『友情スパイス』

 冒険者見習い一日目の朝。

 安アパートの天井を恋しく思う道理はないが、寝惚け眼で見慣れぬ天井に迎えられるのはどうにも落ち着かなくていけない。ぎょっ、とした拍子で頭が覚醒する。


「……朝、か」


 新しい事への挑戦が始まる期待感や緊張感は不思議と湧かず、ベッドから這い出ようとする葵の頭にまとわり着いて離れないのは、とある人物の事だった。

 教室での衝撃の出会いを経て以来、朱莉とは顔すらも合わせられていなかった。寮内にある食堂での夕食の際も翠李と二人きり。


「完全に避けられてるよねぇ……はぁ」


 自分に明らかな落ち度があったのであれば未だしも、初対面の相手に対して常識を逸脱したコミュニケーションを図ってきたのは向こうの方である。しかし、葵としても朱莉に対して謝罪を求めている訳ではなく、一般的に見て普通で無難な関係性を築きたいだけである。それ以上の良好さは求めていない。

 寝間着の上から入寮する際に手渡されたジャージを着る。紺色で無地のシンプルなデザインのジャージ。学生時代を思い起こさせる姿見に映る自分の姿に、葵は苦笑を漏らす。


「無いのはネーミングのセンスだけじゃない訳か」


 やれやれ。文音の誇らしげに胸を張る姿を想起し、言い様のない滑稽さを感じつつ部屋のドアを開けた。


「あっ——」


 通路を挟んだちょうど向かいの部屋のドアが開かれている。ドアから顔を覗かせているのは事も在ろうかくだんの朱莉その人。どうやら同時に部屋を出るところだったらしい。


「おは、よぉ……」


 葵が笑みを繕うよりも早くドアが閉められた。

 目が合った数秒の間が向こうも挨拶をしようか、と一考していた時間である事を願わずにはいられない葵だった。




「あれから一言も、ですか?」

「一言も、っていうより顔すらまともに合わせてないよ」


 寮から養成施設までは徒歩で数秒。

 昨日は建物を分ける必要性に関してただただ疑問だったのだが、移動時に生じるこうした些細な時間も有意義な場合があるものだ。朱莉との関係性について自然と翠李に相談していた葵はしみじみと実感する。


「余程お気になされているんでしょうね。けれど、それだけ朱莉さんも昨日の事に関して申し訳がない、と反省されている何よりの証拠とも言えるのではないでしょうか」

「そうなら良いんだけどね……」


 今朝の態度を鑑みると、翠李の見解を鵜呑みにはできない葵。

 気まずい、という感情は恐らくお互いが共通して抱いているのに違いはないだろう。が、向こうが何に対して気まずさを覚えているのか、が問題だ。自身の行動を省みた結果の気まずさであれば、こちらからアプローチを仕掛ける選択肢も生まれるはずだ。

 先ず教室のドアを開けて入っていくのは翠李。その後方からやや遅れ気味で入る葵。恐る恐る視線を巡らせてみるが、朱莉の姿は確認できない。未だ来ていないようである。

 ほっ、と胸を撫で下ろしてしまう自分を戒めつつ三つ並んだ席の一番奥へと向かう。間に空席を挟んで翠李が座っている。その僅かな距離が余りにも遠く思えてしま。


「おはようございます、朱莉さん」

「ん、おはよう翠李」


 思わず両肩に力が入る。浮き上がりそうになった腰を何とか制し、ぎこちない動きで首を回す。瞬間、自分の席へ向かう朱莉と視線が交錯する。朱莉が一瞬だけ動きを止めたように見えたが、すぐに視線を外して席へと着く。

 もはや退路はない。背にするは奈落へと続く崖。攻めねば、己を待っているのは無慈悲な破滅だけ。やるんだ、葵。その為にここへ来たんだろう——自身を鼓舞して奮い立たせた葵が仕掛ける。


「お、おはよ——」

「グッモーニーン! やっぱり席が埋まってるってのは良いわね、最高ね」


 最低で最悪なタイミングを図ったかのようにして文音がドアを開け放ちながら入って来る。彼女にとって今の教室に広がる光景は待ち望んだものに違いは無く、こうして上機嫌になるのは理解できると言うもの。しかし、葵にとっては千載一遇の好機を潰した害悪以外の何物でもない。


「反応悪いわねぇ。そんなんじゃ立派な冒険者にはなれないぞ?」


 捲し立てるように芝居がかった口調で茶化してくる文音の姿に、葵は苛立ちを募らせるのだった。




 乾いた薪の束を運んでくる翠李の所作は、その賢明さとは裏腹に危なっかしくて見てられなかった。ニンジンを切る手を止めて朱莉はフラフラと揺蕩う翠李の方へ駆け寄った。


「力仕事は私がやるから、翠李は具材の下拵えをお願い」

「ごめんなさい。わたくし、箸よりも重たい物を持った経験がなくて……」


 それならば何故、冒険者になろうとした。心の内でそう呟きつつ、朱莉は翠李から薪の束を受け取る。見た目以上の重量感が両腕に伝わってくるものの、朱莉にとっては大した重さにも感じられなかった。

 二の腕を摩りながら調理場の方へ歩み出す翠李を見送りつつ、その向こうに見える手洗い場で米を研いでいる葵の姿を確認する。一心不乱に下を向いて作業に従事している為、目が合う心配はいらないだろう。


「……自分が嫌になるな」


 詳しい為人ひととなりを知る由もないが、それでも昨日から続いている自分の態度を見て避けられている自覚を持たない程に勘の鈍い人間でもないだろう。現に、何度か関係性の修復を図ろうとしてくれているのは確認できている。

 そこまで分析した朱莉は深い自己嫌悪に、目眩にも似た感覚に襲われる。持っていた薪の束がこぼれ落ちそうになる。


 ――不器用なお前に、チャンスをやる。


 昨日、呼び出された際の文音の言葉が脳裏で反響を繰り返す。

 サバイバル演習と銘打たれてはいるものの、これは完全なるお遊びに違いない。材料も器具も万全に備えられており、作る物もカレーライス、と定番中の定番である。

 一見して翠李も葵も何の疑問も抱かずにいる様子だが、前日に文音から葵との関係修復について言及されていた朱莉だけは察していた。驚きがあったとすれば、文音の思慮の浅さくらいである。方法があからさま過ぎるのだ。


「不器用なのはどっちですか……」


 けれど、この愚直さにも文音からのメッセージが込められているのかもしれない。あれやこれやと考え過ぎてしまう自分の短所を暗に指摘してくれているのかもしれない。咄嗟の思い付きや勢いで判断を下す大胆さも、時には必要なのであろう。

 大きく深呼吸をしてから朱莉は歩き出す。その表情に翳りはなく、どことなく未だ少しだけ肌寒い清々しい春風を思わせる。


「火、起こすね」

「え、あっ、うん……うん、よろしくっ」


 始めは予想外の事に戸惑っていた葵だが、すぐに表情を和らげてくれた。

 薪を置いた朱莉は、米を研ぐ葵の一つだけ間を挟んだ横の蛇口を捻って手を洗い始める。


「……昨日はごめんなさい。私、どうかしてた」

「あはは……少し驚きはしたけど大丈夫だよ、気にしてない」


 水の冷たさが有難い。熱くなっている顔の熱を下げてくれている。

 年齢を重ねる毎に謝る、という行為そのものが気恥ずかしさを伴いだす。昔から謝る事が苦手だった朱莉に関しては、特にそうであると言えるのかもしれない。


「蒼井葵、改めてよろしくね」


 差し出された手を握り返す。


「赤井朱莉、こちらこそよろしく」


 その日食べたカレーライスの味は、特別に美味しかった。

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