を艶っぽく伝えている感覚が気持ちいい。なのに、

「……そんなこと、ないもん……」

「え?」

 顔をしかめ、驚きを口にしてしまう。悲劇の独り舞台に横やりを入れられたショックと、予想外の奇妙な反応に。

「ううん、なんでもない! そろそろご飯並べるね、晩ご飯にしよ!」

「ああ、わ、分かったわ。お願いね」

 何かを喋っているのだろうが鮮明でなくて聞き返したけれど、返ってきたのは後味の悪さと私の愛想笑いだけ。キッチンに走り去る彼女の背中を、狼狽えながら見送って、思う。

 本当に聞こえていなかったのか?

 違うとしたらやっぱり、そうなのか?

 だとしたら、どうすべきなんだ?

 いや、でも、違うだろう、そんなわけはないだろう、違う、違うだろう、そうだろう、ねえ私よそうでしょう?

『見ない振りをしているだけじゃないのか?』

 ノイズに塗れたテレビの音声が、意味を持った言葉に変わる。いやだ、嫌だ。認めたくない。沸き立つ疑念に思考が支配される前に、頭を大きく横に振り、内から外へ弾き出す。下卑た悪魔の耳打ちを打ち消したい。

 私は確証を得たかっただけだ、耳にした情報の裏付けを成したかったのだ。本当はしっかり聞こえていたのかも分からないが、それでも仮定を鵜呑みにすることを恐れた。慌てながら料理の盛り付けを行っている彼女を後目に、まさか、まさかねと繰り返す。

「なんで、私なのよ」

 眩暈がする、ぎしぎしと頭が軋む。体温計を探すのも面倒で、額に手の平を当て熱を調べた。ほんのり熱い、気がする。冷却シートでも貼れば変わるだろうか。いや、何も変わりやしない。だって私たちの何かが動こうとしているのか、相変わらずさっぱり分からないんだから。

 寝室のベッドは一つだってその場から動いていないのに。誰も変化なんて望んでいないって言うのに。どうしてあの子は私に近づこうとするんだ。

 耳を塞ぎたい。扉の外から聞こえてくる生活音が三半規管を狂わせてくる。すぐさま全身を包み込むように布団を被って、あの音が消えるまでじっと待つ。その間の私に出来たのなんて、食欲を湧かせられるようにとひたすら自分に念じることぐらいだった。



 熱のこもらないいつもの夜。

 妙に熱く細い感触が背中に走った。

「…………んっ……」

 興奮したような息遣いが聞こえる。背後の温もりがうごめく、同期するようにもぞもぞと布団が揺れる。

 ああ、今日もいつものか。

 しかも体調不良でもお構いなし、か。ほとほと呆れる。気付いていない振りをするのにも限度はあるというのに。

「おねえ、ちゃん……」

 耳たぶにかじりついた苦くも艶ややかな声は、芋虫のように這いながら鼓膜へと進んで行く。そもそも何故、二人で一緒のシングルベッドに寝ているのだろう。菜々瀬だけのベッドは当たり前だが存在しており、妙に広い寝室には彼女用の机とロフトベッドが設えられている。だと言うのに彼女は連日私のベッドへまるで冬場の猫のように入り込む。二人で寝るというのは身動きが制限されているからかなり窮屈だし、何より私は望んじゃいない。なのに何故だか彼女の一緒に寝たいという願いを拒めなかった。

 最初は「怖いテレビを見たから」、そんなありきたりなものだった。寝る時間は別々だし、それで安心できるならと認めたら、次の日には枕がそのまま増えていた。そろそろ自分のベッドで寝たらと伝えても、神妙な顔で首を横に振るばかりで埒が明かず、結局なし崩し的に寝始めてもう二か月は経つ。

 異変に気付いたのは一か月前、眠りが浅くて目覚めてしまったときだったろうか。私の体に触れようと苦心していた彼女の存在を認めたのは。好きだったはずの夢に落ちる間際の夜が面倒になったのも同時期だった。

 本当に最初の頃は触る度にばっ、と勢いよく指を引っ込めていた。静電気でも走ったのかと錯覚するくらいの過敏な反応だったのだが、繰り返されていくうちに行為は日増しにエスカレートしていった。段階を踏んでいるのか、手と顔を私に寄せているのだろう熱量を背中に感じ、次には優しく柔らかく抱き締められ、今ではもう寝ているときの私は玩具そのものと変わらなくなった。

 今日も荒い息遣いが耳朶じだを打つ。内に秘めたなにかをこらえるような熱い吐息がうなじに吹きかかる。ぞくりとする、毎回。つうっと背中をすべる菜々瀬の指先がこわい。薄手のシャツに浮かび上がった肩甲骨の形を確かめられる。代替行為なんだと思う、手に入れられないからこその。だから毎回、震えるその指先で、届かないものを求めて、菜々瀬は苦しみ続けている。

「なんで……やだ……だめ……」

 毎回。そう毎回。

 毎回、毎度、繰り返すたび、消え去りそうになりながら、駄々っ子のように救済への呪文を唱え続ける。呪縛染みた彼女の想いを解いてやることは私には出来ない。普遍から外れてしまうことには抵抗感があったからなおのことだ。

 泣いているだろう菜々瀬を抱きしめて、優しく頭を撫でてやるべきなのか。もし彼女が子供の泣き方をしているのなら、選択肢の一つにだって挙げられるだろう。けれど今の彼女は大人だから、ここで応えてしまえば肯定しているのと同じだから、背中にぐっと力を込めて生臭い息と意思を遮断する。

 見て見ぬ振りをしてやり過ごす。姉妹を姉妹たらしめている条件を守らなくては今までの全てが無駄になってしまうから、今日も私はそうして過ごす。

 でも、この先ずっとこうして居なければいけないのだろうか。

 もう十分すぎるほど我慢したよね?

 自分に言い聞かせれば自ずと欲しているものが見えてくるものだ。

 夜が長く感じられるのはもうやめたい。そうだ、小声で意思を発散しよう。聞こえていても聞こえて無くても気は晴れるはずだ、そう信じて呟いた。

「……もう、やめて」

「えっ」

 馬鹿みたいに素っ頓狂な声が頭の後ろから聞こえたのを合図にして、急速に意識が眠りへと落ちていく。一体何がしたかったんだろうと考える暇すら無く、彼女の顔すら見ることも出来ず。いやな心地良さと共に浅く静かにまどろんでいく。



 目を覆う薄皮を貫くぼけたような光が、揺蕩っていた私の意識を現実に連れてくる。何だか久し振りだ、明るさによって目が覚めるなんて。このところずっと菜々瀬に起こされたり、二度寝を繰り返して昼に起き出すような堕落した生活だったから、他のなにかに頼らずに起床できただけで、まるで自分がスポーツにでも勤しむような健やかな人に変化したかと疑いかけたほどだ。

 私じゃないみたいだ。余程熟睡できたのか、持病から来る倦怠感や発熱だって感じられない。調子が戻ってくるのはそう遠く無いだろう。目を瞑りながらゆっくりと体を起こし、腕を伸ばして強張った筋肉をほぐす。携帯のディスプレイに表示された時刻はまだ七時だった。

 しかし、どうしてこんな時間に起きれたのだろう。夢から現に自分が戻ってくるに連れて、拭えない違和感が襲いかかる。ブラインドは下げていたはずだし、寝た時間だって決して早いとは言えないのに。

 何故だろう、思考の合間にふと窓の方を見てぎょっとした。そこには菜々瀬が悄然しょうぜんとした面持ちで立ち尽くしていた。俯きがちで、私をじっと見つめている。一体いつからそうしていたのだろう。まさか、まさか、聞こえていたの。疑念は重なり合い、やがて真実へと変わっていく。

 心当たりなんて、昨日の夜以外にあるだろうか。だからこそ努めて平常心で、笑顔を絶やさずに、自分を律して、震えが走る声色で言葉を紡いだ。

「えと、どうしたの?」

「ごめんなさい……」

「え? 謝られるようなことしたっけ」

「ごめんね……おねえ、ちゃん。私のせいだよね」

「何の話かよく分からないけれど……」

 口元に曖昧な微笑みを付加すれば乗り切れるだろう。答えを探すには時間が足りなさ過ぎる、そう思っていたのだけれど、そう現実は甘くはない。

「……とぼけないでよ。おねえちゃん」

 急、だった。陰鬱さとは裏腹に、菜々瀬の口調は私を鋭く責める。見透かされているのが怖いのか、私の視線は常に宙を彷徨っていた。

「どうしたの、急に。菜々瀬が謝るような話じゃ」

「ちゃんとお話ししてよおねえちゃん。ぜんぶ、知ってるくせに」

「それは菜々瀬の方でしょう、私は本当に何も知らないし」

「うそ」

「嘘なんかじゃ」

「じゃあわたしの目をみて、いって。そしたら信じる」

 目と目を合わせようと努力した、けれど。

「ほら、出来ないんだ。知ってた、知ってたもん」

 怯えるように視線を逸らすことしか私にはできない。菜々瀬の瞳が、菜々瀬の心が、菜々瀬の真摯さが怖かった。いくら手を伸ばしても届かなさそうな、指先から食われてしまいそうな、まるで夜の海のような深さがそこには広がっていた。

「ほんとのこと、言ってよ。全部知ってるよ、わたし。どうしておねえちゃんが毎日辛そうな顔をしてるのか」

「知ってるって、何を」

「愛して欲しいんでしょ。それぐらい分かるもん。分からないと思ってたの?」

 胸が、心が、軋む。

「違う、そんなわけ」

 歯切れよく喋れない。声が上擦る。こんな気持ちをぶつけられるなんて、産まれてこの方初めてだ。彼女は一体どれくらいの時間耐え忍んでいたのだろう。私の全てを知っていると嘯く菜々瀬に否定を重ねたい。

「わたしよりなんでもできるくせに。ずるいよ、おねえちゃん」

「違う、違う、何を、違うに決まってるっ」

 あなたの言葉に頷くことは出来ない。ずるいなんて言われたら尚更だ。私のことを知ったような口ぶりに、やり場のない憤りを感じる。否定するために菜々瀬に食って掛かった。

「馬鹿にしないでよ、菜々瀬」

 決めつけないで、理解しようとしないで、私の心を見透かさないで。近寄らないで、私に。私は産まれて初めて、心の底から菜々瀬を見据えた。綺麗な目、端正な顔、整った鼻梁、ふっくらした頬。同じようで、いつもと違う。瞳孔はいつもより小さく、視線は僅かに上にぶれていて、上下の唇は閉じられることなく微かにわなないている。何より目を引いたのは、彼女の可愛い顔が血の気が感じられないほど蒼白だったこと。もしかしてずっとそうだったのだろうか。可哀そうに、けれどもさ。私も限界なんだ。穏便に済ませられる方法なんて思いつく訳もないんだ。この気持ちを解すものなんて、戦うしか術がないって知ってるんだから。だから私は、同じように震える唇でもって、手にした鋭い槍を、菜々瀬に突き刺した。

「私は、違う。あなたとは根っこから違う。私の欲しいものを全て持っていたあなたなんかとは、違うの、一緒にしないで、お願いだから」

 あの子の顔がくしゃっと歪んだ。途端、後悔が押し寄せてくる。それでも、肯定しかけたことを否定しなきゃ、だって私は。

「なんでも持ってる癖に、ふざけないでよ。何で私なのよ、私以外だって、良い筈なのに、私に、私なんかに縋らないでよ!」

 私は、あなたの事が世界でいちばん嫌いなのだから。

 対極に置かれたものたちは磁石の如く引かれ合う、そんな馬鹿みたいな嘘八百、一体誰が提唱したって言うんだろう?

 反発して離れてしまいたいくらいなのに、無限に距離を取りたいのに。指摘されるたびに正鵠を射抜かれて、言い返せなくて、もう怒鳴ることしか残されていなくて。思えば菜々瀬が産まれたときから私は満たされなくなった、愛されていないと感じるようになった。確証なんて無いし、八つ当たりかも知れない。姉として正しくないと分かっている、だからこそささやかな抵抗を続けてきたのに、これじゃあ私は。

「私は、菜々瀬のことを、好きに、なりたくない」

 だって、限界だ。悪い夢だ、こんなの。

 欲しいものと永遠にお別れしなきゃ仲良くなれないんだ、私は器用じゃないから、そうすることしかできないから。

 唇を固く真横に引き絞りながら揺れる瞳で菜々瀬を窺う。

「おねえちゃん、わたしは、その」

 たどたどしく喋る姿は幼い菜々瀬を更に幼く見せる。それすらも私にとっては不愉快だった。私が欲しいのはそんなのじゃ、ない。唇から舌打ちが零れ落ちる、どうしてここまで冷たくなれるのか不思議なくらいに。

「わた、しは。いつもの、おねえちゃんが、いい、の」

 いつもって、何だ。

 堰を切ったように溢れ出す鬱積した気持ちの全てを叩き込む。

 何も、これからのことも考えずに、溜め込んだ鬱憤を晴らすために。

「――っ、私にどうしろって言うの、菜々瀬に敵うはずのない私に何が出来るって言うのよ、答えてよ、答えなさいよ、どうしたのよ天才なんでしょう?! 私にも分からないこの気持ちの正体を教えてよ!」

「わたし、わたしは」

 ノイズまみれの壊れたラジオが二つ、並ぶ。ベッドの周りを不協和音が飛び回る。顔がどんどん歪んでいく。こわい、こわい、正気に戻ったときが、こわい。

「何で私なのよ、私は、こんな思いしたくないのに、何で、なんで」

 痺れる舌ともつれる心、裏返る声と嗚咽混じりの吐息が枕の裏に吸い込まれていく。ロボットと同じ銀色の唇で熱の篭もったやりとりを繰り返す。

 終わったんだ、全部。私たちが巻き起こした嵐が、深い深い私たちのダムをあっという間に埋めてしまったから、あとはもう溢れるしかないんだ。

「ななは、おねえちゃんが」

 分かっていたことだったから。口出し出来るスピードじゃないんだから。

 だから。

「すき、なの」

 私の怒りと菜々瀬の悲しみが部屋に満ちる。十年と続いたごっこ遊びの終わりの時間が来たんだ。床を一直線に目指していく無数の涙だけが知っていた、ほろ苦い私たちの姉妹いつもの終わりを。

「私は――」



「――私は、どうしたらよかったんだろうね」

 枕に向かって胸の裡を吐き出す。こんなこと友人たちに相談できる訳もなく、私は暗澹とした気分を抱えながら布団の中で悶々としていた。

 私の言葉を聞いてからすぐ、無表情のままで菜々瀬は学校へと向かい、やがて朝、昼といつもと特に変わりなく時間も過ぎていき、夕方の今この部屋には私しか居ない。

「言い過ぎたよね……」

 もしかして私は吸血鬼なんじゃないか。気になって手の平を青天の昼が差し込む窓に向けて、冷血な私の血管の色を透かそうとしたとき、爪が割れていたことに気づいた。いつ欠けたのかも分からないけど、今の私にはぴったりだった。

「……いま」

 ばたん、部屋の外から大きな音がした。びくんと体が震える。

「はあ……」

 怒りの入り混じった大きな溜め息、ソファーに鞄を投げ捨てたかのような重たい音。私の知る限りでは一度も聞いたことは無いそれにおののく。なのに足音だけはしない、ノック無しでドアが開け放たれるまで、こっちに来たことすら気づけないくらいに。

「ただいま」

「あ、おかえり」

 険のある口調と、無機質な視線に気圧されてしまい、顔に貼り付けた微笑のテクスチャが自らのひくつく口端によって剥がれそうになる。

「話、あるから。ご飯食べたあと」

「え、ちょっと、待っ……」

「いいでしょ別に。今日はお弁当だから。早く食べて。もう遅いし」

 手にしたビニール袋の中をがさがさとまさぐり、自分の弁当を取ったかと思うと、私の手元へと投げ渡される。食べる場所はベッドではないし、食べ物を投げて渡すなんて普段なら絶対有り得ない。けど今日はそれが普通なのだろう。理由は簡単に分かるし、怒るだけ時間の無駄だ。


 味気ない食事を手早く済ませた私たちは、あのベッドのへりにお互い背を向けて座っている。夜の足音が近づいているこの部屋で、無言で座り続けてからもう何分が経っただろうか。心臓がきりきりと痛い。しくしくと引いたはずの頭痛がやってくる。だからこそ早く面倒事を処理してしまいたい。

「ねえ、話って何?」

 私から口を開いて会話を促す。身体ごと捻って菜々瀬の方を向いたとき、彼女は既にこちらに向き直っていた。

「…………」

「なんか言ってよ菜々瀬。話があるって言ったのはあなたでしょう?」

「……おねえちゃんに嫌われたくない」

「……別に嫌ったりしないわよ、べつに。言いたいことがあるなら、して欲しいことがあるなら出来る限り……」

「ねえ、おねえちゃんは?」

 まさか私に矛先が向くとは思っていなくて、二の句が継げなくなる。冷静に判断する能力を失いつつある脳で無理やり言葉を引きずり出した。

「え、と。私がどうしたの、私自身のことは関係ないでしょ?」

「だから、おねえちゃんはどうして欲しいの?」

「そんなのどうだって良いでしょ……? 別に」

「ううん、良くない。だって、なな知ってるもん」

 何をよ、と言いたかった。しかし続く言葉によって閉口する。

「前にお母さんから聞いたよ。いつからおねえちゃんが不思議な病気になったのか。十年前からだって。分かったんだ、なな。なながみんなにちやほやされるようになってから、急に病気になったんでしょ?」

「そんなわけ……」

「そうかなあ。ななはそうだと思うけどなあ」

 駄目だ、受け入れては。否定しなきゃ、理性を取り戻すために。私は必死に反証の言葉を紡ぐ。

「医者にだって分からなかったことが素人に分かる訳無いじゃない。私の苦労も知らないくせに」

「ふーん、そうかもしんないね。でもさ、年数とか主な症状とかいろんなものが合致してるんだよ。ほとんど正解だと思うけど。だってさ、おかあさんとかお友達とかがお世話してくれたりしてるときすごく嬉しそうだったじゃん。嫌いだって言うななが相手でも関係なく気持ちよさそうな顔してたじゃん。それも嘘なんだったら、おねえちゃん、それはすごくずるいことだよ?」

「それは……」

「何よりさ、おねえちゃんだけが大変なんじゃないんだよ。それぐらい、分かるよね?」

 言葉が詰まる。気道に水が流れたみたいな辛さが肺を満たす。

「ななが努力してないとでも思ってたの? おねえちゃんに好きになってもらう為にどれだけ頑張ったと思う?」

 ひとしきり喋り切った後、彼女は寂し気に目を伏せる。

「ななは偉いね、頑張ったねって言って欲しかった。大好きなおねえちゃんにあたまをなでなでしてもらって、ぎゅーってしてもらいたかった、たったそれだけだったのに」

 鼻をすする音だけが虚しく響く。

「なら、そうしてあげれば納得できるの、菜々瀬は」

「……もういい。そんなんじゃもう満足できないもん。こんなに好きになっちゃったんだもん。もうわかんないよ。何が良いのか何が欲しいのか」

「だったらどうすりゃ……」

「いいの。ななのことなんて別に。そんなことよりさ、聞かせてよ。ときどき起きてたことについて」

「……は?」

 余りに突飛過ぎて、我慢できずに眉をひそめた。そんな私の目付きを意に介すことなく彼女は続ける。

「もっと前から知ってたんだよね。おねえちゃんに、触ってたこと」

 ざあっと音を立てて、血の気が明後日へ飛んで行った。知ってた、知ってたけど何故私が責められなきゃいけないの。吐き出せ、舌がもつれ、徐々に痺れていく、その前に。

「……言うべきだったの? しちゃいけないよって、そう諭して欲しかったの?」

「ねえ、ななから言わなきゃいけないの? おねえちゃんが欲しがってるのに?」

 会話のキャッチボールなんてもう出来ない。する気も無いのかも知れない。私と菜々瀬で百八十度違う答えに何故だか腹が立つ。馬鹿にされたのとは違う、けれど彼女の瞳に宿る光から察する。軽蔑だ、あれは。怒りと苛立ちが積もっていく。言葉に色がついていく。烈火の赤、赫怒かくどの色に。

「答えてよおねえちゃん、ほんとはどうしたかったの。良い子ちゃんしてたのはななだけじゃないよ、おねえちゃんもだよね?」

「いい加減にしなさいよ、菜々瀬。私は別に何も求めてない。あなたの勝手な尺度で私を測らないで」

「へえ、それが本音でいいんだ? おねえちゃんは良い子だね、ほんとに。誰かに愛されたいんじゃないの? 違うの?」

 上から目線で諭すように投げかけられて肌身でわかった。努めて平静を装ったって無駄だ。

 人間は、自分をうまく制御できない。

 火が付いたのだ、ベッドに倒して、獣のように襲って、蹂躙してやりたい、情け容赦なく猛烈に罵倒してやりたい。そんな、気分を。

 確固たる思いをぶつけて全てを終わらせたい、崖っぷちぎりぎりのところで、持てる生命のすべてを削り合いたい。次々と浮かび上がる欲望がどんどん弾ける。きっと菜々瀬じゃなければ駄目だった、なんてことはないんだ。私に最も近い場所である、ささやかな学習机一個分のこの隣で、嬉しそうに頬を緩ませながら寄り添っていたのがあの子だっただけ。何も難しいことは無い。

 でも、それを許容しては、いけない。普遍性の人間の輪から外れては、いけない。理性の残滓が私を繋ぎ止める。

「違う、そんな訳、無いでしょ!」

「ふふ、知ったかぶりするんだ。ならやーめた」

 菜々瀬はくすくすと人をたぶらかすようにいやらしく笑う。私を刺す視線、艶めかしく、かつ舐るような質感、昔から好きになれないあの独特の魔性の瞳。

 先に道を選んだのは彼女だった。今、菜々瀬は全てを曝け出している。作り上げてきた豪奢ごうしゃな仮面を投げ捨てて、私を奪ることを選んだ肉食の獣。怖い、逃げたい、しかし何故だろう、私は魅入られたように動けない。

「嫉妬してるおねえちゃんも、強がってるおねえちゃんも、ぜんぶ好き。でも嘘吐きのおねえちゃんは嫌い。言ってること、わかる?」

 もう、無駄なんだ。菜々瀬を相手にすれば満たされるかも知れない、そんな未知の世界を希求してしまっているのだから。

「ねえおいでよ、おねえちゃん。だめだめで弱虫のおねえちゃん。わたしの大好きなおねえちゃん」

 好きになれないからこそ惹かれるんだ。その瞳を呑んでしまいたくなるんだ。でもそれはきっと叶わない。あの子は蛇の尾を持つ獅子だ、ぎらつく毒牙を唇の奥底に秘めた狂おしいまでの愛の化身。近づけば終わり。蛇の毒で麻痺させられて、爪と牙でずたずたに裂かれて、十分に味わい尽くしたあとは自分の血肉へと変えてしまうだろう。

 苦しみも喜びも、やがて来る死までもをひっくるめて、恋い焦がれながらあの子は情欲に沈んでいく。太陽のように燦然と輝ける力があるのに、自らを月と認めて私に尽くし付き従うだろう。私だから分かる、私以外には絶対に分からないだろうこの感触。

「ふざけないでよ、あんたになんか私の気持ちなんて分かりっこない、受け止めるだなんて嘯かないでよ!」

「うそつき。ほんとは怒ってなんかないもんね。ずっとこわいんだ、おねえちゃん。かわいいよね、ななだってたいへんなのにさ」

「どの口で嘘吐きなんて言うのよ、どうなっても良いって言うの、嘘を吐かないでよ、そんなこと思っても無い癖に、私がそうしたら拒む癖に!」

「ふふ、どうせできもしないくせに」

 菜々瀬はにやにやと意地悪く微笑み続けている。腹が立つ。歪ませてやる。胸中に浮かぶ全てが呪い染みているのに、何よりも喜ばしいのは何故だろう。

「そう。ならさあ」

 頭痛と倦怠感がすっと抜ける。この時を待っていたと言わんばかりに。

 食欲が沸く。渇いている、とても。だからこそと、心の底でほくそ笑む。

「こうしてもさあ」

 この気持ちをあなたにもあげよう。

 拒否なんて、絶対に。

「いいよねっ……!」

「あっ……!」

 許さない、永遠に。

 これまでの菜々瀬を殺してやる、今からの私が。

 紛れもない私が塗り替えてやる、生意気な口なんて叩けなくなるくらいに。

 真っ白に、真っ黒に、そしていつか透明になるまで。

 殺し尽くす、そして私好みに造り替えて、蘇らせてやる。

「ムカついたから、仕返し」

 思い切りベッドに菜々瀬を押し倒し、乱暴に左手を掴み、奪い取ったそのたおやかな薬指の根元を、強く噛んだ。彼女に煽られた意趣返しと、彼女自身が誰の物なのかを如実に示す傷痕を残したくなった、そんな勝手な自分の為に。

「あぐっ……」

 がりっ。歯に伝わる響き。骨を齧る音。野卑で粗暴でひどく気分がいい。陽の光りを浴びた吸血鬼の八重歯はもう血の糸を引くことは無い。けれどいま、確実な痛みと間違いない束縛を幼いからだに与えただろう。供物となった苦悶の呻きによって、私の鼓動が高鳴っていく。

「これでもう、ぜんぶ私の物」

 最高級の実感が熱く込み上げてくる。恍惚を伴う確信が魂の内側を満たしていく。彼女が蛇なのだとしたら私は一体何なのか、答えはすぐに見つかった。

 私は人だ。食物連鎖の塔を行き来する傲慢な人なんだ。生も死も自分次第、だけど囚われたなら逃げられない、非力な人だったのだと気付かされた。

 そうだ、顔を覗こう。怯えと喜悦の入り混じっているだろう菜々瀬の瞳を。案の定彼女の瞳は夜露に濡れていた。頬は上気し息も荒い。ふと胸がきゅっと絞られた。苦しさでは無かった。なんでだろうか、たまらなく可愛い。今まで最も嫌いな物だったはずなのに、手の平を返したように移り変わる私の感情があまりに不思議で仕方ない。

「その気にさせたのは、菜々瀬よ」

 かちり、スイッチの切り替わる音が耳の奥から聞こえた。

 あいしてくれるって。

 あっ、思わず驚喜しそうになる。身体がどんどん軽くなる、病んでいた昨日一昨日が嘘のよう。

 菜々瀬の耳元で囁いたとき、全ての靄が晴れた気がした。あの子の方が私よりもずっと前に真に必要なものを知っていた。惹かれた理由は分からない、そんなの関係ない。私の心を満たして貰う為に必要なことをするだけだから。

 あなたの爪先に宿した私を愛して貰おう、このベッドに横たわってまた眠りに就くまで、短い時間を永久に出来るまで、罪を認識して貰えるまでずっと、ずっと。

 叶うのならば、薄い乳房に爪を立てて、深紅のマニキュアを施したい。私はもう、この血の螺旋から逃れられないのだし、快楽に浸っても構わないと思う。魔法の色した凍みる泥濘の中で満たされていたい。経験の少なさから来る拙い愛情を、強固な妄想でコーティングしながら私は、幻想へとゆっくり溺れていく。

「おねえちゃ……」

 喋りかけた口を塞いだ。手でなんて無粋な真似は考えに入っていなかった。抵抗できないように両手で腕を抑えて、口と口で互いの唾液を交換し合う。まだ凹凸もしっかりしていない幼い菜々瀬を染め上げる、汚す、蹂躙し尽くす、私以外を考えられなくさせてやる。傲慢な世界の檻の中で味わった初めてのキスは、古びた牢屋の鉄錆の匂いと、甘美な罪の味がした。

 みるみるうちに丸くて愛嬌のある目に大粒の涙が溜まり、やがて表面張力を失い、重力に導かれるように後ろ髪の方へ消えていった。

「綺麗……」

 凄い、大人の泣き方だ。もしかすると女優かな。あまりにも堂に入っているものだから逆に何だかおかしく思える。私が放った弓矢で傷ついているのは分かっているのだけど、無意識のうちに本心がぽつり零れ落ちていた。

 菜々瀬のパジャマのボタンをゆっくりと外し、すべすべとした腹部やふくらみの少ない胸部を撫で擦ったとき、との違いに気付いた。

 男は硬い。非力な私じゃくしゃくしゃに出来ない。質感だってごつごつとしている。胸板に筋肉、声に匂い。どれをとっても精気に満ち溢れ過ぎていて手に負えない。

 しかし女はどうやら違うらしい。柔い、丸い、香気なんてとても甘ったるい。菜々瀬は果物みたいって思う。その気になれば握りつぶせそうな危うさがある。みずみずしくて、甘そうで、無茶苦茶にしてやりたい。

「あっ、んっ……」

 軽く撫でるだけで喘ぐ姿にこの上ない達成感を覚える。乳房に吸い付いて、合間に首筋に強く吸い付きながら、彼女のズボンに手を掛けたとき確信する。そうか、私の地上はここなんだ、と。

 降り立つべきところに浮くことなくべたりと地に足つけて立っている実感が教えてくれる。ああ私は変わったんだって。

 変わりゆく体が教えてくれる、背徳に塗れたことをこそ喜べと、随喜の涙を流して仄暗い夜に眠ってしまえって。

 認めてしまっても良いのだけれど、何となくで取り込まれるのも癪に障った。これ以上は駄目だと思い、逃げるように顔を逸らそうとした。だが菜々瀬は一切慮らなかった。強かな蛇である彼女にとっての一生に一度あるか無いかの捕食するチャンスを逃す訳が無い。手の拘束を跳ねのけて、離れようとする私の体にしがみつく。再びのキス、さっきよりは浅い。けれど二度目のキスはカラメルみたいに甘かった。どうしてこんなに違うんだろう、その違いの見当がつかない。甘くて苦い、涙が出そうなくらいに美味しい。

 遮二無二更新されていくこのしとねでは、常に最新の潤いが二人に提供され続ける。塞がれた唇をあの手この手でこじ開けて、犬歯の尖り方を舌先でちろちろとなぞりながら確かめていけばやがて必然は訪れる。小器用に動き回る舌と唇がお互いを貪り合って、指先で水面を弄ぶかのような水音を狭いベッド上に響き渡らせた。

「おねえちゃ……」

 マイペースな私の舌遣いに全てを委ね、頬を深いさくらんぼ色に紅潮させながら、目尻に涙を浮かべる菜々瀬の姿が愛おしくて仕方ない。瞬きと同期して跳ねる睫毛に目を奪われた。枷の外れた世界はこんなに綺麗だったんだって、初めて知った。

 身体が熱い、服という服を千切る様に脱ぎ捨てた。視界が激しく揺らいでいく。病んだようなやり取りに浮かされているからだろうか。キスの余韻が残る唇で鈍く光る言葉たちをぞんざいに扱った。

「おねえちゃん……」

「ねえ、幸せ? こんな風にめちゃくちゃにされてもそう言えるの?」

「わたし、わたし……?」

「ええ、そう。そうよ、菜々瀬、あなたに聞いてるの。嫌いになったって言って」

 淀んだ私が遮られる。私の手を取って菜々瀬は、濡れた睫毛をしならせ、愛おしそうに呟いた。

「ううん、うれしいよ。ななね、おねえちゃんのことだいすきだから」

「……そう、そっか」

 何故だろう。その言葉を聞いた瞬間、鬱積していた怒りが嘘みたいに消え去った。身体が軽い、息がしやすい、好きと言われただけで何でこんなに。分からない、分からないことさえ愛おしく思える。

 渦巻いた感情が目頭を熱くさせていく。いいんだ、構いやしない。泣いたっていい、背中に張り付いていた奇妙な重荷が無くなることの方が余程嬉しいから。私を認めてくれる存在が確かに居る、ただそれだけの確証が得られたのだから。私を陸深として求めてくれる菜々瀬ひとが居るんだって気付けたんだから。

「おねえちゃんは……?」

「好きかは、正直分からない」

「うん……」

「でも、離したくない。馬鹿みたいだけど、そう思う」

 涙まみれの菜々瀬の頬を親指の腹で軽く撫でた。気持ちよさそうに笑う彼女に淡く笑みがこぼれる。

 ああ、この嬉しそうな微笑みは好きかも知れない。

「えへへ……ななは、すき。もっと、して……」

 私の左腕に絡みつく彼女の両腕に、確かな重みと熱量を感じる。視線の先には月の光を吸収した人差し指と中指の爪が、闇の中でしるべとなるように輝いていた。つぷつぷ。みずみずしい嬌声が響いて、艶めかしいものをこじ開けて、そしてゆっくり秘密へと沈み切る。一線を超え、ぬらりと光る甘い肉を食むときが来たのだ。本能が教えてくる、産まれた時に外れてしまったパズルのピースが嵌まろうとしているのだと。

 シーツがぎゅっと撓んだのは、きっと僅かな抵抗なのだろう。でも私たちなら世界の色を変えられる。だから大丈夫、自信を分け与えよう。彼女と私の緊張を解すために、脇腹から乳房にかけて舌を這わせた。

「やっ、おねえ……」

「陸深って呼んでよ」

 私を深く、深く刻み込む。ありふれた記号なんて要らない、確固たる陸深わたしが欲しい。戸惑うあの子を置き去りにしながら悦に入り、囁く。

「呼ばなきゃ、これ以上しない」

 涙を浮かべた瞳が僅かに躊躇うのを見て、うれしくなる。悩んでいる、私のことで。たったそれだけの些細な仕草で心の核の部分がじっとりと熱くなっていく。

「むつ、み、ちゃ」

「ちゃんと、呼び捨てて」

「陸、深」

「もっと、ちゃんと」

「睦深……!」

 かちん。あっ、嵌まった。

 もう、戻れないや。

 ずくんと下腹部が疼いたのはきっとシンパシーから来るものと、微かに流れる赤の滴に想起させられたんだろう。私と菜々瀬を着飾る幻に溶けるピアスの穴が、いま開いた。

「いいね。ご褒美、あげる」

 喘鳴に混じって浅く歓喜の息を漏らす菜々瀬の首筋に唇で噛み付いて、世界のレールを敷き直す。十六時もまだなのに、辺りには夜の匂いが充満していた。私たちが寝る場所はこの新品のベッドで、だからもう古いベッドは要らない。変化は切望していたけれど、まさかこんな形で訪れるとは夢にも思わなかった。

 見えるけれど遠い所で、形の違う二つの幻がゆらめく。星のように見えるそれは、お互いの身体を求めあう度に鮮明に煌めく。朝は二度と来ないだろう、私の目の前にはもう生命の源たる太陽は無い。

 私は彼女を照らしている。自分の姿など太陽は見ることは出来ないのだから。


 ああ、とても疲れた。大きく息を吐くと瞬きするより早く、緊張していた筋肉たちが弛緩する。随分と長く交わっていただろうか、楽しくもあり悲しくもある時間はひとまずの終わりを迎えていた。枕元に置いていたミネラルウォーターで喉の渇きを癒す。とんでも無いことをしでかしたことより、多大な充足感が全身に漲っていた。

 情事の疲れからか彼女は既に寝息を立てていた。体力を失っても肉体の張りと艶は変わらない。私と菜々瀬の汗だくの身体を近くに置いていたフェイスタオルで軽く拭って、しかし裸のままで布団を被り、端正な顔にくっ付いた小さな耳へ囁く。

「……おやすみ」

 そしておはよう、私。堕落をしないであろう私。菜々瀬に会いに来た世界線の私。

 だから、さよなら。二度と会えぬ私だけの私よ、どうかいつまでも安らかに。

 いつか二人を繋ぐ純血のマニキュアが彼女の爪から剥がれ落ちるだろうその日まで、私はあなたと違う人生を歩む。悪夢を食み続けてくれた獏の手招きに従って、寂しくも明るいこの廊下を。

 彼女を自らの物にしていく最中で、己の核心も得たから。私はきっと、理解されたかったんだ。私の価値を認めて欲しかったんだ。大切にされたかったんだ、そうしてくれるならだれでも良かったんだ。例えそれが同性でも、三親等以内だろうと、倫理感と法律が許さなくても誰かが、誰か一人にでも認めてさえくれれば、私は。

 それだけで、良かったんだ。

 私は間違いなくここに居る。例えそれが菜々瀬の犠牲の上に成り立つのだとしても。知ってしまった私にはもう帰る場所など無い。色んなものを巻き込んでいつか命を枯らすまで、私の信じた何かを、私を信じる何かを大事に抱えて歩んでいく。

 好きと嫌いが反転する、瞬間。

 胸が、胸が温かくて、痛くて苦しくてたまらない。ぎゅっと菜々瀬を抱きしめて、滑らかな肩口に頬を当てた。

「……ふふ」

 初めて二人になれたのに、悲しくなんて無いのに不思議と涙が流れ続けてしまう。嗚咽が止まらないとかじゃない、壊れた水道みたいに噴出し続けている。原因はなんだろう、安心なのか後悔なのか、はたまた別の理由なのか、もう見当もつかない。ベッドシーツには吸いきれなくなった涙が水たまりみたいに溜まりつつあって、でもそれがどうしようもなく綺麗で、私たちの新しい世界の象徴にも思えた。

「ごめんね……」

 すうすう穏やかな寝息を立てる菜々瀬に向け、出来る限り声にして謝罪の念を形にしよう。謝ることを免罪符にする気はない。でもそれぐらいしないと心の整理が付けられそうになかったから。

「……ありがとう」

 そして、同じ大きさで感謝を伝えよう。そうすればきっと、何かに会えると思った。

 今までありがとう、この私はきっともう、寝る以外でベッドを必要としないだろうから。水っぽい目蓋を閉じる寸前、窓から差し込んだ月の光がいやに優しく感じられたのはきっと気のせいじゃないと思いたいんだ。

「むつ、み……おねえちゃん……」

 きっとこれから私は、菜々瀬の好きなものを余さず好きになっていくんだろうって、そう思ったとき、見えた。座り込んでいるのだろうか、間違えようのない特徴的な稜線を描く背中のフォルム。あの時の獏が振り向いた。

 獏は困ったような表情で、優しく笑っていた。欲しい は手に入ったかい? 欲しいを失くしちゃだめだよって笑っていた。柔らかなぬいぐるみに似た彼の目元はしっとりと変色していて、泣かないでって素直に言おうとしたとき、はっと理解してしまった。

 ああ、そっか。見えなくなるんだ、きっと。悪夢を見るのを止めたから、さようならを言いに来たんだ。海中に潜ったみたいに霞んでいく視界が教えてくれていた。

 幸せの対価に宿った彼は何かの言葉を待っている。どうせ喋るなら楽しい方がいいと思ったから、鮮烈なマニキュアを施した菜々瀬の薬指を、自分の唇が触れるところまで寄せて囁く。

 ねえ菜々瀬? 聞こえるかな?。

 私の獏は、もうお腹いっぱいなんだって。

 だからこれから陸深のことをよろしくねって。むつみを好きになってくれてありがとうって。恩返しにステキな夢を見せてあげたいんだって、一緒に見てくれるかなって。

 そう、言ってる。そう、光ってるんだ。勝手かも知れないけれど、これからよろしくね。そう言って彼は光に溶けて、風景になって私の目の前に広がった。

 ありがとう、さようなら。くしゃくしゃに歪んだ視界じゃ、もうそれぐらいしか言えないけど、笑ってくれたら嬉しい、なって。

 変わってく、何もかも。変わりたくなかったものだって、全部を巻き込んでいって。微笑む獏が遠くに消えていく。きっと変わるんだ、あの子も。そして私も。

 霞む、潤んでいく、目の前の靄の中にぼんやりと夢が溶けていく。お別れのじかんだ。愛をしたためた爪が光る。明かりが遥か彼方からやってくる。

 私の常闇の暗がりが、夕焼け色に変わっていく。私の獏が、夕焼けに変わる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕闇に光るポリッシュを 塩化+ @mineralruby37

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ